無料オンライン企画ハイスクールアカデミア受講者受付中!/新井和子

ハイスクールアカデミア開催
2021年3月25日(木曜日)14:00-15:00

無料でオンライン参加できる企画のお知らせです。

公益財団法人文京アカデミーが企画する「ハイスクールアカデミア講座」。中高生を対象にこれからの進路の先にどのような職業があるのか、さまざまな業種の先輩方の話を聞く企画です。

今回「舞台人/太鼓奏者」として三枝晴太が話をする機会をいただきました(写真右)。ナビゲートするのは鼓童ハートビートラヂオのパーソナリティとしてもおなじみ、小松崎正吾。(写真左)

話の内容は中高生に向けてですが、今回はオンライン開催ということで、文京区以外の全国どこからでも大人の方でもメールアドレスお持ちの方ならどなたでも参加可能です。

進学校に在籍していた高校時代にどんなきっかけで鼓童研修所の門をたたいたか、今はどんな生活をしているのか、今後の夢は・・・
飾らない等身大のトーク企画。是非ご参加ください。

ハイスクールアカデミア

日時 2021年3月25日(木曜日)14:00-15:00
対象 どなたでも(メールアドレスをお持ちの方)
定員 30名 ※前日まで受付可
料金 受講料無料
お申し込み https://www.b-academy.jp/manabi/060123.html
お問い合わせ アカデミー文京 学習推進係 Tel. 03-5803-1119

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その4:2010年〜2020年 前編/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>
<その2:1990年〜2000年のブログはこちら>
<その3:2000年〜2010年 前編のブログはこちら>
<その3:2000年〜2010年 後編のブログはこちら>

【2009年9月打男公演 と 2009年9月うぶすな公演 】

坂東玉三郎さん演出による新たな舞台『打男 DADAN』は2009年9月に東京・世田谷パブリックシアターで初演しました。公演タイトルの如く、男性7人に絞った小人数の試みでした。人数は少ない中でも若さの持つ力・集中力・瞬発力を活かした新進気鋭の大太鼓奏者たちの構成となりました。そして、鼓童の舞台では初めての試みでしたが、固定カメラを舞台上や袖に設置したり、演奏者自らがカメラを構えて映し出すという驚きの演出でした。

舞台上を演奏者自ら撮影をするという驚きの演出だった当初の「打男」公演(撮影:田中文太郎氏)

客席に響き渡る生演奏とともに、演奏者たちのほとばしるクローズアップされた映像がスクリーンに映し出され、有機的に絡み合い、新しいうねりとなって鼓童の魅力を引き出してくださいました。

それは、ひとりひとりの個性とエネルギーを輝かせてくれただけではなく、演奏者がカメラを構えて客席のお客様を映し出すというユーモアも取り入れた「音と映像と観客の心の参加」という3つの柱で構成された素晴らしい演出でした。

その後2010年には全国ツアーをおこない、2012年2月にはパリで海外初となる『打男 DADAN』を上演しました。

このあとも、仕込み等の工夫を凝らして機動性のある構成に仕立て直していただき、キャスト人数を増やして映像なしバージョンで欧米やアジアでも再演を行なってまいりました。

まさにひとりひとりの個性と肉体を鍛え抜いて、ひたむきに打ち込み続け、「精神と肉体と技術」の三位一体の高い技量が求められるプログラムになりました。

私はこの『打男 DADAN』の舞台は若手大太鼓打ちの登竜門として、基本育成のためにも、定期的に再演を行っていける重要な作品になったと思っています。
このような作品を作っていただいた玉三郎さんには心から感謝しております。

一方で私は2007年頃から、この『打男 DADAN』企画とは別に、ベテラン組(吉利千絵子容子幹文栄一)を中核とした編成の『うぶすな(産土)』公演を同時進行で進めていく準備をしていました。

このことにより、2009年頃から交流学校公演を含めて、3班の公演体制となり、鼓童グループの多様性の魅力をもとに、新たな鼓童ファンの獲得と掘り起こしへのアプローチを目指していきました。

玉三郎さんに若手の育成を軸とした舞台をお願いし、私は経験の蓄積というものの強さをもとに『うぶすな』公演を演出しました。私には演出という仕事の素養もなかったので、「演出」というよりも「まとめ役」といったほうが正しいかと思います。実際は1992〜2003年まで鼓童代表を務め長く演出や音楽構成を担ってもらっていた山口幹文のサポートや舞台スタッフたちの力を借りて、なんとか取り組むことができました。

『うぶすな』公演で私がテーマにしたことは下記になります。

佐渡という地に集い芸能という縁で結ばれ、今日に至る鼓童の礎を築いた藤本吉利小島千絵子藤本容子山口幹文齊藤栄一

(撮影:西田太郎)

(撮影:西田太郎)

歌い、踊り、打ち続けることによって芸能に息づくエネルギーを絶えず注ぎ込み鼓童の舞台を牽引してきたこの5人に仏教の考え方にあるエレメンタルな「五大」と「五色」と「五輪塔」をイメージしてみました。

「地」=黄=四角=すべてのものの支え。それは齊藤栄一
「水」=緑=円=すべての言葉を潔める。それは藤本容子
「火」=赤=三角=すべての欲望を焼き尽くす。それは藤本吉利
「風」=白=半円=すべての対立を吹き払う。それは山口幹文
「空」=青=団=果てしなく大きいもの。それは小島千絵子

このイメージを舞台上で具現化するという意味ではありませんでしたが、私自身の「うぶすな」の基本的な個々の演出イメージとして取り組みました。

うぶすな(産土)とは人の生まれた土地を意味します。

鼓童が佐渡の大地でうまれ育み、そしてこれから50年、100年と続けていくためにも継続してきた魂の営みを見つめ直す舞台となれればという思いでした。

『打男 DADAN』と『うぶすな』の企画は対極であるように見えるかもしれませんが、実は根幹は同じところにあります。
『打男 DADAN』は無垢な存在で、野生のこころで無心に ひたすら打ち込んでいく新しい生命の躍動という原始の姿とするならば、『うぶすな』は還暦、つまり、生まれ変わり新しい生命が誕生するという原初の姿の根幹なのではないかと、自分なりに想像していました。
ちょうど、最年長の藤本吉利が還暦を迎えた時期でした。

そして、どちらの公演も「人間の内面的価値の美しさ」を探求していく舞台でありたいということに変わりはありませんでした。

時代を超えて、ふるきものとあたらしきものが有機的に絡み合った時に、新鮮で力強い息吹が吹き込まれていくと信じています。

鼓童が他のグループにない要素として、若さの躍動と熟練の技というひたむきで多様な世界を表現できるグループになってきたのではないか、そういう時期にあることを感じたのはこの頃になります。

たえず「精神と肉体と技術」を鍛え抜いて、ひたむきに打ち込み続けること。そういう姿勢をいつまでも失わないグループでありたいと願っています。


【2011年 創立30周年】

2011年は鼓童創立30周年、そして岡本太郎生誕100年の記念すべき年でもありましたので、決意を新たにし、数年前からいろいろと準備をしていました。
そのひとつとして、鼓童三〇年の軌跡を未来に語り継いでいくために、数年前から記念誌の出版プロジェクトを発足し、鼓童グループ一丸となって『いのちもやして たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』という記念誌を出版しました。
「いのちもやして、たたけよ。」は前身の鬼太鼓座時代から照明家として長年活動を見守ってくださった故・原田進平氏にいただいた言葉です。

アース・セレブレーション’89での原田進平氏(撮影:迫水正一氏)

また、1983年に岡本太郎さんに揮毫いただいた「鼓童」の文字をあらためて公演のポスターなどに使わせていただくことにしました。岡本太郎さんの「芸術は爆発だ!」という力強いパワーをいただきながら、鼓童結成時のメンバーから次代を担う若手メンバーまで総力を結集した30周年にふさわしい舞台づくりの演出を石塚充に託し、日本縦断ワン・アース・ツアー公演を企画しました。

岡本太郎氏の揮毫による「鼓童」の文字幕にいただいた、全国の公演主催者の皆様からの創立30周年のお祝いメッセージ(撮影:西田太郎)

特に東京の劇場は岡本太郎さんの「こどもの樹」というモニュメントのある青山劇場(こどもの城)での連続公演を目指しました。

渋谷にある岡本太郎氏のこどもの樹モニュメント(撮影:西田太郎)

また、2011年2月26日には六本木ヒルズで実施された岡本太郎生誕100周年イベント『TARO100祭』にも出演させていただきました。

『TARO100祭』での演奏(撮影:西田太郎)

そして・・・この後3月11日に東日本大震災が発生しました。

この未曾有の災害の出来事の時にも、いろいろと考えさせられました。

私たちの活動はなんのためにあるのだろうか。
私たちにできることはなんなのだろう。

日本では古来より地震や津波という自然災害を経験しながらも、再興していく辛抱強い生命力がありました。
それは、自然というものを尊び、感謝しあいながら、励ましあいながら人々は謙虚に暮らしてきたからだと思います。
そして、いつの時代も太鼓や芸能は怒りや憎しみを鎮め、悲しみや苦しみを癒す役割がありました。

私はこの役割こそが、「鼓童」=芸能の存在理由だと思っています。

2011年の東日本大震災や2020年のコロナ禍の現状においても、この役割が重要だと信じています。

こんな時代だからこそ、私たちは世界中の人たちに未来を信じるチカラと勇気を太鼓の言霊で轟かせ、夢と希望を届けたい。
と願いつつも・・・・・
芸能・芸術活動において、収束の見えないこのコロナ禍の影響は計り知れないものがあります。


【2012年 太鼓芸能集団鼓童の芸術監督】

「能や歌舞伎、オペラやバレエなど、時代を超えて伝わっている優れた芸能文化には、物語性、音楽性、構成、そして個人芸という共通した要素が含まれています。それが揃っている芸能はいつの時代でも生き残って行けるのです。」
これは坂東玉三郎さんとの対話の中でお聞きしたお言葉です。

太鼓芸能集団鼓童がこのすべての要素を調和させた舞台づくりに挑戦し続けていくためには、どうすればいいのか、考え続けていました。

私は玉三郎さんに鼓童の芸術監督になっていただき、日本人の美意識や芸術の在り方をさらに深く学んでいく必要性を強く感じていました。

そして、2011年頃から玉三郎さんに鼓童の芸術監督になっていただけないか、ご相談をさせていただいておりました。

この頃の玉三郎さんは2011年に第27回京都賞(思想・芸術部門/公益財団法人稲盛財団)を受賞され、2012年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された時でもありましたので、かなり恐れ多いお願い事をしていたことになります。

「人間国宝」に認定された玉三郎さんへ鼓童からお祝い(撮影:洲﨑拓郎)

ところが、玉三郎さんは快諾くださり、2012年4月に鼓童の芸術監督にご就任いただきました。

このことにより、「太鼓打ち」としてだけではなく、「舞台人」として成長していくための研鑽をさらに積んでいけることになりました。

芸術監督になっていただいた後は、作品づくりだけでなく、メンバーの体調管理から研修所のことに至るまで、全体にわたる指導をしていただくようになりました。

そして、『伝説』『神秘』『永遠』『混沌』『螺旋』と、今までの鼓童の常識に囚われることなく、果敢な新作の舞台づくりの挑戦が始まりました。

『伝説』(2012年)

『伝説』の創作過程で玉三郎さんからお聞きした印象深いお言葉は
「将来の作品については、今までに有った太鼓の打法を基本に置き、新しい構成で、新鮮な作品をお見せ出来るように努力しようと思っています。重厚さの中に軽妙さが垣間見られ、見た目にも美しく、楽しめ、深淵な香りが漂う舞台創りが出来たらと考えています。」

「素朴でありながら華やかさを有し、郷土的な雰囲気を放ち、しかも現代に通じていなければなりません。」

この舞台では玉三郎さん作曲の「カデン」で初めてティンパニーを取り入れ、太鼓だけでは表現できない「太鼓の響きの後の余韻」を重要視され、鼓童の表現の幅を広げて下さいました。

『神秘』(2013年)

『神秘』では
「今までの鼓童の太鼓は 太鼓と向き合い、闘いの太鼓なのです。打ち手と太鼓の格闘。打ち手の自己陶酔に陥り易く、お客様を置いてきぼりにしてしまうこともあります。打ち手の技量や人間性にも左右されるけれど、感動、喜び、涙・・・を届けるためにはその時の状態によって左右されることなく、物語として、音楽として成立させていかなくてはなりません。だから、今は 音楽として届けられる太鼓を目指しています。」
という芸術監督のご提言のように・・・・

『神秘』からは、ほとんど新曲で構成され始め、演劇的な要素も取り入れ、蛇舞などにも挑戦することになりました。そして、この公演からは自然な流れで「従来の半纏」も「締め込み」も「大太鼓」も演目からなくなり、物語性、音楽性、構成を重視した舞台づくりになっていきました。

この頃鼓童の古くからのお客様には、今までとは違う方向性に対する違和感もあり、賛否両論が渦巻くことになりました。

しかし、芸術監督は常々、「芸術はどんな時代にも、賛否両論ある中で継承と発展を繰り返してきたのだと思います」ということをおっしゃっていて、私自身も強く共感していました。

私は創造活動において『岡本太郎と太陽の塔』の書籍に書かれていた岡本太郎さんの言葉にも刺激を受けていました。

「・・・・徹底的な対立こそ、ほんとうの協力なのだ。同調、妥協は何も生み出さないし、不潔である。
悪口大いに結構、猛烈な非難と絶賛と相反する評価が渦巻く方がほんとうだと信じている。はじめから結構でございますで済んでしまうようなものは意味はない。」

「岡本太郎と太陽の塔」より文面抜粋

それまでの鼓童は「半纏・鉢巻き」の衣装を変えようと考えたとしても、何かに縛られているかのように、思い切って変えることはできませんでした。「これが鼓童の衣装なのだ」という固定観念から逃れられなかったのです。

過去を大事にしながらも、狭い視野を広げてくださり、従来の価値観を解き放つ大切さを教えてくださったのは芸術監督でした。

『永遠』(2014年)

『永遠』もすべて新曲で構成され、鼓童にとって新たな領域に入る舞台となりました。
創作過程で芸術監督からは下記のメッセージをいただいておりました。

「永遠というテーマについて自分なりに思いを巡らせていたある日、ふと『自然の営み』が螺旋状に続いて行く、という考えに行き着いたのです。厳密に言えば『永遠』というものは無いのかも知れませんが、それに繋がるきっかけとして夜明け・光・雨・風・雲・波・星々・夕暮れ・星空その中の『人間』というものが思い浮かび上がってきました。」

『・・・永遠は、私たちの思い込みの幻想なのでしょう。
ビッグバンが起こり、全てが破壊されてしまうが、この宇宙さえも永遠ではありません。今回の舞台では「永遠に見ていたいもの。」「永遠に聞いていたいもの。」「永遠に感じていたいこと」
これが「永遠であれ」と願うものが表現されていれば、お客様は、舞台の現象から、永遠を感じてくれるのではないかと思ったのです。』

この作品では、従来の太鼓芸能表現だけではなく、そこに「音楽」としての感覚を兼ね備えて、普遍的に存在する森羅万象、つまり、自然界の美、夕日、朝日、海、空、雨、心地よい風、さざ波、星空、など・・を楽しく、美しく、純粋に表現できるようにと、鼓童メンバーたちの深遠な感性 と個々の技量を求められた舞台となりました。

『混沌』(2015年)

『混沌』ではドラムセットを3台購入し、鼓童メンバーが演奏するという驚くべき事態になりました。私自身は芸術監督の見識を信頼していましたが、多少ドラム演奏の経験がある鼓童メンバーはひとりしかいませんでしたので・・・
さすがに・・・ドラムセット3台は・・・本当に可能なのかと、・・・
と半信半疑でした。

しかし、
「混沌から融合へ、それは宇宙の成り立ちを考えれば当然のことですし、人間の心自体が混沌とした中に浮遊しながら存在するのかも知れません。混沌とした中から融合が見出され、そしてまた混沌として散らばって行く…。」という芸術監督からのメッセージを辿りながら、

構想から3年かけて、元ブルーハーツのドラマーの梶原徹也さんの強力なご指導を仰ぎながら、鼓童流のドラム稽古が始まりました。

「ティンパニー、ドラムセットはもちろんのこと、和太鼓も西洋打楽器も含めて、すべて打楽器であることにはまったく変わりがないという」玉三郎さんの揺るぎない考え方のもとで、なんとタイヤも楽器になりました。

新しい楽器へのチャレンジと、西洋楽器ドラムの鼓童的打法(太鼓打ちのドラムという新しい音)の発想は「世界一の打楽器奏者を目指してほしい。上質な舞台人であって欲しい」という芸術監督の言葉のように、音楽的な広がりのある作品づくりのために必要なステップだったのだと思います。

私は2018年4月から始まった〈NOVA〉のものづくりを通じて、演出家のロベール・ルパージュ氏が掲げたビックバンから生命体が誕生し、破壊され、再生していくという人類の普遍的なテーマと、玉三郎さんの「永遠」「混沌」の目指すテーマが重なり合っていたことに気づき、のちのちとても驚きました。

『螺旋』(2016年)

『螺旋』は玉三郎さんに演出していただいた鼓童単独舞台『鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ』『打男』『伝説』『神秘』『永遠』『混沌』に続き7作目の作品で、玉三郎さんにご指導いただいた16年間の集大成ともなり、創立35周年の記念すべき舞台となりました。

2012年より芸術監督としてのご指導を受けながら、伝統とは革新の連続であるからこそ生き残ることができるということを実感させていただいた日々でした。

 

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

東日本大震災から10年/船橋裕一郎

東日本大震災の発生から10年目を迎えた本日、震災で犠牲になられた全ての方々に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、2月には福島・宮城を中心に再び大きな地震がありました。被災された皆様にお見舞い申し上げます。

あの日から10年。

私たちのような芸能に携わる者ができることは何なのだろうと自問を続けながらも、いくつかの地域を訪れ、被災された地域の復興と皆様の御平安を祈念してまいりました。

10年前のあの日を忘れず、この先の10年、その先の10年と太鼓の響きが皆様の少しでも活力の一助となれるよう音を届け、皆様を応援し続けて参ります。

鼓童代表・船橋裕一郎

※本日3月11日12:00より【鼓童YouTube】にて、ハートビート・プロジェクトで作られた楽曲『また明日』の演奏動画を公開いたします。

 

迫る力/三枝晴太

佐渡はまだまだ寒いです。

鼓童村では、ニューアルバムの録音が進行しています。

Photo: Yuki Hirata

私はこのアルバムの取りまとめを、平田裕貴と共にしています。

生音を稽古場で感じたり、レコーディングブースに入って実際に再生される形を聴いたり、演奏を録音する立場になったり。

Photo: Yuki Hirata

目をつぶって聴いていると、演奏が進行していくにつれて、どんどん気持ちが高揚してくる感覚があります。

気持ちを高揚させるものの正体は何か、を考えていました。

「音量」なのか?それ以外のものなのか?

Photo: Yuki Hirata

音であれば、間違いなく録音され、みなさんの元に届きます。

では、「雰囲気」だったらどうでしょうか?

音でないものは、どのように録音されるのでしょうか?

稽古場全体、その場にいる人間、それら全てをゆらす太鼓の音。

「迫力」と呼ぶのでしょうか。

言葉にするのはとても難しい話で、とても感覚的です。

Photo: Yuki Hirata

すでに収録が完了した楽曲もあります。

私が感じたものがみなさんの耳にどのように聞こえるのか、みなさんの心にどう響くのか、とても楽しみです。

録音やその編集、マイクの立て方や曲順も、全て自分たちで考え、まるで劇場で聴いているかのような感覚を意識してレコーディングしています。

Photo: Yuki Hirata

このアルバムを聴いた皆さんの胸に、何か込み上げてくるものがありますように。

今、メンバー総出で録音しています!お楽しみに!

↓最新の鼓童楽曲こちら/Spotify「Kodo」

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 後編/青木孝夫

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【2001年 ケヤキの植樹とケヤキ原木太鼓づくり、薪ストーブ】
私たちの生業である太鼓のことを絶えず意識し続けて活動してもらいたいという願いから、2001年2月にケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。
特に鼓童の人たちが日々の暮らしの中で一番行き交う場所である中庭には、象徴として庭の中央に植えました。

ケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。

また、その苗木は植樹する前に稽古場にて見留知弘を中心とし、船橋裕一郎や当時準メンバーだった石塚充阿部好江らに「魂入れ」の太鼓演奏をおこなってもらいました。
私たちの生業は太鼓を中心とした芸能の創造であり、この生業に欠かせない太鼓は樹木と動物の皮の恩恵で成り立っています。その中でもケヤキはとても堅く重い材で、音をよくはね返す性質があり、太鼓にはとても適した樹木なのです。

四季が変わりゆく中で成長していく鼓童村のケヤキ。(撮影:西田太郎)

私の好きな絵本があります。
原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』。
実は鼓童村の中庭にケヤキを植樹したのもこの絵本の影響かもしれません。

原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』の影響で鼓童村の中庭にケヤキが植えられました。

私にとってこの絵本は宇宙、自然、人間存在の本質を問う人類哲学の指針となっている愛読書でもありました。重責に押しつぶされ、孤独と絶望に打ちひしがれたときなどは何度も何度もこの絵本を読みかえし、励まされ、勇気づけられてきました。

いったい「鼓童」というグループは何のために存在するのか。

こんなことを自問して袋小路に陥ったとき、この絵本の中に私自身を投影し、「いま、何をすべきなのか」と、今も思索し続けています。

今までも同じく、目の前に「存在」していたものなのに、今までは見えなかったその「存在」がうっすらと見えはじめたときがあります。

それは例えば、光や風も通らないぐらい鬱蒼とした森の大地で、咲くのをじっと待ち続けていた植物の根が、ちょっとした人の手入れによって光が射し、風通しが良くなったことで開花し、今まで見えなかった一輪の花の綺麗な存在に気づかされたようなことです。

傍目からすればその行為について、ささやかなことばかりではありましたが、その行為を愚かしいことだとは思わなくなった時期でもあり、行動をおこす原動力となっていました。

そして、2001年秋頃から間伐した雑木を薪に再利用する目的もあり、鼓童村の森の手入れの一環で、鼓童村の食堂に薪ストーブを導入しました。
薪ストーブはエアコンや石油ストーブでは感じられない温もりがあります。
資源の循環をさせながら、多忙な日々のひと時をゆらゆらと燃える炎のなんとも言えない暖かさを鼓童メンバー達と共感しあえる場をつくることも目的の一つでした。

鼓童村の薪ストーブ(撮影:平田裕貴)

人間は生きていく上で火と水は欠かせません。この薪ストーブの炎は人間の本能として、心が浄化され安心させてくれるのかもしれません。

さらに、2001年7月にはケヤキの原木太鼓づくりもスタートさせました。
ケヤキの原木は上越市柿崎の「善導寺」にあったものです。このケヤキは内部が腐った影響により、やむなく切り倒され、買い手がつかないまま上越市のNPO法人「木と遊ぶ研究所」が所有されていました。

鼓童村の一画に設けた作業場に運び込まれた原木。

「木と遊ぶ研究所」の方々とは、鼓童村の森の手入れをきっかけに、3年ほど前から親交があり、「このケヤキの原木は鼓童で活用してください」と無償で譲ってくださったのです。そこから、見留知弘を棟梁として「鼓童村のケヤキ太鼓づくりプロジェクト」が始まりました。

棟梁の見留を中心に、メンバーで堅い木を削る作業に取り組んだ。

もともと中が腐って空洞になっていたため、太鼓づくりには適していると思っていましたが、非常に堅い樹木でもあり、なかなか作業は進みませんでした。上越市の木工職人の方のご協力を得ながら、2006年11月には浅野太鼓楽器店へツアーメンバーが伺い、太鼓づくりの最後の工程である太鼓に革を張る「鋲打ち」を行わせていただきました。

空洞に手を入れて空気の振動を感じ、思わず笑みがこぼれる船橋裕一郎。

こうして、6年がかりで完成した原木太鼓が佐渡に戻ってきたのは2007年4月。
ちょうど開館したばかりの佐渡太鼓体験交流館(たたこう館)でお披露目することができました。

棟梁の見留知弘が打ち込んで、原木太鼓をお披露目。

原木太鼓は、たたこう館に来館する方々にニックネームを募集し「やまいもくん」と「ぶたばなちゃん」と名付けられました。

老木に特有の玉目(たまもく)という美しい模様が現れた(撮影:宮川舞子氏)

たたこう館は新潟県内の小学生の修学旅行先として多くの子ども達が訪れるほか、老若男女を問わず、どんな方でも太鼓に触れていただける施設です。もちろん原木太鼓も叩くことができ、自然との共生と地域交流のシンボルとして、多くの方々から親しまれています。

また、2002年〜2003年には佐渡林業実践者大学に参加して、太鼓のバチ材にもなるアテビを増やそうと「空中取り木」という増殖方法(もともと鼓童村にあったアテビの枝をはく皮して、水ゴケを包み、ポリ袋に包んで紐で結び固定し、4〜5ヶ月の育苗期間を経た上で、枝を切って植樹する方法)を学び、スタッフの大井キヨ子らと鼓童村にアテビの植樹も行ないました。

和名ヒノキアスナロ。佐渡では「アテビ」と呼ぶ。


【2007年11月 鼓童牛 きくこ 】

飼育を委託した仔牛のきくこと青木孝夫

ものごとの源流を知らずして未来を語ることはできない。
未来に伝えていくことができない。という思いの中で、
ケヤキの苗木の植樹、原木太鼓つくり、そして次は牛皮のことも思考していくために、2007年11月2日、佐渡北部の高千家畜市場で仔牛(きくこ/2006年12月31日生まれ)を鼓童文化財団で落札し、池野牧場さんに飼育を委託しました。

目的はもう一つありました。
そもそも、池野牧場の方との出会いは「大佐渡トラスト」運動とドンデン放牧を守ろうという市民有志との会合でした。池野さんの牧場がおこなってきた自然放牧は大佐渡の山々の環境保全、シバ草原を守ることにありました。自然放牧の牛たちがシバ草原の草を食べ、自然循環する環境を守り、佐渡の魅力的な風景を持続することと、放牧牛の自然飼育を推進することが目的でした。行政主導の柵付き放牧はどこにもあるけれど、日本の中でも池野牧場さんのような自然放牧をしているところはほとんどはなく、とても貴重な自然放牧でした。

しかし、年々放牧牛も少なくなり、シバ草原にイバラやススキがはびこり、山が荒廃しはじめていました。鼓童グループとしても、何かできることはないかと考えて、「きくこ」を購入しました。そして鼓童文化財団研修生たちと荒れた牛の通り道の確認や草刈り整備しながら、放牧を守り、大佐渡トラスト環境保全のための山登りを始めました。

牛の通り道の確認と整備を行う山登り前にきくこと会う当時の研修生(撮影:石原泰彦)

残念ながら、池野牧場さんは2016年を最後に大佐渡の自然放牧を断念したそうです。一度、自然放牧を断念すると、残念ながら再開はできません。つまり、佐渡で唯一実践されていた自然放牧が絶滅したことになります。それは、さらに大佐渡の山が荒れていくことを意味すると思います。

シバ草原にイバラやススキがはびこると、牛が食べる草がなくなり、さらに荒れるという悪循環になるということです。
それと、自然放牧の経験のある牛が未経験の牛たちを引き連れて、水の場所や食料を探し出すことを教えていく。その循環も途絶えてしまうと、自然放牧ができなくなるということだと思います。

どんな困難にあっても、人間が逞しく生きて抜くためには、どうすればいいのか・・・・・
自然放牧された牛たちが放牧前と放牧後では精悍さが増し、逞しくなって牛舎に帰ってくる姿を思い出します。


【2007年 4尺の国産ケヤキの大太鼓 と 浅野昭利さん】

1982年2月初めに、田耕氏の指示のもと、新たな鬼太鼓座メンバーが真野大小の稽古場にあった太鼓や楽器、家具類を引き取りにきました。
つまり、太鼓がなければ、公演はできない。
公演ができなければ、食べていくことができない。
つまり、ここから・・・まさにゼロからのスタートとなりました。

しかし、初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)はこの難局の中で1982年2月〜8月まで演奏活動を中止とし、新たな演目の仕込み期間、営業期間として次の準備に向けて始動することになりました。
しかし、演奏活動をしていくために、太鼓や楽器類を準備しなくてはなりません。でも当時はまったくお金がありません。そんな状況の中で河内は浅野太鼓楽器店の浅野昭利さんにご相談させていただきました。

浅野さんは私たちの困窮と新たな活動に向けた夢と構想を温かく受け止めてくださり「出世払いでいいから」と演奏活動に必要な最低限の太鼓一式を準備してくださいました。私はこの時の浅野さんのご厚情がなければ、今の鼓童は存在していなかったと思っています。

鬼太鼓座時代にはサントリー様から寄贈された国産ケヤキの大太鼓がありました。しかし、その貴重な太鼓も佐渡を離れ、田耕氏のもとに行ってしまいました。それ以降、鼓童は外材の胴の大太鼓で演奏をしていました。

私はいつの日か、次代を担う鼓童の若者には日本の自然環境に適合した響きのいい国産ケヤキの大太鼓で演奏させたいと願い続けていました。大袈裟に言えば、鼓童にはバイオリンの名器ストラディヴァリウスと同じような存在が必要ではないかと夢想し始めたのは2004年頃です。

しかし、大太鼓にするための大きな国産ケヤキ材はなかなか手に入るものではありません。立派に聳え立つものは神木になっていることが多かったですし、いろいろな事情で売りに出されるものがあったとしても、それはかなり高価なものになっていました。

しかし、私のそんな思いをこの頃から浅野さんに相談させていただいておりました。この時も浅野さんは親身になってケヤキの材を探してくださり、日光産のケヤキ原木と出会うことになりました。
この時、浅野太鼓でも国産ケヤキ大太鼓の製作は20〜30年ぶりになるとおっしゃっておられました。

2005年3月31日に浅野太鼓楽器店本社で「けやきの原木玉切り 斧はじめ神事」が執り行われ、私も立ち合わせていただきました。


この神事がはじまる前に少し雨が降り、浅野さんは「いい清めになったなぁ。」と話され、神事がはじまると少し晴れ間もさしてきました。そして、最後の「昇神の儀」が終わると小雨とともに「雷鳴」がゴロゴロと轟いたことに、なんとも言えない不思議な気持ちになりました。

私は、これから製作が始まるケヤキ大太鼓に魂入れし、神木のケヤキを甦らせることができるのは太鼓職人と太鼓芸人の役割になるに違いないと思いたち、無性にこのケヤキの生まれた場所のことが知りたくなり、2005年5月に鼓童メンバー数名とケヤキ大太鼓(4尺)のふるさと、源流地にも行ってきました。

そうして2年後の2007年に、浅野さんは日光産4尺のケヤキ大太鼓とこの良質な材をくり抜き、2尺5寸の子太鼓と、1尺5寸の孫太鼓も同時に鼓童村に納品してくださいました。

真野大小の稽古場から全ての太鼓がなくなってから、26年後の鼓童村にこの日光産4尺の欅大太鼓が納品された日は一生忘れることができません。


【2008年 御太鼓遊び】


現代の暮らしの中では祭りや芸能の意味がとても重要です。
私は、もともと祭りや芸能(太鼓)は人と人、人と神、天と地を繋ぐ役割があるのだから、その太鼓を中心とした芸能集団である鼓童グループ独自の楽しい村まつりができないものかと常々考えていました。

鼓童が日々、打ち込んでいる太鼓たち。その樹木や動物たちへの感謝、バチや皮も折れたり、消耗したりしたものはゴミ箱に捨てずに、感謝を込めた鼓童的儀式(供養)として、「鼓童村どんど焼き(左義長)」もできないかなぁ。

鼓童メンバーの旅路安全・芸道上達・無病息災・大入祈願を願う「鼓童村盆踊り」などもあると楽しいかもしれないなぁ。

年に一回、鼓童グループ全員が集まり、鼓童村内の森の手入れなどをしながら、感謝を込めた楽しい鼓童村まつりの年中行事ができないかなぁ。

そんな鼓童村まつりのことを思考していたときに、藤本容子からも具体的な提案があり、藤本容子の作詞作曲で風流口説き節(2004年)や鼓童村どんど焼きの唄<左義長>(2005年)という鼓童村独自の唄も生まれました。

現在は鼓童村の恒例行事となった「鼓童村どんど焼き」(左義長)(撮影:西田太郎)

そうして、2008年7月には鼓童村まつり(鼓童グループ内で執り行う年中行事という意味合いのもの)に「御太鼓遊び(おたいこあそび)」という行事がひとつ加わりました。
原木太鼓「やまいもくん」をみんなで担いで鼓童村を練り歩き、中庭に植樹したケヤキのまわりを御太鼓さまが右回り(この世=生命) 左回り(あの世=魂)と担ぎまわし、あの世とこの世の皆々で ハヤシ、オドリ、ウタイ ムスビ合い、村人全員でひとりひとり打ち込み、自然なカタチで祈り、喜び合うまつりの儀式(のようなもの)を行いました。

私たちの生業として欠かせない「御太鼓さま」のすべての繋がりの恩恵に感謝すること、鼓童グループの繁栄と旅路安全・芸道上達・家内安全・無病息災、そして、世界中の繁栄と平和を祈って、鼓童の象徴であるケヤキの「御太鼓さま」を「わっしょい」という掛け声で担ぎ、全員で一打一打魂込めて祈り、打ち鳴らすことにも大きな意味があるのではないかと思ったからでした。

「わっしょい」とは「和」を「背負う」という意味合いがあり、普段仲の悪い人でもこの日、この時に限って、「和」をもって尊し、意気(粋)を合わせて元気に「御太鼓さま」を背負いましょう。という鼓童村村民の絆を確かめ合うとともに、ONE EARTH TOURと同じく、「御太鼓さま」を通じて、世界中の平和を「和」ショイという願いを込めた掛け声で楽しく確かめ合うことも大切なのではないかと思ったからでした。

(特定の宗教観を押し付けたわけではなく、「くらす・まなぶ・つくる」という原初的な理念に基づく思いからでした)

風流口説き節」もこの行事の最後に全員でウタイ納められました。

残念ながら御太鼓遊びは諸事情により、3年で途絶えることになってしまいました。また、鼓童村まつりは会場を深浦学舎にかえて「鼓童祭り」となりましたが、お世話になっている地域の方々をお招きして開催し、「風流口説き節」はまつりの締めくくりに毎年唄われています。

私は芸能者の鼓童人からうみだされ、事始となる「まつり」がいつしか「伝統」になっていくことを想像することがなにより楽しいことでした。

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

TAIKO-1再入荷!別売「担ぎ演奏用ストラップ(黒)」も発売開始!

こんにちは、鼓童オンラインストアです。

初回ロット完売した大好評のTAIKO-1再入荷しました。ヘッドホンを使用して自宅で練習ができる静粛性をもち、スピーカーに繋げればリアルな音が響き渡ります。

TAIKO-1の発売にあわせて、黒のシンプルなデザインに。KODOタグも新しくした 別売「担ぎ演奏用ストラップ(黒)」。こちらも発売開始です!


★TAIKO-1 価格:140,800円(税込)
*商品は分解した状態での発送となります。

商品のご購入はこちらから↓↓


★担ぎ演奏用ストラップ(黒)価格:3,800円(税込)
※TAIKO-1以外の和太鼓にもご使用いただけます。

商品のご購入はこちらから↓↓


鼓童メンバーがTAIKO-1で「巡」を演奏した映像はこちら↓↓

その他、新作オリジナルグッズや、鼓童のCDやDVD、楽器類も取り扱っております。
お気軽にお問い合わせください。

鼓童オンラインストア
Tel.0259-86-3630
Email:store@kodo.or.jp
http://store.kodo.or.jp/

鼓童Instagram 実演動画

39期生二年次スタートしました!/三浦友恵

研修生日誌より:
雪と超風、寒波また来ています。
「当たり前の基準を上げよう」という目標。ちょっとだけ上がったと思うところは曲が始まると、“しっかりスイッチが入るようになってきた“というところです。今の基準は「曲が始まると」なので、次は「稽古が始まると」。そして一番は「1日が始まると」ですよね。それができたら『まぎれもなく最高の期』になれると思います。39期グッと上がっていけるようにがんばります。

修了式、進級を経て、1月下旬から新たに新2年生12人でのスタートとなりました。いよいよ激動の “冬期間” です。
先輩や同期との別れを経験し、自分の夢へ向かって心を新たにスタート。

今まで以上に必要になる同期とのコミュニケーション。お互いに助け合い、鼓舞し合い。楽しいことも辛いことも嬉しいことも一緒に体感することで得るものがたくさんあります。

何が何でも全力で走り抜けなければいけません。
(問答無用だ!!!!by藤本吉利)

これから2ヶ月の間に心身共に成長していきます。自分、同期、太鼓、と正面から向き合う。

この研修所で勝負の時です。

この期間を乗り越えた時、外には色とりどりの花々が咲き、お祭りがあり、佐渡に春がやってきます。厳しい期間を乗り越えた研修生へのご褒美でしょうか。

さぁまずはこの“冬期間“、精一杯やりきろう!

鼓童文化財団研修所

 

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 前編/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>
<その2:1990年〜2000年のブログはこちら>

【2000年 坂東玉三郎さん 千載一遇の出会い】

坂東玉三郎さんとの稽古風景(撮影:田中文太郎氏)

1999年頃までの鼓童の舞台活動はそれなりに順調でした。

しかし、どんな組織でも現状に満足した時に停滞が始まり、衰退へと向かいます。
佐渡の國鬼太鼓座の時代から鼓童となって20年目が近付いた頃、絶えず先駆的で革新的な創造活動をし続けていると思っていたのですが、組織としては知らぬ間に保守的な方向性へと向かい始めているのではないかという思いを抱きました。
魂を込め、大きな音で一打一打を打ち込む舞台に対しては、反響もあり、お客さまにも満足していただけていたと思います。
しかし、これからの舞台活動を考えていく上で、そこに安住しがちになっていることへの危機感が募ってきたのはこの頃です。

もちろん、鼓童内部でも鼓童メソッドや演出ビジョンなどの話し合いも何度となくおこなっておりましたが、それを具体化するための説得力ある方針がなかなか定まっていきませんでした。

芸の道というものは意識を持って進めば進むほど 険しく、遠く、深くなっていくものです。その深さに挑むには「精神と身体と技術」を鍛え、精度を高めなくてはなりません。
それは言葉で言うほど容易いことではなく、その道を極めていくためにはまだまだ何百年とかかるわけであり、そのために今何をすべきかを考え、行動していかなければならないと覚悟をしたのはこの頃でした。

もっと先々の100年後の鼓童を見据えたときに、今ままでのやり方だけでは続かないという思いにかられました。

そもそも「鼓童」をはじめとする太鼓芸能は、古典として確立しているわけではありません。新しい楽曲を創作する「創り手」が必要ですが、当時の鼓童グループ内だけでは限界がありました。そして「創り手」を育てるには時間がかかります。とにかく新しい視点と発想が必要であり、今やるべきことは何かを考え続けていました。

そんな折、鼓童が専属契約をしていたソニーレコードのプロデューサーが坂東玉三郎さんとヨーヨー・マ氏とのコラボに関わっていた関係で、玉三郎さんの存在がとても気になっていました。

実は、1988年に鼓童が出演させていただいた冨田勲さんがプロデュースされたイベント「サウンド・クラウド・イン・シドニー」に玉三郎さんも出演されており、その時初めてお目にかかりました。でも一流の歌舞伎役者、舞踊家であり、私にとって雲の上の方だったので、この時は緊張して、レセプションの席でもお声をかけることはできませんでした。

しかし、2000年にソニーレコードのプロデューサーのご紹介を得て、12年ぶりに玉三郎さんにお会いし、お話をさせていただくことができました。

2000年12月京都南座顔見世興行での「阿古屋(あこや)」では箏、三味線、胡弓の三曲を自在に弾かれ、内に秘めた女形の演技の美しさと音楽的感性に思わず息をのみ、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)では佐野次郎左衛門役の勘九郎(故十八代目中村勘三郎)さんと八ツ橋の玉三郎さんの絶妙な間のやりとりに歌舞伎の醍醐味を堪能したことは一生忘れることはありません。

しかし、私が最も印象に残った玉三郎さんの舞台は2002年12月大歌舞伎での三島由紀夫氏の新作歌舞伎「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。ポスターデザインに横尾忠則さん、出演者は玉三郎さんはじめ、猿之助さん(現二代目市川猿翁)、勘九郎さん(故勘三郎)、亀治郎さん(現四代目市川猿之助)という豪華キャストでした。
この舞台の初演は1969年11月であり、その1年後の11月25日に三島由紀夫氏は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自害されており、「弓張月」での切腹シーンの演出には三島由紀夫は並々ならぬ力が入っていたとパンフレットで横尾忠則さんが述懐されていたことが思い出されます。三島由紀夫氏が白縫姫役には玉三郎さんしか考えられないという思いの舞台を、初演から33年経って見届けられたことは感慨深いものがありました。

これだけ観客を魅了する芸能者と共演させていただき、ご指導いただけたら、鼓童の新たな創造性を引き出していただけるかもしれないと鼓童の未来を考えれば考えるほど、歌舞伎役者で舞踊家である玉三郎さんとお仕事がしてみたいという思いが強くわきあがってきました。

2001年4月に新潟で玉三郎さんの特別舞踊公演があることをお聞きし、無理を承知でこの機会に鼓童の活動拠点をご覧いただけないかとご相談しました。玉三郎さんは快く新潟公演の前に佐渡の鼓童村を訪問してくださり、稽古場でいくつか演奏を聴いていただきました。玉三郎さんは常々「大太鼓打ちを見れば、そのメンバーの身体の使い方や表現力が一目瞭然」ということをおっしゃっていて、技術的に未熟でもどんどん若手を抜擢して可能性を試していくべきではないか、といろいろとご助言をいただきました。

私の夢は鼓童の演奏する音楽で玉三郎さんに舞い踊っていただけるような共演企画でした。しかし、玉三郎さんからは「鼓童のことをもっと知らなければ共演することはできないので、まずは鼓童の舞台演出であれば」とご承諾を得ることができました。当然ながら、玉三郎さんは鼓童のためにということだけではなく、芸能に携わる後輩たちのために、芸能文化全体の発展のためにという思いでお引き受けくださったのだと思います。

そして、2003年11月「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」の演出に向けて2001年より準備がスタートしました。

玉三郎さんと「佐渡へ」の稽古に打ち込む当時の鼓童メンバー(撮影:井出情児氏)

鼓童単独の舞台の演出を外部の方にお願いするのは初めての取り組みでしたが、私は未来の鼓童及び太鼓芸能文化にとって大きな影響を与えられるものと確信していました。

当然、組織としても今迄になかったことを改革しながらの挑戦でもあるので、内部における対立と葛藤というものは絶えず起こりました。しかし、それは創造活動において欠くことの出来ない源泉であったとつくづく思います。

絶えず、批判という風をいれながら立ち向かう勇気が必要であり、そのために克服する機会と力を与えられ、個々が強くなっていくことが組織として重要なことだと強く感じていた時期でした。

私は他者が真似の出来ない新たな創造性を発揮するために、今までの枠組みを取り払い、新しいものに対して、まず「受け入れて」全体的な調和のなかに組み込みながらゆるやかな変化をしていく必要性を感じていました。

かなり広く、深く、俯瞰的な視野で物事を見定める高い目標を求めていたので、当初、私の行動はすべての仲間たちには理解されないことも多々ありました。しかし、この実践は高みを目指し、さらに成長し熟成していくために乗り越えていかなければならない挑戦として取り組んでいきました。

2002年12月に歌舞伎座出演を終えて世田谷パブリックシアターでの鼓童公演に駆けつけてくれた玉三郎さんは、公演をご覧になられた後から鼓童の衣装について考えはじめられていました。
特に世田谷パブリックシアターは「舞台面が黒のため、藍染めの衣装が沈んでしまう。」ということをお話され、なんと、それから1週間後におこなわれた篠山紀信氏による「佐渡へ」公演用のビジュアル撮影時には衣装見本までご準備くださいました。そして、従来の鼓童衣装デザインをベースに色が「生成り」の方針で準備が始まっていきました。

世田谷パブリックシアターにて(撮影:井出情児氏)

そうして翌年2003年から佐渡に何度もご来島いただき、2003年11月世田谷パブリックシアター15回連続公演を皮切りに、佐渡を含めた全国5都市を巡る、「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」に向けた稽古と貴重なご指導を仰ぐことになりました。

この公演には鼓童メンバー全員が参加し、玉三郎さん自らが鼓童メンバーひとりひとりと向き合い、丁寧な話し合いを重ね、ベテランから若手まで鼓童グループの全体の特性を全面的に活かしてくださいました。特に女性の表現については歌舞伎の女形の世界観を知り尽くしている方なので、愛情深く、厳しい眼差しでご指導していただきました。

ワン・アース・ツアー スペシャルの舞台上で行ったミーティング(撮影:井出情児氏)

従来の鼓童の舞台は大太鼓〜屋台囃子でエンディング、クライマックスへという構成でしたが、玉三郎さんの演出では、木遣り〜大太鼓〜屋台囃子から始まるという真逆な構成でした。鼓童内だけではなかなかできない画期的な発想でした。

玉三郎さんのアイディアと構成でこの時に「巴」と「佐渡へ」という新たな楽曲が生まれました。特に大太鼓、屋台囃子という公演のクライマックスに替わった全員参加の「佐渡へ」は様々な種類の太鼓の音色を緻密に組み合わせるだけでなく、箏や胡弓、三味線、拍子木、鳴物など、鼓童の特性をフルに発揮させ、未来に向けた可能性を最大限に具現化してくださいました。

玉三郎さん構成の元生まれた「佐渡へ」(撮影:田中文太郎氏)

「どんな物を手にもっても太鼓打ちとして成立させたい。楽器も、衣装にもこれからも色々と試していって、100年以上経って、美しい古典に成りうる要素を付け加えていこうと考えている。」

「違った味を楽しめなかったら、将来に向かって様々な作品は提供出来ない」

という玉三郎さんのお言葉は、私が願っていた内部改革の挑戦の意図を汲み取っていただけたことが嬉しくて、とても印象に残っています。

私は玉三郎さんとの千載一遇の出会いは鼓童グループにとって、新たな領域(新しい視点と発想)への挑戦の大きな一歩となったと思っています。

坂東玉三郎氏による初の演出作品「ワン・アース・ツアー スペシャル」公演のライブ収録(DVD・CD)


【2006年 坂東玉三郎さんとの共演作 アマテラス】

「アマテラス」初演時、南座にて(撮影:田中文太郎氏)

玉三郎さんとの出会いから6年後、鼓童創立25周年の2006年に私の念願だった玉三郎さんとの共演作「アマテラス」公演が実現しました。
私は「佐渡へ」稽古期間中も、共演作の可能性を打診し続けていました。

私は玉三郎さんからお借りした玉三郎さんの作品集の映像を拝見し、共演作としてのテーマとなるようなヒントを探しながら、ご相談をさせていただいておりました。そして、その中にあったスサノオがヤマタノオロチを退治する話を題材にした内容の「日本振袖始」(にほんふりそではじめ)が最初のヒントともなり、日本の神話について学び始めました。

高天原(たかまがはら)でスサノオの行為に怒り、天の岩屋戸に身を隠した太陽神アマテラス。このことによって世は暗黒になってしまい、アメノウズメが踊り狂い、捧げ物をし、酩酊や狂気の祝祭を行ったことによりやっと岩屋戸から出てきて、この世に光が甦ったという神話があります。

これは「秩序を壊乱させ、新たな創造の道をひらく」と言う意味にも解釈できます。アマテラスは玉三郎さん。打って、唄って、踊って、奏でて、捧げ物をして太陽を甦らす八百万の神々が鼓童の役割。このようなシンプルなテーマで物語を創作し、それぞれの世界を表現できたら、今までに観たことのない素晴らしい「太鼓音楽舞踊劇」の作品ができるのではないか、玉三郎さんと鼓童の共演作は「アマテラス」しかない。と私は妄想し始めていました。
ところが程なく、それは妄想ではなくなり、玉三郎さんからのご提案によって、スサノオ役に藤本吉利、アメノウズメ役に小島千絵子という鼓童創立メンバーがキャスティングされ、玉三郎さんと鼓童の共演作「アマテラス」が実現できる運びになりました。

アマテラス役の坂東玉三郎さんとスサノオ役の藤本吉利(撮影:岡本隆史氏)

鼓童はもともと太鼓だけの演奏団体ではありません。
打って、唄って、踊って、奏でる芸能を学んできました。そんな太鼓芸能集団としての魅力を物語性のあるテーマで今迄にない前人未踏の新たな舞台に挑戦してみたいと願っていたので、この「アマテラス」公演では私の大きな夢がまた一つ実現できたことになりました。

しかし、このプロジェクトは製作面でもハードルの高い大きな挑戦でした。それでも、玉三郎さんはじめ、松竹株式会社、そして多くの関係者の皆様からのご支援をいただき、2006年5月の世田谷パブリックシアターでの23回公演、6月の京都南座での16回公演を大盛況の中で実現することができました。
そして、2007年8月には、2010年から建て替えのため休館となる前の旧歌舞伎座において再演をさせていただきました。

千秋楽。カーテンコールを通常行わない歌舞伎座で、フルスタンディングオベーション(撮影:岡本隆史氏)

鼓童メンバーたちを歌舞伎座の舞台に立たせたいということも私の夢のひとつでした。
鼓童グループは佐渡という島に根ざしながら、コロナ禍に負けずに、絶えず前人未踏の新しい舞台上での表現を求めて活動していくことが大切であるとあらためて実感しています。

旧歌舞伎座正面玄関前での集合写真(撮影:岡本隆史氏)

 

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

『戦慄せしめよ / Shiver』メンバーメッセージ
音が生まれる場所/中込健太

北風が彼方からやってくる
波は容赦なく荒ぶる

岸壁は
自然が激しく震わせる
音で満ちていて、
大太鼓の響きを
容易く
かき消す。

豊田利晃監督は
日野浩志郎、鼓童が
生み出した
音を
畏れと
祈りが
匂い立つ
原初の佐渡に
響かせた。


寒さは
身体の自由を奪い

太鼓の
律動を止めようとしていた。

根源的な恐怖の中
「お前は何故今叩いている」と
監督は
問いつづけた。

血を流し、吠え
呻き、叩きつけながら
音の生まれる瞬間と
その場所を必死で
探しつづけた。

極寒の佐渡にて(写真:大森克己)

中込健太
(写真:岡本隆史)

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信『戦慄せしめよ / Shiver』

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信 『戦慄せしめよ』2月5日(金)19:00より、Vimeoほか各映像配信プラットフォームにて配信開始!

【配信概要】

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信『戦慄せしめよ / Shiver』

 

#2月は動画de鼓童

2021年2月はオンライン配信で鼓童が国内外のプラットフォームに登場!

様々な演奏映像をご用意しております。おうち時間を鼓童と過ごそう!
どうぞお楽しみくださいませ!
#2月は動画de鼓童

・2月3日〜3月7日/有料/鼓童「鼓」舞台より10曲、期間限定・有料配信!
・2月5日〜2月28日/有料/映像配信・越島 presents 『戦慄せしめよ / Shiver』
・2月13日/有料/アメリカ、Duke大学から発信!去年の夏の思い出が蘇る!
・2月中/無料/鼓童ハートビートラヂオ Youtubeで好評配信中!
・2月中/無料/JAPAN LIVE YELL project 「新潟県文化祭2020応援企画」特別対談 第3弾〜6弾(第1弾第2弾は配信中!)

 

たっぷりオンラインでご覧いただいた後は

天と地が和し、響きに触れる。
鼓童創立40周年企画
鼓童ワン・アース・ツアー2021 〜「鼓」
Photo: Takashi Okamoto
<2021年公演地>
※2021年2月1日時点の情報です。スケジュールは変更となる可能性がございます。
5月/神奈川県横須賀市、相模原市、千葉県船橋市、茨城県ひたちなか市
6月/北海道富良野市、幕別町、札幌市、大阪府堺市、山形県山形市
7月/新潟県柏崎市、新発田市

劇場で生音を体感!
ご来場をお待ちしております。