【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 前編/青木孝夫

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【2000年 坂東玉三郎さん 千載一遇の出会い】

坂東玉三郎さんとの稽古風景(撮影:田中文太郎氏)

1999年頃までの鼓童の舞台活動はそれなりに順調でした。

しかし、どんな組織でも現状に満足した時に停滞が始まり、衰退へと向かいます。
佐渡の國鬼太鼓座の時代から鼓童となって20年目が近付いた頃、絶えず先駆的で革新的な創造活動をし続けていると思っていたのですが、組織としては知らぬ間に保守的な方向性へと向かい始めているのではないかという思いを抱きました。
魂を込め、大きな音で一打一打を打ち込む舞台に対しては、反響もあり、お客さまにも満足していただけていたと思います。
しかし、これからの舞台活動を考えていく上で、そこに安住しがちになっていることへの危機感が募ってきたのはこの頃です。

もちろん、鼓童内部でも鼓童メソッドや演出ビジョンなどの話し合いも何度となくおこなっておりましたが、それを具体化するための説得力ある方針がなかなか定まっていきませんでした。

芸の道というものは意識を持って進めば進むほど 険しく、遠く、深くなっていくものです。その深さに挑むには「精神と身体と技術」を鍛え、精度を高めなくてはなりません。
それは言葉で言うほど容易いことではなく、その道を極めていくためにはまだまだ何百年とかかるわけであり、そのために今何をすべきかを考え、行動していかなければならないと覚悟をしたのはこの頃でした。

もっと先々の100年後の鼓童を見据えたときに、今ままでのやり方だけでは続かないという思いにかられました。

そもそも「鼓童」をはじめとする太鼓芸能は、古典として確立しているわけではありません。新しい楽曲を創作する「創り手」が必要ですが、当時の鼓童グループ内だけでは限界がありました。そして「創り手」を育てるには時間がかかります。とにかく新しい視点と発想が必要であり、今やるべきことは何かを考え続けていました。

そんな折、鼓童が専属契約をしていたソニーレコードのプロデューサーが坂東玉三郎さんとヨーヨー・マ氏とのコラボに関わっていた関係で、玉三郎さんの存在がとても気になっていました。

実は、1988年に鼓童が出演させていただいた冨田勲さんがプロデュースされたイベント「サウンド・クラウド・イン・シドニー」に玉三郎さんも出演されており、その時初めてお目にかかりました。でも一流の歌舞伎役者、舞踊家であり、私にとって雲の上の方だったので、この時は緊張して、レセプションの席でもお声をかけることはできませんでした。

しかし、2000年にソニーレコードのプロデューサーのご紹介を得て、12年ぶりに玉三郎さんにお会いし、お話をさせていただくことができました。

2000年12月京都南座顔見世興行での「阿古屋(あこや)」では箏、三味線、胡弓の三曲を自在に弾かれ、内に秘めた女形の演技の美しさと音楽的感性に思わず息をのみ、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)では佐野次郎左衛門役の勘九郎(故十八代目中村勘三郎)さんと八ツ橋の玉三郎さんの絶妙な間のやりとりに歌舞伎の醍醐味を堪能したことは一生忘れることはありません。

しかし、私が最も印象に残った玉三郎さんの舞台は2002年12月大歌舞伎での三島由紀夫氏の新作歌舞伎「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。ポスターデザインに横尾忠則さん、出演者は玉三郎さんはじめ、猿之助さん(現二代目市川猿翁)、勘九郎さん(故勘三郎)、亀治郎さん(現四代目市川猿之助)という豪華キャストでした。
この舞台の初演は1969年11月であり、その1年後の11月25日に三島由紀夫氏は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自害されており、「弓張月」での切腹シーンの演出には三島由紀夫は並々ならぬ力が入っていたとパンフレットで横尾忠則さんが述懐されていたことが思い出されます。三島由紀夫氏が白縫姫役には玉三郎さんしか考えられないという思いの舞台を、初演から33年経って見届けられたことは感慨深いものがありました。

これだけ観客を魅了する芸能者と共演させていただき、ご指導いただけたら、鼓童の新たな創造性を引き出していただけるかもしれないと鼓童の未来を考えれば考えるほど、歌舞伎役者で舞踊家である玉三郎さんとお仕事がしてみたいという思いが強くわきあがってきました。

2001年4月に新潟で玉三郎さんの特別舞踊公演があることをお聞きし、無理を承知でこの機会に鼓童の活動拠点をご覧いただけないかとご相談しました。玉三郎さんは快く新潟公演の前に佐渡の鼓童村を訪問してくださり、稽古場でいくつか演奏を聴いていただきました。玉三郎さんは常々「大太鼓打ちを見れば、そのメンバーの身体の使い方や表現力が一目瞭然」ということをおっしゃっていて、技術的に未熟でもどんどん若手を抜擢して可能性を試していくべきではないか、といろいろとご助言をいただきました。

私の夢は鼓童の演奏する音楽で玉三郎さんに舞い踊っていただけるような共演企画でした。しかし、玉三郎さんからは「鼓童のことをもっと知らなければ共演することはできないので、まずは鼓童の舞台演出であれば」とご承諾を得ることができました。当然ながら、玉三郎さんは鼓童のためにということだけではなく、芸能に携わる後輩たちのために、芸能文化全体の発展のためにという思いでお引き受けくださったのだと思います。

そして、2003年11月「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」の演出に向けて2001年より準備がスタートしました。

玉三郎さんと「佐渡へ」の稽古に打ち込む当時の鼓童メンバー(撮影:井出情児氏)

鼓童単独の舞台の演出を外部の方にお願いするのは初めての取り組みでしたが、私は未来の鼓童及び太鼓芸能文化にとって大きな影響を与えられるものと確信していました。

当然、組織としても今迄になかったことを改革しながらの挑戦でもあるので、内部における対立と葛藤というものは絶えず起こりました。しかし、それは創造活動において欠くことの出来ない源泉であったとつくづく思います。

絶えず、批判という風をいれながら立ち向かう勇気が必要であり、そのために克服する機会と力を与えられ、個々が強くなっていくことが組織として重要なことだと強く感じていた時期でした。

私は他者が真似の出来ない新たな創造性を発揮するために、今までの枠組みを取り払い、新しいものに対して、まず「受け入れて」全体的な調和のなかに組み込みながらゆるやかな変化をしていく必要性を感じていました。

かなり広く、深く、俯瞰的な視野で物事を見定める高い目標を求めていたので、当初、私の行動はすべての仲間たちには理解されないことも多々ありました。しかし、この実践は高みを目指し、さらに成長し熟成していくために乗り越えていかなければならない挑戦として取り組んでいきました。

2002年12月に歌舞伎座出演を終えて世田谷パブリックシアターでの鼓童公演に駆けつけてくれた玉三郎さんは、公演をご覧になられた後から鼓童の衣装について考えはじめられていました。
特に世田谷パブリックシアターは「舞台面が黒のため、藍染めの衣装が沈んでしまう。」ということをお話され、なんと、それから1週間後におこなわれた篠山紀信氏による「佐渡へ」公演用のビジュアル撮影時には衣装見本までご準備くださいました。そして、従来の鼓童衣装デザインをベースに色が「生成り」の方針で準備が始まっていきました。

世田谷パブリックシアターにて(撮影:井出情児氏)

そうして翌年2003年から佐渡に何度もご来島いただき、2003年11月世田谷パブリックシアター15回連続公演を皮切りに、佐渡を含めた全国5都市を巡る、「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」に向けた稽古と貴重なご指導を仰ぐことになりました。

この公演には鼓童メンバー全員が参加し、玉三郎さん自らが鼓童メンバーひとりひとりと向き合い、丁寧な話し合いを重ね、ベテランから若手まで鼓童グループの全体の特性を全面的に活かしてくださいました。特に女性の表現については歌舞伎の女形の世界観を知り尽くしている方なので、愛情深く、厳しい眼差しでご指導していただきました。

ワン・アース・ツアー スペシャルの舞台上で行ったミーティング(撮影:井出情児氏)

従来の鼓童の舞台は大太鼓〜屋台囃子でエンディング、クライマックスへという構成でしたが、玉三郎さんの演出では、木遣り〜大太鼓〜屋台囃子から始まるという真逆な構成でした。鼓童内だけではなかなかできない画期的な発想でした。

玉三郎さんのアイディアと構成でこの時に「巴」と「佐渡へ」という新たな楽曲が生まれました。特に大太鼓、屋台囃子という公演のクライマックスに替わった全員参加の「佐渡へ」は様々な種類の太鼓の音色を緻密に組み合わせるだけでなく、箏や胡弓、三味線、拍子木、鳴物など、鼓童の特性をフルに発揮させ、未来に向けた可能性を最大限に具現化してくださいました。

玉三郎さん構成の元生まれた「佐渡へ」(撮影:田中文太郎氏)

「どんな物を手にもっても太鼓打ちとして成立させたい。楽器も、衣装にもこれからも色々と試していって、100年以上経って、美しい古典に成りうる要素を付け加えていこうと考えている。」

「違った味を楽しめなかったら、将来に向かって様々な作品は提供出来ない」

という玉三郎さんのお言葉は、私が願っていた内部改革の挑戦の意図を汲み取っていただけたことが嬉しくて、とても印象に残っています。

私は玉三郎さんとの千載一遇の出会いは鼓童グループにとって、新たな領域(新しい視点と発想)への挑戦の大きな一歩となったと思っています。

坂東玉三郎氏による初の演出作品「ワン・アース・ツアー スペシャル」公演のライブ収録(DVD・CD)


【2006年 坂東玉三郎さんとの共演作 アマテラス】

「アマテラス」初演時、南座にて(撮影:田中文太郎氏)

玉三郎さんとの出会いから6年後、鼓童創立25周年の2006年に私の念願だった玉三郎さんとの共演作「アマテラス」公演が実現しました。
私は「佐渡へ」稽古期間中も、共演作の可能性を打診し続けていました。

私は玉三郎さんからお借りした玉三郎さんの作品集の映像を拝見し、共演作としてのテーマとなるようなヒントを探しながら、ご相談をさせていただいておりました。そして、その中にあったスサノオがヤマタノオロチを退治する話を題材にした内容の「日本振袖始」(にほんふりそではじめ)が最初のヒントともなり、日本の神話について学び始めました。

高天原(たかまがはら)でスサノオの行為に怒り、天の岩屋戸に身を隠した太陽神アマテラス。このことによって世は暗黒になってしまい、アメノウズメが踊り狂い、捧げ物をし、酩酊や狂気の祝祭を行ったことによりやっと岩屋戸から出てきて、この世に光が甦ったという神話があります。

これは「秩序を壊乱させ、新たな創造の道をひらく」と言う意味にも解釈できます。アマテラスは玉三郎さん。打って、唄って、踊って、奏でて、捧げ物をして太陽を甦らす八百万の神々が鼓童の役割。このようなシンプルなテーマで物語を創作し、それぞれの世界を表現できたら、今までに観たことのない素晴らしい「太鼓音楽舞踊劇」の作品ができるのではないか、玉三郎さんと鼓童の共演作は「アマテラス」しかない。と私は妄想し始めていました。
ところが程なく、それは妄想ではなくなり、玉三郎さんからのご提案によって、スサノオ役に藤本吉利、アメノウズメ役に小島千絵子という鼓童創立メンバーがキャスティングされ、玉三郎さんと鼓童の共演作「アマテラス」が実現できる運びになりました。

アマテラス役の坂東玉三郎さんとスサノオ役の藤本吉利(撮影:岡本隆史氏)

鼓童はもともと太鼓だけの演奏団体ではありません。
打って、唄って、踊って、奏でる芸能を学んできました。そんな太鼓芸能集団としての魅力を物語性のあるテーマで今迄にない前人未踏の新たな舞台に挑戦してみたいと願っていたので、この「アマテラス」公演では私の大きな夢がまた一つ実現できたことになりました。

しかし、このプロジェクトは製作面でもハードルの高い大きな挑戦でした。それでも、玉三郎さんはじめ、松竹株式会社、そして多くの関係者の皆様からのご支援をいただき、2006年5月の世田谷パブリックシアターでの23回公演、6月の京都南座での16回公演を大盛況の中で実現することができました。
そして、2007年8月には、2010年から建て替えのため休館となる前の旧歌舞伎座において再演をさせていただきました。

千秋楽。カーテンコールを通常行わない歌舞伎座で、フルスタンディングオベーション(撮影:岡本隆史氏)

鼓童メンバーたちを歌舞伎座の舞台に立たせたいということも私の夢のひとつでした。
鼓童グループは佐渡という島に根ざしながら、コロナ禍に負けずに、絶えず前人未踏の新しい舞台上での表現を求めて活動していくことが大切であるとあらためて実感しています。

旧歌舞伎座正面玄関前での集合写真(撮影:岡本隆史氏)

 

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画