山野實さんを偲んで/青木孝夫

1982年、大井良明・キヨ子の結婚披露宴にて。 発起人として挨拶する青木孝夫。(山野さんのアルバムより)

私が鬼太鼓座東京事務所でお手伝いをしていた1978年頃、当時の鬼太鼓座メンバーたちと皇居外苑をランニングしたことがあります。オリンピックのマラソン選手だった山田敬三さんや山野實さんも一緒でした。

これが私と山野さんとの最初の出会いだったかもしれません。しかし、マラソンが苦手だった私は・・・この時のこと、ほとんど覚えていないのです。

この頃から山野さんはいつも当時の鬼太鼓座、そして現在の鼓童のことを愛情深く応援してくれていました。
1979年頃から鬼太鼓座のスタッフのお手伝いをさせてもらってからは、世間知らずで青二才な私の仕事の対応などについて、いつも厳しい叱咤激励をいただいておりました。絶えず鼓童グループの未来を気にかけ、お客様目線での厳しいご指摘を多々いただき続けておりました。それから数十年、私は山野さんに褒められたことはあまりなかったような気がします。

しかし、思い返すと2度ほど、山野さんに褒められて、嬉しかったことがあります。

一つ目は、2006年鼓童結成25周年記念『アマテラス』公演で坂東玉三郎さんとの共演作を実現できた時でした。
「よく頑張ったな。大変だったろう。これご褒美だよ。少しゆっくり休んで世界一周の旅でも行ってきなさい」とピースボートの世界一周の旅のパンレットが入っていた封筒を手渡されたことがあります。
残念ながら、パンフレットを眺めて夢心地の気分にさせていただいただけでしたが・・・(笑)  

とても 嬉しかった。

二つ目は、2010年の『うぶすな』公演をご覧いただいた後のお手紙です。

お元気ですか?

今年の鼓童は勿論、沢山のコンサート、演劇などを見聴きましたが ”うぶすな公演” がやはり一番心に残っています。来年の公演を楽しみにしています。もうスケジュールは決まってます? 周辺の友人、知人から心待ちしていますの声が沢山寄せられています。

寒くなりました ご自愛、ご活躍を! 11/8 山野實

・・・とても勇気づけられました。

2011年は鼓童結成30周年の年でした。この30周年を記念して「鼓童結褒賞(ゆいほうしょう)」というものを創設しました。この賞は長年にわたり鼓童グループの活動全般に多大な貢献をしてくださった人或いは団体を対象とし、鼓童グループからの感謝の気持ちをお伝えするという趣旨の賞です。鼓童メンバーからの推薦により授賞者を選定し、感謝状と、鼓童グループ全員で力を一つに合わせて制作した記念品をお贈りさせていただくことになりました。その記念すべき第一回目の授賞者は山野實さんに受けていただき、鼓童グループからの感謝の思いをお伝えさせていただくことができました。

皆が名前を色々の糸で刺して、大井キヨ子が作品に仕上げた「刺し子のタペストリー」を鼓童結褒賞の記念品として贈呈。

それともう一つこの年に「鼓童30周年 鼓童佐渡一周駅伝」というものを開催しました。鼓童メンバー全員がタスキをつなぎ、(「佐渡一周」とまではいきませんでしたが)南佐渡を一周するという企画でした。もちろん、この記念すべき駅伝には山野さんにもご参加いただきました。

 

そして、この年の11月に、下記のお手紙をいただきました。

1981年鼓童結成当時のこと、そして30周年、いつも鼓童グループのことを心配して下さっていた山野さんの思いが綴られているので、そのままお伝えさせていただきます。

寒い日を如何お過ごしですか?
年末とかは さぞお忙しいことでしょう。

先日は素晴らしい記念品をいただき、心から嬉しく感激しました。
ありがとうございました。

それにしても30周年、長いような短いような不思議な感覚であの会場にいました。

1981年ヨーロッパに出発するハンチョウと鼓童メンバーを空港で見送った折、ハンチョウが私達は全力で頑張ってくるから佐渡で留守を守る者たちをよろしくお願いしますと緊張した顔で話をされたことが忘れることは出来ず現在に至っています。
古い日誌によれば空港で見送ったのが8/31、その3日後に「佐渡でお祝いの何か!をやりましょう」と電話のあったことが記録されています。
当時は“お祝い”といっても“走る”ことしかなく、9/14 鼓童発足記念マラソンとなりました。フルマラソンとなりキヨ子と私だけが走ることになり、玄関前に太鼓を置き、スタート。ゆっくり走ろうと決め、別々のコースを走りました。今後、鼓童はどうなっていくのか、どうすればいいのか、など私なりに考えることが多々あり、途中何度も休み、海、山を眺めながら想いをヨーロッパツアー組の将来と佐渡に残っている者達を案じていました。

山野さんのアルバムより。食堂の黒板に書かれたランニングタイム。 (キヨ子の走ったコースはおそらく50km以上)

それから30年。先日の駅伝、歩きながら、今までのこと、これからのことなど考えていました。

鼓童メンバーにとって今回の駅伝は・・・・一本のタスキを受けたら全力で自分の受持区間を走り、次のランナーへつなぐという単純な行動だが、仕事も舞台も同じ大切なことを、間違いなく、次の世代につなぐということと思います。あの日走ったことの意味がいつか有意義なことだったと気づいてくれることを心から願って雨の中を歩いていました。

鼓童のみなさんの結束と活躍を期待しています。そして、少しでもご協力すべく努力をしたいと思っています。

又いつか、ご自愛を 11/22 山野實

1981年8月31日、ベルリンへ出発するメンバーを成田空港で見送り。その後100冊を優に超えることになる、山野さんの「鼓童のアルバム」の第1冊目の最初のページに貼られています。
左から(敬称略)近藤克次、河内敏夫、山口経生、山野美樹子(山野さんのお嬢さん)、風間正文、富田和明。

 

山野さんのアルバムより。フルマラソン後の写真と、鼓童から贈られた「完走賞」。
日付や数字もカレンダーなどから切り抜いてきたり、工夫がこらされていました。

 

私の記録では山野さんからいただいた2014年8月27日付のお手紙が最後になってしまいました。

先日古い写真を整理していたら、こんな写真が・・・・

有楽町駅ホームから写したもの・・・

このシーンを知っている人はおそらくもういないのではないかな。

今の人達がこの写真を見たら・・???でしょうね。

この写真は有楽町の読売ホールでの『佐渡の国 鬼太鼓座 東京公演』のものでした。1981年4月24日から28日まで6回公演でした。

この公演が「佐渡の国鬼太鼓座」としての最後の東京公演だったかもしれません。

山野さんの収集記録には、すでに私の脳裏から消え失せてしまった大切な思い出が蘇ってくることがしばしばありました。

山野さん 長い間、本当にありがとうございました。

 

山野實(やまのみのる)さん

鼓童の前身の「佐渡の國鬼太鼓座」の草創期に、マラソンが縁で出会う。
以来、佐渡はもとより公演先などに神出鬼没に現れて、鼓童を見守り続けてくださいました。2024年10月4日、90歳でご逝去。

追悼・山野實さん

前身の「佐渡の國鬼太鼓座」時代からの長きにわたり、鼓童を見守り続けてくださった山野實(やまの・みのる)さんが本年10月4日、90歳でご逝去されました。
ご冥福をお祈りするとともに、鼓童一同、感謝の思いをそれぞれに紡ぎました。(構成:本間康子)

「鼓童結褒賞」は、長年にわたり鼓童グループの活動全般に多大な貢献をしてくださった人或いは団体を対象とし、鼓童グループからの感謝の気持ちをお伝えするという趣旨の賞です。
鼓童結成30周年を記念して、2011年に創設しました。
記念すべき第1回の受賞者は山野實さん。皆が自身の名前を刺し、大井キヨ子が作品に仕上げた刺し子のタペストリーをお贈りしました。(東京・青山劇場のロビーで行った「鼓童結成30周年記念レセプション」にて)

新井和子

山野さんとの思い出はなんといっても90年代、新宿・シアターアプルでの連続公演。

山野さんはたくさんのチケットを売ってくださって、そのお客様の顔が全部わかっていて、毎日ロビーにたって、来てくださったお客様にご挨拶しては、鼓童の公演を楽しめたか心をつくしていらっしゃいました。大事な大太鼓の場面で、記録をお願いしたカメラマンのシャッター音が響いてしまった時には、それはもう厳しく叱られました。それでも、翌日にはまた声をかけてくださいます。私が子供ができて、現場を離れてからも、家族のことを気にかけてくださる心優しいお便りをたくさんいただきました。愛情溢れる山野さん。これからも鼓童を見守っていてくださいね。

1999年12月、シアターアプル公演の打ち上げにて。右から齊藤栄一、山野さん、藤本吉利、ハンチョウ(鼓童初代代表・故 河内敏夫)の母・河内寿美子様、風間正文(当時 舞台監督)、山口幹文。山野さんの胸ポケットからのぞいているのは「大入袋」。

見留知弘

山野さんとの出会いは、
1988年 第1回のアース・セレブレーションでした。

私は太鼓教室に参加していて、どこで聞きつけたのか、
私を見つけて、「うち」に入りたいんだって? って話しかけられ、
お話ししたのが最初の出会いでした。
その時には、てっきり鼓童の方だと思っていました。(笑)

その年の12月、今は無き新宿のシアターアプルにて、
連続公演が行われている時に、私も毎日通って挟み込みと、
パンフレットをお客様にお渡しするお手伝いをしに通っていまして、
同じく山野さんも毎日いらっしゃり、お客様をお出迎えしていました。

そして翌年に研修生になって、まだそんなに月日が経っていない頃、
突然研修所に山野さんがやって来られて、驚いた記憶があります。
のちに山野さんは、鼓童の人ではないと知りました!(笑)

メンバーになってからは、公演会場や、海外ツアーへの出国、帰国時には、
必ず成田空港に出迎えてくださり、写真を撮るのが恒例でした。
鬼太鼓座の頃や、鼓童の初期には、山野さんが記録してくださった写真は、
大切な宝物をたくさん残してくださいました。

そして恒例の握手! 斜め下から手を差し出してくる仕草は、山野さんの証!
いつも刺子の半纏を着て、どこにでも現れるのが山野さん!
演奏について、感想を伝えてくださり、最後には頑張れよ!の一言。

それが当たり前だった風景が、数年前からみられなくなり、
訃報の知らせを聞き、思いを寄せていました。
今までたくさんの思い出をいただき、有難うございました。
これからも、そらのうえから、見守ってください!

 

山中津久美

「やあ!元気?」
と手のひらをこっちに向け上に上げて軽く挨拶する。
そんな光景が先ず目に浮かぶ。
今でも振り返ったらそこに立っていそうな感覚。

全国各地の鼓童公演にひょっこり現れて、
「じゃあ!またな。」
と来た時と同じ仕草で帰っていく。

▶▶▶いくつなの?歳??
フットワークの軽さから、いつも年齢を考えていた。

佇まいはありのまま。
山野さんらしいと思えることがほとんどだ。
ハンチング帽にズボンとTシャツ(冬はトレーナー)に、
刺し子をあしらった半纏を着たファッションが定番。
いつも手にはカメラと巾着袋を持っていた。

さてさて・・・ブログを書く段階になって、
山野さんとの思い出を、遠い記憶の彼方から呼び起こす。
なかなかその光景が少ない。

「なにやってんだよ。」
とお叱りの声が天から届きそうだ。

古いパソコンで「山野さん」と検索したら、
結褒賞の時の資料が出てきた。
ほかには鼓童公演招待者の名前一覧など。
そうかコミュニケーションツールは電話と手紙のみ。
なにかの手掛かりがほしくても、PCにはほとんどない。

一番には鼓童メンバーのことが大好きで、
鼓童を古くから応援してきた方だ。
鼓童に入ると「この方はだれ?」と思わされるが、
鼓童メンバーになったら「山野さ〜ん。」と声を掛け、
誰もが不思議がらず受け入れる。

鼓童ファンとも、いつも誰かと仲良くなっている。
ネットワークの軽さとつながりの深さは超一流。
お便りは欠かしたことがないほど筆マメで、
丸文字のかわいらしい字が印象的。
断片的な記憶でも、
山野さんらしい思い出に浸っている。

2011年「結褒賞」贈呈へのお礼状

洲﨑拓郎

「元気か?」と、すこし半身に構えられ、握手の手を差し伸べてくださる山野さん。いまも鮮明に目に浮かびます。

36年前当時、鼓童の拠点であった真野町から、北へ車で1時間以上も離れた研修所へ、ひょっこり現れて写真を撮って下さいました。

海外ツアーの出国や帰国時には、いつも空港で温かく見送り、迎えてくださいました。太鼓打ちから音響スタッフに仕事を変えて、たどたどしく現場で仕込みをしていたとき、お昼に深川めしをご馳走してくださいました。

毎年のように新人が加わり、また離れていくメンバーやスタッフがいる鼓童を、すこし離れたところからずっと見守ってくださいました。山野さんの目には、そんな変わっていく鼓童が、どんな風に写っていたんでしょう。応援し、叱ってくださいました。きっと今も、どこからか温かく、すこしもどかしい思いもされながら、変わらず見つめてくださっているような気がします。

もう握手させていただくことは叶いませんが、「元気です!」と答え続けられるよう、こちらで頑張り続けていきたいと思います。

菅野敦司

山野さんとの初めての出会いは、いつだったのかはっきりと記憶にありません。

それだけ、外部の方でありながら鼓童の空気に馴染んでいる、そんな存在だったのだと思います。

山野さんからは鬼太鼓座との出会いや、私が鼓童に入る以前のグループの話や人脈について伺うことができたのは、本当に貴重な時間でした。

各地の公演会場にひょこっと現れ、その土地の人たちと鼓童との縁を、特技の筆まめさで繋いでくださり、その人の輪は、今も鼓童の財産となっています。

そして、個人的にも人との縁を大切にすることを、厳しく教えていただきました。

本当にありがとうございました。

山野さんとも親しく、長年鼓童の唄の指導をしていただいた岡田京子先生と(中央右)。
岡田先生が2018年に鼓童結褒賞の受賞者となり、贈呈式を文京シビックホールの楽屋で行った。
菅野敦司(左)、青木孝夫(右)

齊藤栄一

いつ、どこで、どんなタイミングで自己紹介したのか全く覚えていない。

けれど山野さんはいつもそこに居てくれた。

会うといつも右手を差し出し「元気か?」と言ってギュッと握手。

国鉄全線制覇するんだと青春18きっぷを使って各駅停車に乗って、遠く離れた公演地の楽屋にフワッと現れたり、海外ツアー出発の成田には必ず見送りに。

そして当然のごとく帰国時の到着ゲートにて「お疲れさま。ギュッ」と握手。

本当にあれやこれやと数えきれないほど沢山お世話になってしまったけど、一番ありがたかったのは、「しっかりやれよ!」「油断しちゃだめだぞ!」などと、常に叱咤激励して頂いたこと。

鼓童に対して大切な「お叱り」を下さり、強く熱く優しく応援して頂き見守って下さったこと。本当にありがとうございました。

 

本間康子

山野さんとの思い出はたくさんありますが、1986年から1999年まで、私は毎年年末に新宿・歌舞伎町のシアターアプルで行っていた「十二月公演」のチケット係を務めていました。その時がもっとも濃いおつきあいをさせていただいていたかもしれません。

新宿コマ劇場の地下にあったシアターアプルは、客席数600ほどの小劇場で、鼓童は毎年10日間の連続公演を行っていました。「鼓童を聴かないと年が暮れない」とベートーベンの「第九」のように楽しみにしてくださる方がいるような、年末恒例の一大イベントでした。

山野さんから毎日のように届くチケットの予約連絡は、手書きのファクスでした。
イラストが添えてあったり、山野さんの独特な丸文字が踊っている楽しいものでしたが、時々「ここ、なんて書いてある?」と数人で解読にあたることもありました。
ハガキや封書をくださる時には、珍しい切手が何枚か貼り合わせてあり、その切手を見るのが楽しみでした。

季節と手紙の内容に合わせて。「梅と桜」

連続公演の期間中、劇場に来られない日はなかったのではないでしょうか。
山野さんを「鼓童の社長さん」だと思い込んでいたお客様もおられました。
劇場に到着した山野さんは、客席案内のスタッフの方々や受付の机に立つ私に、ほぼ必ずと言ってよいほど「ボンタンアメ」の箱をポケットから取り出して、少しいたずらげな表情をして1粒づつくれました。不思議によく覚えています。

千秋楽の日にはミーティングの時間から入られて、舞台上に集まったメンバーの集合写真を撮るのが恒例行事にもなっていました。

その後、2006年から2013年にかけて、鼓童結成25周年を機に、山野さんが撮りためた鼓童のスナップ写真を機関誌で紹介する「山野さんのアルバム拝見」という不定期連載の担当になり、千葉市の山野さんのご自宅に何度か伺わせていただきました。

部屋の壁一面に並ぶアルバムには、写真はもちろんですが、公演のチケットや列車の切符、旅先で入ったお店の割り箸袋というようなものが丁寧に貼られていました。山野さんご自身も「昔のことでもう忘れちゃったよ」と言いながら、アルバムを開くと当時のことがだんだん蘇ってきて、私も一緒に追体験させていただく。そんな楽しい時間でした。
山野さんから聞かせていただいた数々のエピソードは、2011年に出版した『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』を編集する際の、大きな助けとなりました。

山野さん、本当にありがとうございました。
今ごろは天国で、沢山のお知り合いの皆様との再会を喜ばれていることでしょう。どうぞ皆様によろしくお伝えください。

2006年、山野さんのご自宅のアルバムの前で。

メラニー・テイラー

2007年に鼓童のスタッフになって、事務所でもツアー現場でも山野さんのお名前をよく聞きました。よく鼓童に電話や素敵な字の手書きFAXが送られてきて、鼓童の公演の口コミ宣伝とチケットの手配をされていて、パワフルな応援に感動しました。プレイヤーとスタッフの名前を一人一人覚えて、みんなのことを見守っていました。

劇場やECで会うたびに、ニュージーランド(NZ)へヨットで行ったときの話、鼓童の昔の話や大切な方についての話をたくさん聞かせてくださいました。NZまでのヨットの旅について、フォトアルバムを作ってプレゼントしていただきました。あまりにも印象に残った人生最大の冒険で、NZが大好きになったそうです。私の母国についてよく二人で話が盛り上がって、私の両親まで気にかけて頂きました。

山野さんが乗船された「海王丸」の帆布。小さく切ってコースターとしてプレゼントしてくださった。

2013年に佐渡と日本を離れてもずっと、コロナのパンデミックの発生まで来日するときは毎回山野さんに会いに行きました。「また会えましたね」 と毎回嬉しく挨拶していました。そして「また会いましょう」と 手を振って別れました。

山野さんに「頼むよ」「がんばれよ」 とよく言われてきました。成田空港の送り迎えもたくさんの手紙と写真、話も、一生忘れません。鼓童の親友で最強のサポーターの山野さんと、たくさんのカフェタイムを過ごせたのは嬉しい限りです。

山野さんのエピソードと写真が載っている鼓童の本『いのちもやして、たたけよ。』を、丁寧に大切に英訳し続けます。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

ジョニ・ウェルズさんを偲んで

9月6日に亡くなられたJohnny Walesさんを、私たちは皆、親しみをこめて「ジョン」と呼ばせてもらっていました。

「故人のことをお話すること、それも供養です。」

永六輔さんが著書『お話供養』の中でそう語っているように、それぞれの人の心に残っているジョンさんとの思い出やエピソード、作品を紹介し、ご供養とさせていただきたいと思います。(構成:本間康子)

4月の春祭りの日。パートナーの智恵子さん、愛犬のカイラとともに(撮影:メラニー・テイラー)

メラニー・テイラー

ジョンさんは2007年に初めて会った時からずっと親戚のような親友でした。ジョンさんと智恵子さんの家でよく食事パーティーをしたり、ジョンさんは昨日のように80年代の鼓童ツアーのエピソードを熱く語ったり、一緒にその場にいたような気持ちになるぐらい演技のいい語り手でした。食卓を囲んで話と笑いが止まらない夜をたくさん思い出します。

暖かいおもてなしと友情を通じて佐渡が私のホーム(故郷)だと感じさせてくれました。帰国した後、いつ訪れても、私をみた瞬間に「ダーリン、お帰り!」と笑顔で歓迎してくれたこと、たくさんの話をしてくれたこと、朝食においしいコーヒーとハッシュドポテトを用意してくれたことが恋しくなります。安らかにお眠りください。

佐渡・相川のお気に入りの焼き鳥屋「金福」にて。ジョンさん、メラニー、ジョンのパートナーの智恵子さん

新井和子

ジョンさんとのハグは大きくて、あたたかくて、心から安心できて、サンタクロースとハグしている気持ちにさせてくれるものでした。

Kodo Beat」の取材でインタビューしてくださったことがありました。私が初詣などにさそわれ、神社などに参拝する時に、自分がクリスチャンだから困るという相談を今は亡き父にした際、「こんにちわ」と言えばいいんだよと答えてくれたというエピソードを話した時、「それはいいね!」とおもしろがってくれた笑顔をいまでも覚えています。

今はその笑顔が空いっぱいにひろがっている気がします。これからもきっとみんなのことをおもしろがって見つめていてくれていると感じています。

ジョンさんのFacebookより

Johnny’s Work with Kodo

ジョンさんが編集・イラストを担当した英文ニュースレター 『The Kodo Beat』の創刊号(1987年)

 

ジョンさんが佐渡に住むきっかけとなった、佐渡に伝わる人形芝居の一つである「文弥人形」。鼓童文化財団の事業として、1998年にエジンバラ・フェスティバルで文弥人形を紹介した際には、文弥人形の遣い手・通訳として参加いただいた。

写真提供:今泉幸子さん(今泉さんも人形遣いとして参加)

本間康子

ジョンと初めて出会ったのは1985年の春、私が研修生として佐渡に来てまもなくの頃でした。公演のあとの打ち上げ会場で、流暢な佐渡弁で話しかけてくる外国人がいるので驚いていると、「ふるしい(古い)」や「ていそい(疲れた)」など、色々な佐渡弁を教えてくれました。

1989年にジョンがカナダに帰ることになって、いくつかの家具を預かりました。その年にちょうど建てたばかりだった我が家に置かれた、いかにも古しい家具たち。それはジョンが佐渡に戻ってくるまで10年以上そのままで、いつの間にか我が家にすっかり馴染んでいました。

カナダに向けて出発するジョンさんと智恵子さんを見送るため、港に集まった知人・友人の皆さん

預かった家具の中に、ロッキングチェアがありました。ひどく疲れてしまったり、気持ちが落ち込んでしまったような時は、そのロッキングチェアに座って、ぼんやり天井を眺めると心が休まりました。

最近は、ジョンと会うのはたいてい4月、我が家の祭りでした。結婚した翌年、私にとって初めての祭りに来てくれて、動画を撮ってくれました。それは今も私の宝物です。

もう来てもらえないと思うと、さびしくてなりません。

2013年4月 河内神社の祭り。本間家での門付け。(撮影:Johnny Wales)

Johnny at Earth Celebration

鼓童ブログなどのライター、カメラマンとして、ECを取材。

(撮影:宮川舞子)

EC案内所のスタッフの皆と。

ジョンさんのFacebookより

齊藤栄一

特に強烈な思い出がある訳じゃないけど…

鼓童に入ったばかりの緊張気味の僕に、佐渡弁混じりの流暢な日本語で、気さくに話しかけてくれたなぁ。

流木などを拾ってきて作ったカラクリ仕掛けのおもちゃを見せてもらったり、カヌーの漕ぎ方を教えてもらったり、ヨーロッパの教会で足元のお墓を見て「これ鎌倉時代の人だよ」とか叫んだり、うっとり音楽を聴いてる僕の横顔をサラッと絵に描いてくれたり、セロリをピーナツバターで食べると美味しいってのも教わったし、中国ツアーでは中国語を操って料理を注文してくれたり、イタリアでは一緒に観光してる途中で、結婚相手と運命的な出会いをしちゃうし…

いつも飾ることなく自然体で、好奇心の塊りで、優しくて、ユーモアがあって…

特にあの時ありがとう、ってこともないけど。

色々と本当にありがとう。

今もその辺にジョンさんを感じます。

ジョンさんのFacebookより

大井キヨ子

私がジョンに出会ったのは鬼太鼓座が海外進出したボストンマラソンでした。ジョンと友達のくまちゃんと二人で立っていました。大きなグリズリーと見間違うほどの髪の毛とひげを蓄えていました。トロントからヒッチハイクしてボストンまで来てくれたのだそうです。そこからずっとのご縁です。

会えばジョンといつもハグしてました。ずいぶん昔、私が刺した刺し子の半纏をプレゼントしました。これを大事に着てくださり嬉しかったです。

ジョンからは鉈(ナタ)のケースをプレゼントしてもらいました。鼓童村の山仕事では欠かせない道具。家の敷居を使ってありました。物作りという共通点でつながっていたように思います。

ジョンの入れてくれたシナモンの効いたウインナーコーヒーはいつもおいしかったです。

腰につけているのがジョンさん作の鉈のケース

青木孝夫

1975年には、ジョンは佐渡にいて文弥人形の濵田守太郎先生や鬼太鼓座とも出会っていました。私は鬼太鼓座で仕事をする決意をして佐渡に移住した1979年頃にジョンと出会っていて、その時のジョンの流暢な佐渡弁がとても印象に残っています。

「外国人なのに、なんで佐渡弁?」

おそらくこの頃から、ジョンは佐渡を愛してくれて、すでに佐渡人になっていたのだろうと思う。

私が直接、ジョンと仕事をさせてもらったのは、2010年に上演した『うぶすな』公演に向けてでした。これが私からお願いした最後の仕事になってしまいました。

 2009年に鼓童村で大きく育ち乾燥させた桐の木をジョンの工房に持っていき、幕開けの「鼓童三番」(こどうさんば)という舞の演目で千歳(せんざい)、翁(おきな)、三番叟(さんばそう)の3人に使う「仮面」における私の演出意図を説明し、時広真吾さんの衣装デザインのイメージも伝え、これで創ってほしい。とお願いしました。

今まで見たこともない独特な「仮面」を創ってくれました。

ジョンさん、ありがとう。

「うぶすな」公演パンフレットより。(写真:秦 淳司)

Johnny’s Carvings

ジョンさんの木彫り作品たち(機関誌『月刊鼓童』1989年1・2月合併号より)

 

 

ジョンさん、ありがとう。どうぞ安らかにお眠りください。

トキの森公園で、真夏のご褒美と共に

鼓童文化財団 研修所 41期 二年次スタートしました/赤澤京

7人でのスタートをきった41期新2年生。
今年も「冬期間」と呼ばれる時期がやって来ました。

鼓童メンバーと稽古スケジュールを確認

研修所がある柿野浦の山は雪がうっすら積もり、寒い日々が続いています。
その中でも寒さに負けじと稽古場では研修生の熱い稽古が行われています。

とにかく打ち込んで自分の限界を超えていく

4月に新一年生を迎えるまで、そして12月の最終発表会に向けて自分たちはどこまで伸びていけるだろうか?

気持ちを高め、お互いにぶつかり合い、励まし合いながら前に進んで行きます。

時には投げ出したくなることもあるかも知れません。
だけど今はぐっと堪えてひたすら自分自身、同期、太鼓と向き合うのみ。

今は目に見えない根っこの部分をしっかり太くする時。
いつか綺麗な花が咲くと信じて…

春の訪れを楽しみにしながら一歩一歩踏みしめて参ります。

研修所講師ご紹介 〜ボディワーク 京矢彩希 先生〜『自分の体へこだわりを持って…』/ 赤澤 京

ボディトレーナー 京矢彩希 先生 

2019年より研修所講師。

〈プロフィール〉
北海道出身。

18歳の時昭和音楽大学短期大学部に入学、卒業後は芝居のみを学び直すために、UPSアカデミーに入学。

その後は日本舞踊の舞踊団に約10年所属しながら、ミュージカル、ストレートプレイの舞台に立つ。

ヴォイストレーナー野上結美先生のご紹介で、研修生や鼓童メンバーへの指導を行う。

 

「自身の怪我をきっかけにピラティスの資格を取り、身体のトレーニングを学び指導者としても活動しています。」

 

『研修生への指導の内容は?』

 

ピラティスやグランドムーヴメントで身体の使えていないところや感覚のないところ、歪み、左右差などを本人たちに気づかせながら、それらをトレーニングを通して自分の力で整えていくトレーニングを組み立てています。

そこから最後は腰をしっかり落とせる強い下半身を作るためスクワット、ジャンプトレーニングまで!!

骨盤の位置をトレーニングによって正しい位置に矯正中

 

『最初に指導に来られた時の印象や記憶に残っていることはありますか?』

 

過酷な環境だなと思いました。

日々便利になっていく都会の生活に逆行するかのような生活を送る研修生を見て、私には到底真似できないと思いました。

足を地面に押し返して、揺れない下半身を作るためのジャンプトレーニング

 

『研修生へ指導を通して思うこと、伝えたいことは?』

 

太鼓を打つにも、民族舞踊を踊るにも、歌を歌うにも、まずは自分の体のベースの土台が育っていないと、いつか技術を身につけていく途中で行き詰まりが必ず出ます。

そして怪我をして悔しい思いをします。

そんな時、体の使い方の根本を見直し立て直すトレーニングが必要となります。

今の若いうちから自分の体へこだわりを持ってしっかり自分の体と向き合ってください。

それが長く好きな太鼓を打ち続けていけるカギとなります。

 

また、舞台でお客様を感動させられるプロとしての身体を仕上げてください。

骨や筋肉の位置や動きを意識しながら、芯のある身体づくりを目指します

ここまで3名の研修所外部講師の方々をご紹介して参りました。

鼓童研修所では太鼓のみならず芸能や舞台で必要なスキルを養うためのカリキュラムがあります。
詳細はこちらをご覧ください。

〈研修所カリキュラム紹介ページ〉

研修所のカリキュラム(研修内容)