【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 後編/青木孝夫

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【2001年 ケヤキの植樹とケヤキ原木太鼓づくり、薪ストーブ】
私たちの生業である太鼓のことを絶えず意識し続けて活動してもらいたいという願いから、2001年2月にケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。
特に鼓童の人たちが日々の暮らしの中で一番行き交う場所である中庭には、象徴として庭の中央に植えました。

ケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。

また、その苗木は植樹する前に稽古場にて見留知弘を中心とし、船橋裕一郎や当時準メンバーだった石塚充阿部好江らに「魂入れ」の太鼓演奏をおこなってもらいました。
私たちの生業は太鼓を中心とした芸能の創造であり、この生業に欠かせない太鼓は樹木と動物の皮の恩恵で成り立っています。その中でもケヤキはとても堅く重い材で、音をよくはね返す性質があり、太鼓にはとても適した樹木なのです。

四季が変わりゆく中で成長していく鼓童村のケヤキ。(撮影:西田太郎)

私の好きな絵本があります。
原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』。
実は鼓童村の中庭にケヤキを植樹したのもこの絵本の影響かもしれません。

原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』の影響で鼓童村の中庭にケヤキが植えられました。

私にとってこの絵本は宇宙、自然、人間存在の本質を問う人類哲学の指針となっている愛読書でもありました。重責に押しつぶされ、孤独と絶望に打ちひしがれたときなどは何度も何度もこの絵本を読みかえし、励まされ、勇気づけられてきました。

いったい「鼓童」というグループは何のために存在するのか。

こんなことを自問して袋小路に陥ったとき、この絵本の中に私自身を投影し、「いま、何をすべきなのか」と、今も思索し続けています。

今までも同じく、目の前に「存在」していたものなのに、今までは見えなかったその「存在」がうっすらと見えはじめたときがあります。

それは例えば、光や風も通らないぐらい鬱蒼とした森の大地で、咲くのをじっと待ち続けていた植物の根が、ちょっとした人の手入れによって光が射し、風通しが良くなったことで開花し、今まで見えなかった一輪の花の綺麗な存在に気づかされたようなことです。

傍目からすればその行為について、ささやかなことばかりではありましたが、その行為を愚かしいことだとは思わなくなった時期でもあり、行動をおこす原動力となっていました。

そして、2001年秋頃から間伐した雑木を薪に再利用する目的もあり、鼓童村の森の手入れの一環で、鼓童村の食堂に薪ストーブを導入しました。
薪ストーブはエアコンや石油ストーブでは感じられない温もりがあります。
資源の循環をさせながら、多忙な日々のひと時をゆらゆらと燃える炎のなんとも言えない暖かさを鼓童メンバー達と共感しあえる場をつくることも目的の一つでした。

鼓童村の薪ストーブ(撮影:平田裕貴)

人間は生きていく上で火と水は欠かせません。この薪ストーブの炎は人間の本能として、心が浄化され安心させてくれるのかもしれません。

さらに、2001年7月にはケヤキの原木太鼓づくりもスタートさせました。
ケヤキの原木は上越市柿崎の「善導寺」にあったものです。このケヤキは内部が腐った影響により、やむなく切り倒され、買い手がつかないまま上越市のNPO法人「木と遊ぶ研究所」が所有されていました。

鼓童村の一画に設けた作業場に運び込まれた原木。

「木と遊ぶ研究所」の方々とは、鼓童村の森の手入れをきっかけに、3年ほど前から親交があり、「このケヤキの原木は鼓童で活用してください」と無償で譲ってくださったのです。そこから、見留知弘を棟梁として「鼓童村のケヤキ太鼓づくりプロジェクト」が始まりました。

棟梁の見留を中心に、メンバーで堅い木を削る作業に取り組んだ。

もともと中が腐って空洞になっていたため、太鼓づくりには適していると思っていましたが、非常に堅い樹木でもあり、なかなか作業は進みませんでした。上越市の木工職人の方のご協力を得ながら、2006年11月には浅野太鼓楽器店へツアーメンバーが伺い、太鼓づくりの最後の工程である太鼓に革を張る「鋲打ち」を行わせていただきました。

空洞に手を入れて空気の振動を感じ、思わず笑みがこぼれる船橋裕一郎。

こうして、6年がかりで完成した原木太鼓が佐渡に戻ってきたのは2007年4月。
ちょうど開館したばかりの佐渡太鼓体験交流館(たたこう館)でお披露目することができました。

棟梁の見留知弘が打ち込んで、原木太鼓をお披露目。

原木太鼓は、たたこう館に来館する方々にニックネームを募集し「やまいもくん」と「ぶたばなちゃん」と名付けられました。

老木に特有の玉目(たまもく)という美しい模様が現れた(撮影:宮川舞子氏)

たたこう館は新潟県内の小学生の修学旅行先として多くの子ども達が訪れるほか、老若男女を問わず、どんな方でも太鼓に触れていただける施設です。もちろん原木太鼓も叩くことができ、自然との共生と地域交流のシンボルとして、多くの方々から親しまれています。

また、2002年〜2003年には佐渡林業実践者大学に参加して、太鼓のバチ材にもなるアテビを増やそうと「空中取り木」という増殖方法(もともと鼓童村にあったアテビの枝をはく皮して、水ゴケを包み、ポリ袋に包んで紐で結び固定し、4〜5ヶ月の育苗期間を経た上で、枝を切って植樹する方法)を学び、スタッフの大井キヨ子らと鼓童村にアテビの植樹も行ないました。

和名ヒノキアスナロ。佐渡では「アテビ」と呼ぶ。


【2007年11月 鼓童牛 きくこ 】

飼育を委託した仔牛のきくこと青木孝夫

ものごとの源流を知らずして未来を語ることはできない。
未来に伝えていくことができない。という思いの中で、
ケヤキの苗木の植樹、原木太鼓つくり、そして次は牛皮のことも思考していくために、2007年11月2日、佐渡北部の高千家畜市場で仔牛(きくこ/2006年12月31日生まれ)を鼓童文化財団で落札し、池野牧場さんに飼育を委託しました。

目的はもう一つありました。
そもそも、池野牧場の方との出会いは「大佐渡トラスト」運動とドンデン放牧を守ろうという市民有志との会合でした。池野さんの牧場がおこなってきた自然放牧は大佐渡の山々の環境保全、シバ草原を守ることにありました。自然放牧の牛たちがシバ草原の草を食べ、自然循環する環境を守り、佐渡の魅力的な風景を持続することと、放牧牛の自然飼育を推進することが目的でした。行政主導の柵付き放牧はどこにもあるけれど、日本の中でも池野牧場さんのような自然放牧をしているところはほとんどはなく、とても貴重な自然放牧でした。

しかし、年々放牧牛も少なくなり、シバ草原にイバラやススキがはびこり、山が荒廃しはじめていました。鼓童グループとしても、何かできることはないかと考えて、「きくこ」を購入しました。そして鼓童文化財団研修生たちと荒れた牛の通り道の確認や草刈り整備しながら、放牧を守り、大佐渡トラスト環境保全のための山登りを始めました。

牛の通り道の確認と整備を行う山登り前にきくこと会う当時の研修生(撮影:石原泰彦)

残念ながら、池野牧場さんは2016年を最後に大佐渡の自然放牧を断念したそうです。一度、自然放牧を断念すると、残念ながら再開はできません。つまり、佐渡で唯一実践されていた自然放牧が絶滅したことになります。それは、さらに大佐渡の山が荒れていくことを意味すると思います。

シバ草原にイバラやススキがはびこると、牛が食べる草がなくなり、さらに荒れるという悪循環になるということです。
それと、自然放牧の経験のある牛が未経験の牛たちを引き連れて、水の場所や食料を探し出すことを教えていく。その循環も途絶えてしまうと、自然放牧ができなくなるということだと思います。

どんな困難にあっても、人間が逞しく生きて抜くためには、どうすればいいのか・・・・・
自然放牧された牛たちが放牧前と放牧後では精悍さが増し、逞しくなって牛舎に帰ってくる姿を思い出します。


【2007年 4尺の国産ケヤキの大太鼓 と 浅野昭利さん】

1982年2月初めに、田耕氏の指示のもと、新たな鬼太鼓座メンバーが真野大小の稽古場にあった太鼓や楽器、家具類を引き取りにきました。
つまり、太鼓がなければ、公演はできない。
公演ができなければ、食べていくことができない。
つまり、ここから・・・まさにゼロからのスタートとなりました。

しかし、初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)はこの難局の中で1982年2月〜8月まで演奏活動を中止とし、新たな演目の仕込み期間、営業期間として次の準備に向けて始動することになりました。
しかし、演奏活動をしていくために、太鼓や楽器類を準備しなくてはなりません。でも当時はまったくお金がありません。そんな状況の中で河内は浅野太鼓楽器店の浅野昭利さんにご相談させていただきました。

浅野さんは私たちの困窮と新たな活動に向けた夢と構想を温かく受け止めてくださり「出世払いでいいから」と演奏活動に必要な最低限の太鼓一式を準備してくださいました。私はこの時の浅野さんのご厚情がなければ、今の鼓童は存在していなかったと思っています。

鬼太鼓座時代にはサントリー様から寄贈された国産ケヤキの大太鼓がありました。しかし、その貴重な太鼓も佐渡を離れ、田耕氏のもとに行ってしまいました。それ以降、鼓童は外材の胴の大太鼓で演奏をしていました。

私はいつの日か、次代を担う鼓童の若者には日本の自然環境に適合した響きのいい国産ケヤキの大太鼓で演奏させたいと願い続けていました。大袈裟に言えば、鼓童にはバイオリンの名器ストラディヴァリウスと同じような存在が必要ではないかと夢想し始めたのは2004年頃です。

しかし、大太鼓にするための大きな国産ケヤキ材はなかなか手に入るものではありません。立派に聳え立つものは神木になっていることが多かったですし、いろいろな事情で売りに出されるものがあったとしても、それはかなり高価なものになっていました。

しかし、私のそんな思いをこの頃から浅野さんに相談させていただいておりました。この時も浅野さんは親身になってケヤキの材を探してくださり、日光産のケヤキ原木と出会うことになりました。
この時、浅野太鼓でも国産ケヤキ大太鼓の製作は20〜30年ぶりになるとおっしゃっておられました。

2005年3月31日に浅野太鼓楽器店本社で「けやきの原木玉切り 斧はじめ神事」が執り行われ、私も立ち合わせていただきました。


この神事がはじまる前に少し雨が降り、浅野さんは「いい清めになったなぁ。」と話され、神事がはじまると少し晴れ間もさしてきました。そして、最後の「昇神の儀」が終わると小雨とともに「雷鳴」がゴロゴロと轟いたことに、なんとも言えない不思議な気持ちになりました。

私は、これから製作が始まるケヤキ大太鼓に魂入れし、神木のケヤキを甦らせることができるのは太鼓職人と太鼓芸人の役割になるに違いないと思いたち、無性にこのケヤキの生まれた場所のことが知りたくなり、2005年5月に鼓童メンバー数名とケヤキ大太鼓(4尺)のふるさと、源流地にも行ってきました。

そうして2年後の2007年に、浅野さんは日光産4尺のケヤキ大太鼓とこの良質な材をくり抜き、2尺5寸の子太鼓と、1尺5寸の孫太鼓も同時に鼓童村に納品してくださいました。

真野大小の稽古場から全ての太鼓がなくなってから、26年後の鼓童村にこの日光産4尺の欅大太鼓が納品された日は一生忘れることができません。


【2008年 御太鼓遊び】


現代の暮らしの中では祭りや芸能の意味がとても重要です。
私は、もともと祭りや芸能(太鼓)は人と人、人と神、天と地を繋ぐ役割があるのだから、その太鼓を中心とした芸能集団である鼓童グループ独自の楽しい村まつりができないものかと常々考えていました。

鼓童が日々、打ち込んでいる太鼓たち。その樹木や動物たちへの感謝、バチや皮も折れたり、消耗したりしたものはゴミ箱に捨てずに、感謝を込めた鼓童的儀式(供養)として、「鼓童村どんど焼き(左義長)」もできないかなぁ。

鼓童メンバーの旅路安全・芸道上達・無病息災・大入祈願を願う「鼓童村盆踊り」などもあると楽しいかもしれないなぁ。

年に一回、鼓童グループ全員が集まり、鼓童村内の森の手入れなどをしながら、感謝を込めた楽しい鼓童村まつりの年中行事ができないかなぁ。

そんな鼓童村まつりのことを思考していたときに、藤本容子からも具体的な提案があり、藤本容子の作詞作曲で風流口説き節(2004年)や鼓童村どんど焼きの唄<左義長>(2005年)という鼓童村独自の唄も生まれました。

現在は鼓童村の恒例行事となった「鼓童村どんど焼き」(左義長)(撮影:西田太郎)

そうして、2008年7月には鼓童村まつり(鼓童グループ内で執り行う年中行事という意味合いのもの)に「御太鼓遊び(おたいこあそび)」という行事がひとつ加わりました。
原木太鼓「やまいもくん」をみんなで担いで鼓童村を練り歩き、中庭に植樹したケヤキのまわりを御太鼓さまが右回り(この世=生命) 左回り(あの世=魂)と担ぎまわし、あの世とこの世の皆々で ハヤシ、オドリ、ウタイ ムスビ合い、村人全員でひとりひとり打ち込み、自然なカタチで祈り、喜び合うまつりの儀式(のようなもの)を行いました。

私たちの生業として欠かせない「御太鼓さま」のすべての繋がりの恩恵に感謝すること、鼓童グループの繁栄と旅路安全・芸道上達・家内安全・無病息災、そして、世界中の繁栄と平和を祈って、鼓童の象徴であるケヤキの「御太鼓さま」を「わっしょい」という掛け声で担ぎ、全員で一打一打魂込めて祈り、打ち鳴らすことにも大きな意味があるのではないかと思ったからでした。

「わっしょい」とは「和」を「背負う」という意味合いがあり、普段仲の悪い人でもこの日、この時に限って、「和」をもって尊し、意気(粋)を合わせて元気に「御太鼓さま」を背負いましょう。という鼓童村村民の絆を確かめ合うとともに、ONE EARTH TOURと同じく、「御太鼓さま」を通じて、世界中の平和を「和」ショイという願いを込めた掛け声で楽しく確かめ合うことも大切なのではないかと思ったからでした。

(特定の宗教観を押し付けたわけではなく、「くらす・まなぶ・つくる」という原初的な理念に基づく思いからでした)

風流口説き節」もこの行事の最後に全員でウタイ納められました。

残念ながら御太鼓遊びは諸事情により、3年で途絶えることになってしまいました。また、鼓童村まつりは会場を深浦学舎にかえて「鼓童祭り」となりましたが、お世話になっている地域の方々をお招きして開催し、「風流口説き節」はまつりの締めくくりに毎年唄われています。

私は芸能者の鼓童人からうみだされ、事始となる「まつり」がいつしか「伝統」になっていくことを想像することがなにより楽しいことでした。

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画