【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫
【1991年 鼓童創立10周年「ギャザリング」とオーチャードホール】
鼓童創立10周年として1991年7月22日から3日間、初日は鼓童のみ、2日目は「入破」と石井眞木さん指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団との「モノプリズム」、3日目は1988年から1990年までのアース・セレブレーションで共演させていただいた日野皓正さん、山下洋輔さん、ゴスペルシンガーのレシー・ライトさんらとの企画をおこないました。
しかし、今にして思えば、この頃は鼓童村の本部棟の食堂の増築から始まって、住居棟、和泉邸(ゲストハウス)稽古場、などを次々と建設中でしたし、8月のアース・セレブレーションの準備もしながらでしたので、資金繰りを含めて、よくもまぁ、実行できたものだと回想することがあります。でもこの頃、自分がどんなふうにアレコレ奔走しながら乗り切っていったのか、ほとんど記憶にないのです。
ただ、渋谷の東急文化村のオーチャードホール公演に向けては、たくさんのお力添えをいただいたことは今も忘れることはありません。その中でも一番大きな出会いは、東急グループの関係の方々がアース・セレブレーションに度々ご来島いただき、鼓童を応援してくださっていたことでした。そんなご縁もあり、会場押さえのご調整や東急電鉄、東急バスなどでの全面的な広報宣伝のご支援をいただいたことがこの大きな企画を実行していく上で、とても勇気付けられました。
とにかく、30年前も困難の連続でした。それでも若くて未来に希望を持っていたからこそ、やりがいのある面白い時代だったとも言えるのかもしれません。
鼓童創立40周年記念公演の2021年オーチャードホールでの公演に向けては、あらためて30年前のことを思い出しながら、次世代の鼓童メンバーたちの成長を見届けたいと思っています。
【太鼓芸能と音楽】
1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を交わしてから3枚目のCDが「彩 IRODORI」です。このCDが1991年「第5回日本ゴールドディスク大賞のアルバム部門」を受賞しました。
私は赤坂プリンスホテルでの授賞式に参列させていただきました。この時、ベスト5ニュー・アーティスト賞を受賞されたBEGINのメンバーたちとたまたま楽屋が一緒だったので、少しお話をする機会を得ました。すると、彼らから「僕たち鼓童を聞いたことがあります。」という話で意気投合させていただいたことを思い出します。
鼓童が初めて沖縄公演ツアーを行ったのが1983年、そして86年にも再び訪れています。彼ら3人が沖縄の石垣島出身で同級生であることは知っていましたが、鼓童を知ったのは、彼らの出身校の八重山高校での学校公演の時だったと聞いて驚きました。彼らが高校生の時に、鼓童と出会っていて、その後プロのアーティストとなり、このような授賞式で偶然にも再会できたことは感慨深い思い出です。
また、1995年には「第37回日本レコード大賞 特別賞」を受賞しました。この授賞式はTBSのスタジオで開催されました。この時『清河への道〜48番』でアルバム大賞を受賞されたのは新井英一氏でした。新井英一氏は黒田征太郎さんと何度か佐渡を訪れ、1988年第一回のアース・セレブレーションの時に一緒に参加していただいたご縁もあったので、このような晴れの舞台で再会できたことも嬉しかった思い出です。
私は鼓童メンバーが創作した楽曲を著作権登録して管理できるようにしたことや1990年代に音楽業界における素晴らしい賞を二つも頂いたことによって、鼓童の「太鼓芸能」が「音楽」として少しづつ認められるようになったのかなと感じはじめたのはこの頃です。
しかし、2021年の今でも「太鼓芸能」というジャンルは文化庁の分野区分けの中にはありません。音楽・演劇・舞踊・映画・アニメーション・伝統芸能(雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊、その他)・大衆芸能(講談、落語、浪曲、漫談、漫才、歌唱、その他)・・・
日本の太鼓芸能文化はいまだに「その他」の位置づけなのです。
私は時間をかけても鼓童グループの活動を通じて、日本文化の中に「太鼓芸能文化」という芸術分野としてのジャンルが確立される日がくることを今も目指しています。
【1994年 EC94 テント劇場企画】
1994年のアース・セレブレーションのプレイベントとして「テント劇場」という実験的な試みを実践しました。期間は7月28日〜8月18日の22日間。「テント劇場」を通じて当時のメンバーに伝えたかった思いがありました。
鼓童の結成初期は知名度が低く、公演の営業活動が大変な苦難の時代でしたが、1990年代に入ると、公演依頼をお断りしなければならないほどいただけるようになり、逆の意味で苦悩する時代となりました。大きな劇場、たくさんのお客様。仕事があることがあたり前になっている状況に、私はそこはかとない危惧を感じ始めていました。
メンバーたちがこの<恵まれ過ぎた環境>に対して慣れてしまい、ぬるま湯に浸かり過ぎた「茹でガエル」にならぬよう、発想を転換するキッカケにしたかったのです。
あたりまえという既成概念からの脱皮によって、それぞれが空間をどう活かすか、観客との密着性など、固定されずに、機動性があって胸騒ぎのする空間、つまり、そこから新たなエネルギーが吹き出してきそうな空間を創りあげ、創造力の開花を促すことが目的でした。
この企画はサーカステントの設営や管理を含め、神奈川県のサーカス集団「むごん劇かんぱにぃ」の方々のお力添えによって実現することができました。
また、この企画によって、佐渡の若者たちのバンドとの交流が生まれ、彼らのライブもおこないました。ソニーレコードのプロデューサーを招いて、演奏後にそれぞれのバンドへの寸評、アドバイスなどをお願いしました。そして、鼓童メンバーたちも小編成による様々な企画を日替わりで行いました。永六輔さんや小室等さん、坂田明さん、渡辺香津美さんらにもご協力をいただき、「テント寄席」や「音楽自由自在」、そして、「イメージサーカス」などの多種多様なプログラムを通じて22日間、佐渡の方々にも楽しんでいただく機会になりました。
永六輔さんはこのテント劇場企画に向けて芸人の方々を佐渡に連れてきてくださり、鼓童村の和泉邸で合宿生活をしながら、佐渡の方々のためにと、取り組んでくださいました。
そして、このテント劇場企画がきっかけとなり、1996年からスタートしたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」の企画へと繋がっていくことになりました。
しかし、このテント劇場は運営面での課題が多く、1994年のECが最初で最後の企画になりました。
この頃は<恵まれ過ぎた環境=安定期>のように私自身が感じていたのかもしれません。しかし、同時に言葉で言い表せないような危惧も感じはじめていたため、かなり意識的に発想の転換を促す企画にチャレンジした時期でした。
しかし、今のコロナ禍という苦難な時代では・・・
必然的に発想の転換が必要になっており、この機会だからこそ、必ず新たなエネルギーが吹き出してくると信じています。
【1997年 財団法人鼓童文化財団 設立と 研修所二年制】
初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)は当初から株式会社北前船の設立の先に財団法人化を目指していました。しかし、80年代当時の財団法人化の認可には基本財産や実績が必要であったため、その目標は叶えることはできませんでした。
私はハンチョウ亡き後、多くの方々のご支援を糧に、この財団法人化に向けた準備にも着手しました。
もともと鼓童グループの活動は営利を目的にした事業というよりも、研修所での人材育成やアース・セレブレーションを通じた地域貢献など公益事業を目的とした活動が根幹にあったからです。引き継いでから10年かかりましたが、認可規定の基本財産もなんとか集まり、1997年に新潟県から認定を受け、その目標が実現し、念願だった財団法人鼓童文化財団が設立されました。その後2011年には、寄付をしてくださった方が税制上の優遇措置を受けられる「公益財団法人」へと移行認可されることになりました。
また、同時期に鼓童文化財団「研修所」が2年制になりました。それまでの研修所は佐渡の南部にある鼓童村から遠く離れた北部にあり、研修所所長がほぼ1人で指導をし、鼓童の舞台演目を中心に習いおぼえるという1年間のカリキュラムでした。しかし、1年生と2年生が共に学びあう時間は貴重な人材育成、学びの場になるという当時鼓童文化財団の副理事長だった島崎信先生(2004年〜2016年は理事長、現在は特別顧問)のご助言もあり、2年制へと舵を切りました。
この時から鼓童メンバー以外にも、佐渡島内、島外から様々な専門家の先生方をお招きしご指導を仰ぐ体制に変わっていきました。
当時の研修生応募要項では鼓童メンバー志望者に限らず、スタッフや広く社会に出て活躍できる人材の育成も目指して受け入れていました。
そして研修内容には太鼓、唄、踊り、笛の他に佐渡の歴史や文化などに関する講義や茶道、能、琉球舞踊、佐渡の鬼太鼓などの芸能や、農作業(米づくり等)、祭り見学、駅伝など、様々なカリキュラムに取り組みながら、少しずつ定着をして今があります。
この2年制の研修所が実現できたのは、新たな研修所として旧岩首中学校の校舎が借りられることになったことも重要な出会いでした。
1995年頃に鼓童スタッフで佐渡の岩首出身の山中津久美の母校が閉校になるとの情報を得て、すぐに一緒に見に行きました、この学校は前浜地域の柿野浦という集落にあり、佐渡市と柿野浦集落の方々で建物を取り壊すか、残すかと協議されていた時でした。この学校は小高い丘の上にあり、周りに民家もなく、近隣にご迷惑をかけずに太鼓の音も思いっきり出せ、日々の研修に集中して学びあう場として素晴らしい環境でした。
私は「ここは最高の環境だ」と即断し、山中を通じて、すぐにこの学校を研修所としてお借りできないかと柿野浦集落の方々に相談させていただきました。集落の皆さんも校舎を取り壊さずに、活用できる方策をご検討中だったこともあり、私たちの申し出を快く承諾していただくことができました。
こうして素晴らしい環境の中で、毎年4月には新研修生を迎え、2年生が研修所での基本的な日常生活や稽古方法などを伝え、お互いに学びあう貴重な場になっています。
どんな時代になっても年齢に関係なく、指導される側から指導する側になり、主体性を持って相手に伝えていかなければならなくなった場合、あらためて自らがそのあり方、伝え方などを学び直す機会にもなって成長していく経験は今の時代だからこそ、とても重要だと思っています。
【鼓童の活動拠点 鼓童村の土地のこと】
現在の鼓童村の土地は約4万坪ほどあります。周囲はコナラや山桜、朴など雑木林に囲まれた傾斜の多い佐渡南端の小木半島にあります。地形上平坦な土地が少ないため、ここに本部棟、稽古場、スタジオ、住居棟、ゲストハウス、工房などを建てる上で造成工事が大変でした。1987年5月3日に当時の本拠地の真野・大小で「鼓童葬」を行って皆でハンチョウを見送り、その翌週の5月11日に地鎮祭を行いました。
1988年からできる範囲で少しづつ建設してきたのですが、当初はこの4万坪の土地の環境や歴史のことなどを考える余裕はまったくありませんでした。
しかし、私は1998年頃からこの鼓童村の土地のことが知りたくなり、敷地内を探索し始めました。道のない勾配の激しい危険なエリアから海岸沿いにある江積(えっつみ)集落まで降ったこともあります。途中には不思議な小さな洞窟もありました。ムジナの積み重なった糞石にも驚いた記憶があります。ここの土地は長者が平遺跡という縄文遺跡が発掘された地域でもあるので、その時代のことを想像しながら、歩きまわることが楽しくなりました。
梅原猛さんの『森の思想が地球を救う』という考え方に共感し、上越のNPO法人「木と遊ぶ研究所」の方々の活動にも影響を受け、鼓童村内の森の手入れを始めたのがこの頃です。今も所々に残る炭焼き用にかたどられた穴の形跡も発見し、もともと鼓童村の土地は炭焼き用に手入れされてきた土地であることが判明しました。私はこのことを知ってから、荒れた竹林の整備も兼ねて、宿根木博物館にある炭焼き小屋をお借りして、竹炭造りにも挑戦したことがありました。
このような行動とともに、私は日々の暮らしとその土地、私たちの生業である芸能や太鼓、その源流を知らずして未来を語ることができない。未来に伝えていくことができない。そう強く感じるようになり、この頃から500年前の太鼓の胴の樹木のことも考え始めました。
昔の山仕事に従事した人たちは何世代も先の未来を見据えて、日々過酷で地道な作業をおこなってこられました。森の手入れや植樹はその作業そのものでは目先の収入は得られません。目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を忘れてはいけない。有形と無形との違いはあるにせよ、芸能者の仕事も同じであることに気づき、同時に太鼓芸能文化の未来も考えなければばらないと思うようになったのです。
そして、今迄のやり方だけでは「鼓童」の未来が見えない。太鼓芸能文化そのものの底上げをしなければ鬱蒼とした森と同じく、新たな光と風を吹き込まなければすぐれた森を次世代へ継承できなくなってしまうのではないかという思いに駆られました。
「言うは易し行うは難し」なかなか簡単なことではありませんが、今だからこそ、目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を見直して実践していくことが重要なのだと思っています。
【1999年 交流学校公演と二班制のスタート】
1997年頃から交流学校公演に向けた活動理念を考え、1999年春に向けて二班制の準備に入りました。当初は「鼓童と中学生との交流学校公演」プロジェクトというあえて一番多感な中学生のみを対象にしていく方針でしたが、今では0歳児から高校生まで幅広い年齢層を対象とした交流学校公演が始動しています。
実はこの企画の発端は、1996年〜2000年にかけて、二年に一回のペースで行なっていたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」「佐渡あたりでバチあたり」などの公演を通じて、永六輔さんにご指導をいただいた影響があります。
長年、永さんには「鼓童には遊びが足りない。肩が凝る。鼓童は世の中に貢献していることもあるけど、悪い影響も与えている。君たちはもっともっとお年寄りや子どもたちに楽しんでもらえる芸を学び、地域社会に根付くような活動もしていくべきだ。もっと鼓童は言葉でも伝えられるようにならなければいけない。佐渡弁で語れるようになってほしい。」というような叱咤激励を事あるごとに頂いていました。
一流の芸人やミュージシャンの方々を佐渡に招いて、鼓童メンバーたちに刺激を与えてくださいました。この時の公演は、あえてリハーサルなどはさせずに、永六輔さんから鼓童メンバーにぶっつけ本番でお題が提示されるという、鼓童にとってはそれまでにまったく経験したことのない何とも厳しい試練を体験させていただきました。齊藤栄一をはじめ鼓童メンバー達はあたふたしながらも臨機応変に対応するプロの芸や話術に触れ、多くのことを学ばせていただいたと思います。
このような体験が私自身にとっても大きな発想の転換になりました。
劇場、つまり舞台と観客という場だけではなく、子ども達の学びの場(体を育む館)に出向いていくことの重要性を感じたのです。
そして、照明や舞台機構も使用せず、演奏、質疑応答(楽器の説明等)、体験コーナーなど90分程度の基本構成を、1995年から佐渡で研修生が行なってきた中学生との交流公演をベースにして、当時の鼓童代表の山口幹文と齊藤栄一らが中心となって作っていきました。参加メンバーは準備段階から、何らかの形で制作にも関わりました。
学校の体育館という場で太鼓芸能を通じて、鼓童メンバーひとりひとりが等身大のまま、子ども達に言葉で語りかけながらの交流学校公演を実践していきました。
この頃は、1999年春にスタートさせた本公演と交流学校公演の二班制をとることで、鼓童グループの活動をより熟成させていこうと考えていました。
今も鼓童は子ども達に日々学ばせてもらいながら、交流学校公演を有意義に実践させていただいています。
そこで、このような体験を経て2000年7月に永六輔さんから巻物書簡でいただいたお言葉をあらためてご紹介させていただきます。
「君達の【太鼓】はそこにあるだけで充分に鑑賞に耐える工藝品であり、美術品なのだ。だから、君達もそこにいるだけで【存在感を示せる人間】であってほしい。その上で太鼓と向き合うと君達は中途半端な人間であるよりは純粋に”童”であることに徹することでしか、対応出来ないことに気づく、その時君達は鼓童なのだ。」
(このお言葉は鼓童代表の船橋裕一郎の発案により、鼓童創立40周年「鼓」公演で掲げるテーマにもなっています)