鼓童の交流学校公演

 

こんにちは、鼓童です。
鼓童では学校の体育館にでむき、子どもたちに目や耳だけでなく、全身で太鼓を感じてもらう公演を1999年から行っています。

2020年春、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、新潟市内の小学校で予定していた55校42回約20,000人の子どもたちに向けての交流学校公演がすべて中止になってしまいました。今年は感染対策に配慮して、5月31日から6月末まで約60回の公演を実施できることとなりました。

今回は安心安全に公演を実施するために、プログラムや構成も熟考しました。太鼓体験はできませんが、鼓童が伝えたいことをぎゅっと詰め込んで、子どもたちにとっても鼓童メンバーにとっても、かけがえのない時間を皆で共有していきたいと思っています。

昨年からの公演数の激減、今も続く公演延期やキャンセルの中、鼓童の活動の継続には皆さまのご支援が大きな支えとなっています。

ひとつの地球をめざし、様々な舞台を携えて旅をする、鼓童の公演活動を応援してくださる「ワン・アース・ツアー支援」。

人材の育成、国際交流、太鼓の力を社会の力につなげる鼓童文化財団の活動を応援してくださる「一般寄付」。

鼓童の舞台を夢みて、太鼓と自分に向き合う研修生を応援してくださる「研修生育成支援」。

皆さまのご期待にお応えできますよう、日々精進してまいりますので、引き続きご支援のほどどうぞよろしくお願いいたします。

ご支援のお願い

大井キヨ子聖火リレー完走!!/新井和子

Photo: Taiyo Onoda

6月4日 雨のふりしきる中、東京2020オリンピック聖火リレー新潟1日目、鼓童創設メンバーで現在もスタッフとして在籍している大井キヨ子が佐渡区間の最終奏者として、完走しました。

中継地セレモニー後のプログラムで予定していた鼓童の演奏は雨で中止となってしまいましたが、出演予定だったメンバーは入場が許可されていたので、応援にかけつけました。

佐渡の最終地点、ジブリ映画 「天空の城ラピュタ」の景色に似ていると評判の、北沢浮遊選鉱場きたざわふゆうせんこうばで到着をまっていると、雨と霧でけぶる遠くに聖火トーチの炎がはっきりと見えました。それがだんだん近づいてくると自分でも思っていた以上に胸がきゅっとし、どんどん気持ちが高まっていく感動的な体験でした。

Photo: Kazuko AraiPhoto: Tomoe Miura

大井キヨ子(旧姓小幡キヨ子)は鼓童の前身である、鬼太鼓座おんでこざ時代にボストンマラソンを6回走り、78年には6位に入賞、その翌年79年に別府大分毎日マラソンで2時間48分52秒の記録を出した日本女子マラソンのパイオニアです。この記録は男性と一緒に走ったために、非公認とされたことで、自分が「国内大会女子マラソンランナー第一号」といっていいのかという思いがずっと胸にあったと聞いています。

今回 聖火ランナーに決まり「認めてもらえた思いでとても嬉しい!その感謝の気持ちで走る」と前日に話をしてくれました。Photo: Kazuko Arai

Photo: Tomohiro Mitome

感謝に溢れた満面の笑みで走ってくる仲間を応援できて、私たちも満面の笑みで帰路につきました。

無料オンライン企画ハイスクールアカデミア受講者受付中!/新井和子

ハイスクールアカデミア開催
2021年3月25日(木曜日)14:00-15:00

無料でオンライン参加できる企画のお知らせです。

公益財団法人文京アカデミーが企画する「ハイスクールアカデミア講座」。中高生を対象にこれからの進路の先にどのような職業があるのか、さまざまな業種の先輩方の話を聞く企画です。

今回「舞台人/太鼓奏者」として三枝晴太が話をする機会をいただきました(写真右)。ナビゲートするのは鼓童ハートビートラヂオのパーソナリティとしてもおなじみ、小松崎正吾。(写真左)

話の内容は中高生に向けてですが、今回はオンライン開催ということで、文京区以外の全国どこからでも大人の方でもメールアドレスお持ちの方ならどなたでも参加可能です。

進学校に在籍していた高校時代にどんなきっかけで鼓童研修所の門をたたいたか、今はどんな生活をしているのか、今後の夢は・・・
飾らない等身大のトーク企画。是非ご参加ください。

ハイスクールアカデミア

日時 2021年3月25日(木曜日)14:00-15:00
対象 どなたでも(メールアドレスをお持ちの方)
定員 30名 ※前日まで受付可
料金 受講料無料
お申し込み https://www.b-academy.jp/manabi/060123.html
お問い合わせ アカデミー文京 学習推進係 Tel. 03-5803-1119

赤嶺隆さんを偲んで/本間康子

私たちの大切な仲間である赤嶺隆さんが3月18日に亡くなって、早いもので5月5日で四十九日を迎えました。

赤嶺さんが鼓童と出会ったのは1984年。鼓童が初めての「ワン・アース・ツアー」でロンドンに行った時でした。
公演会場で、赤嶺さんの存在に気づいたのはハンチョウ(河内敏夫)でした。「一番前の席で目を爛々と輝かせて観に来てくれた日本人がいた。」と言っていたそうです。

赤嶺さん自身はこう語っています。
「初めて鼓童の舞台を見たとき、太鼓の音が私の身体の一番深い部分にどしーんと落ちてくるようでした。その感覚は、異国にいた私のアイデンティティを大きく揺さぶりました。吉利さんがステージに現れて打ち始めると、観客は一気に引き込まれました。『大太鼓』が終わっても、あまりの感動で拍手ができないほどでした」(『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』より)

また、当時鼓童のメンバーでツアーに参加していた富田和明さんが、コベントガーデンで目を閉じて三味線を弾いていて、弾き終わって目を開けた時、そこに赤嶺さんがいたそうです。

1984年・ロンドンにて(撮影:富田和明氏)

鼓童が好きで、鼓童で働きたいという思いが募り、公演後にハンチョウに会うと、第一声は「いつから(仕事)始められる?」だったとか。

赤嶺さんは、1986年1月に佐渡にやってきました。

1986年・北田野浦研修所にて(撮影:富田和明氏)

海外公演の交渉等はハンチョウがひとりで切り盛りしており、赤嶺さんの加入により強化が図れると期待がふくらんだのも束の間、1987年の元日、ハンチョウは旅行先のフィリピンで遊泳中に不慮の事故に遭い、戻らぬ人となってしまいました。

絶望的な悲しみを抱える一方で、アメリカツアー出発の日が迫っていました。
葬儀はツアー出発の前日にハンチョウの実家のある東京で営まれ、赤嶺さんは初の海外ツアーマネージャーを、鼓童存亡のかかる危機的状況の中で務めることとなりました。

1987年のワン・アース・ツアー(撮影:2点とも富田和明氏)

以来、事情により鼓童スタッフの立場を離れることになる2008年まで、国内外の公演でツアーマネージャーを務めるかたわら、ワークショップのスタッフや、アース・セレブレーションでの海外ゲストアテンドなど、様々な場面で活躍。

1995年・北米ツアーにて(撮影:狩野泰一氏)

2010年からは海外公演アドバイザーとして、主に海外における鼓童の公演活動をサポートしてくれました。
赤嶺さんが変わらずにやってきてくれたことは、ひとえに「人と人をつなぐ」ということでした。

この機会に、赤嶺さんがかつて鼓童の機関誌に寄せた文章を読み返しました。
そこには、彼の人柄そのもの、そして鼓童への深い愛情があふれていました。
世界各地で多くの方々とのご縁を丁寧に紡いできた赤嶺さん。
機関誌「月刊鼓童」バックナンバーより文章の一部を抜粋し、その一端をご紹介させていただきます。
 

「タンパの子ども達」 1988年6月号より

大人が失いかけた感受性をもう一度見直してみる、確認する機会を与えてもらいました。 

フロリダ州タンパでの公演期間中、小学校の生徒達が鼓童の舞台を見るために劇場に足をはこんでくれたのですが、入って来る子供達を見ていてふと気がついたのは、ごく自然にグループに同化した体の不自由な子供達がいたのです。特に障害を持った子供を優先的に劇場に入れる訳でもなく、かといって遅れて最後にやってくる訳でもない。仲間の子供達と手をつないで入ってくるんですね。体の不自由な人に対して変な先入観もなければ偏見を持っていない。普通にワイワイおしゃべりしながらお互いを助け合っているのがごくあたりまえのようです。

公演後、目の不自由な少女が一人、本当に細い小さな腕で、小さな胸の中に太鼓を抱き込んで、太鼓の皮に頬ずりをするんです。少しだけあっけにとられたりもしたのですが、彼女のしぐさが、けなげで可愛くもあり、また大胆で生き生きとした姿に見えました。彼女にとって切実な欲求の対象となる。“触れる”。そして“確かめる”。という意識を素直に表現したことに共感もしました。またうつむいたまま照れくさそうな笑みを浮かべた少年が、手を差し伸べ握手を求めてきたんです。彼の感動は理屈じゃなくて、キラキラと輝いた感受性そのもののような気がしました。

弱者の中に人間の良質な部分がないとどうしていえるのか、というようなことを考えさせてくれたのが、タンパの子ども達でした。

1992年・北米ツアー中に行われたワークショップにて(撮影:狩野泰一氏)

海外鼓童塾もまた楽し-鼓童塾・北アイルランド編 1991年12月号より

イギリスで開催されたジャパンフェスティバルの要請に応え、鼓童塾を開いてきました。

とくにロンドンから来た人達は、ものすごい期待感を持ってくれていたわけですが、その楽しみにしてくれる気持ちと、こちらの気持ちがピッタりかみあうことができたんですね。それでなんかこう、安心感の中でを落ち着けてすすめることができたんです。終わった後も、みんなで「楽しかった」と佐渡にファックスを送ってくれたり、体験後の反響を見ると、参加した方にとっても思った以上に充実したものであったようで、僕らも喜んでいるんです。

何が……というと、「人とまじわれる」ということだと思うんです。やっぱり、公演の場合は、舞台と客席とはどうしても一線を引かれた世界ですよね。声をかけたりはできないじゃないですか。ワークショップの場合は直接コミュニケーションができる。それが楽しいですよね。フィーリングが通じるということは、ほんとに気持ちの良いことです。それが一番大きかったですね。

1991年・鼓童塾-北アイルランド篇

違う部屋で、アイルランドの伝統的な太鼓を使ったワークショップもやっていたんです。「ボーラン」という太鼓と「ランバー」という太鼓です。この二つの太鼓は、かたやカトリックかたやプロテスタントという宗教的な背景をもっているんです。宗教紛争は、今もイギリスの大きな問題ですよね。「一緒に演奏したりすることもあるんですか?」ときくと、「NEVER。絶対やらない」と強い調子で断言するんです。「ありえない」って。

ところが……、その後で参加者の交流会があって、出演者が集められた。当然と言えば当然、彼らは始め、見るからにお互いを牽制し合って、隅と隅に遠く離れていました。けれども、僕らが無邪気にいろんなことを質問したりするうちに、両方が段々近寄ってきて….。最終的には、僕らも入って「絶対にありえない」といっていた演奏まで一緒にしてしまったわけなんです。

後からきくと、これは「歴史的な出来事」なんだそうです。

僕らが、変に気を回して緊張していたら、こうはならなかったでしょうね。単純に音楽に対する興味をぶつけたから、自然に一緒になれたんじゃないかと思います。

大きい太鼓がランバー(奥)小さい太鼓がボーラン(手前)。和太鼓も加わり「歴史的」なセッション

それぞれの鼓童塾 1998年10月号より

世代も環境もさまざまな参加者が、太鼓を叩くという一つの目的のために日本中、いや世界中から集まって来ます。いろんな人達に出会えるのも鼓童塾の魅力の一つですね。 

また、研修生にとっても鼓童塾は、得難い機会になっていると思います。なんの機会かというと、まごごろを修練する場とでもいいましょうか。料理一つとっても、参加者の皆さんにおいしく食べてもらうために心をこめてつくる。何かを聞かれたり頼まれたりしたら精一杯対応する。常に、心をこめること、感謝することを一生懸命考える時間なんですね。鼓童塾というのは、そのことに意識を向けるまたとない機会なんです。(談)

 

フリートーク 2008年6月号より

いま、沖縄にいます。
沖縄には時間がいっぱいあります。もちろん錯覚でしかありません。が、私の皮膚の中にあるウチナァンチュのDNAも、これを大いに良しとし、喜んでおります。時間があると、私の思いは鼓童と佐渡を駆け巡ります。その時、ふと思うことは、鼓童が佐渡が、私の精神をやすらがせ、生きるための元気と勇気をあたえてくれ、いえば、私のアイデンティにもなっているという気がするのです。鼓童、佐渡、沖縄、この三つの要素の中に自分が自分である由縁というものを発見することができました。

鼓童を通して忘れ得ぬ出会いというものに恵まれました。これらの出会いや出来事の一つ一つが私の血の中に流れております。鼓童での二二年間は幸福でありました。延々と私事を述べてきましたが、最後の一言です。鼓童は、私の宝であり、誇りであります。

それでは、みなさん、またあう日まで。

2011年、沖縄を訪問した洲﨑拓郎・純子夫妻とともに

 

吉田励さんを偲んで/本間康子

吉田励さんは、鼓童の大変古くからの、大切な友人です。

私が吉田さんと初めてお会いしたのは、研修生となった1985年の夏。ポスタービジュアルの撮影のため、吉田さんが大小(当時の本拠地)に来られた時だったと思います。
12月、そのポスターの公演に自分が出演できることになり、数あるポスターの中でも思い出深い1枚となりました。

One Earth Tour ポスター(1985年)

その前年、1984年に半年かけて10ヶ国を巡った、最初の「One Earth Tour」のポスターも、吉田さんの撮影です。
羽茂の素浜海岸に沈む夕日が今日は良さそうだということになり、「そらいけーっ!」と大急ぎで向かって撮影したそうです。

One Earth Tour ポスター(1984年)
シルエットは藤本吉利

吉田励さんは1951年(昭和26年)山梨県甲府市生まれ。二十歳の頃から佐渡へ折々通ってくるようになり、ついには移り住み、佐渡の方と結婚されました。

吉田さん(旧姓は石原さんでした)との最初の出会いは、前身の鬼太鼓座時代に遡るとのこと。
宿根木の博物館で収蔵品の記録撮影のアルバイトをしていた吉田さんが、加藤泰監督の映画「ざ・鬼太鼓座」撮影の際、スチール写真を担当されたことがきっかけでした。
写真は、写真集『佐渡島』などで知られる写真家・富山治夫氏(1935-2016)に師事していました。

1985年「西馬音内」撮影(写真:富田和明氏)

当時の鬼太鼓座のメンバーと吉田さんは、ほぼ同世代。
佐渡島内には友達づきあいをするような人はほとんどおらず、自由に生きている吉田さんの姿がとても新鮮で、皆が惹きつけられたと言います。

独身時代には、ツアーのバスドライバーをお願いしたり、海外ツアーに同行された事もありました。鼓童の生みの親の一人である本間雅彦先生の「てづから工房」の一員でもあり、旅先で運転の合間に刺し子などをする姿を見て、後に続く人が何人も出ました。大井キヨ子もその一人です。

雑誌『銀花』で刺し子が紹介された

1985年 旅先にて(写真:富田和明氏)

1982年 アメリカツアー(写真:富田和明氏)

吉田さんは、機関誌『鼓童』に「とことこむしのいっぷく」というタイトルで、佐渡の暮らしを写真と文章で綴る連載コーナーをもっていました。
(「とことこ虫」とは佐渡弁でカブトムシの幼虫のこと)

編集担当となった藤本容子がぜひにと依頼し、1981年秋の季刊「鼓童」第3号から1982冬第7号まで、月刊になってからも1984年5月号からも2ヶ月に1回のペースで1992年12月号(100号)まで、46回続いた長期連載でした。

機関誌『鼓童』連載「とことこむしのいっぷく」

研修生になることが決まって、鼓童から機関誌が届き、そこで見た「とことこむしのいっぷく」に綴られていた佐渡の生活風習は、横浜育ちで佐渡をまったく知らなかった私にとって「佐渡の原風景」となりました。

宮本常一先生のことを敬愛していた吉田さん。
「観光とは、そこに生活している人々が、生き生きと光り輝いている姿を目撃するということだ」との宮本先生の言葉を大切にされていました。

カメラマンだけでなく、アウトドアの遊び(スキューバーダイビングや水上スキーや登山など)や家具製作、家の改築、設備工事など、多種多様な趣味を満喫されていたそうです。
いつも肩の力が抜けているというか、自然体。笑顔の吉田さんしか思い出せません。

EC1994 吉田励氏(写真:坂口正光氏)

鼓童の本拠地が小木に移ってからも、アース・セレブレーションなどの公演や、財団設立などの大切な行事、そして新年の集合写真と、本当に様々な場面で私たちを撮影してくださいました。

EC2003(写真:吉田励氏)

鼓童文化財団設立行事(写真:吉田励氏)

2013年 鼓童グループ 新年の集合写真(写真:吉田励氏)

 

2020年5月5日深夜、吉田さんは彼岸へと旅立って行かれました。

ご冥福をお祈りするとともに、私たちに残してくださった、素晴らしい写真や言葉の数々に深く感謝申し上げます。

吉田さん、本当にありがとうございました。

 

1982年 吉田励氏(写真:富田和明氏)