『戦慄せしめよ / Shiver』メンバーメッセージ
戦慄と律動/住吉佑太

私たち太鼓芸能集団「鼓童」は1981年のデビュー以来、世界各地を巡る中で新たな「太鼓音楽」の可能性というものを追求し、発信し続けてきました。自分たちの音楽の幅を広げるために、日本はもちろん、世界中の民族音楽を学んだり、現代音楽の作曲家の方に依頼して、鼓童のための楽曲を書いて頂いたりもしました。

(写真:岡本隆史)

民族音楽の持つ、湧き上がってくるようなエネルギー感と、アカデミックで計算され尽くした、現代音楽のもつ精巧さ。この2つをうまく織り交ぜながら、今の時代に、自分たちの音を生み出せないだろうか。

そんなことを模索しているときに、日野浩志郎氏の音楽に出会いました。

(写真:大森克己)

旋律やハーモニーではなく、あくまでリズムの持つ可能性に特化した彼の楽曲は、複雑な構造をもち、精巧な仕掛けでありながら、爆発的なエネルギーを内包していました。

アカデミックなのに、踊り狂える音楽。

リズム、律動というのは、人間のアイデンティティだ、と作曲家 伊福部昭氏は言っています。

音程や倍音に反応できる動物はいても、リズムを認識できるのは人間だけだからです。

(写真:大森克己)

リズムを追い続けてきた日野浩志郎が打ち出す楽曲と、「たたく」という本能的な行為を繰り返してきた我々鼓童の音が重なったとき、これまで辿り着けなかった、人間の根底に流るる、本能的なバイブレーションに共鳴する、新しくも根源的な音楽が生まれるに違いないと確信しています。

(写真:大森克己)

住吉佑太
(写真:岡本隆史)

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信『戦慄せしめよ / Shiver』

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信 『戦慄せしめよ』2月5日(金)19:00より、Vimeoほか各映像配信プラットフォームにて配信開始!

【配信概要】

越島〜地域文化に根ざした新たな音楽映像配信『戦慄せしめよ / Shiver』

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>

【1991年 鼓童創立10周年「ギャザリング」とオーチャードホール】

Gathering Mono Prism

(左)CD「Gathering」 (右)CD「Mono-Prism」(カバーイラストレーション:黒田征太郎氏)

鼓童創立10周年として1991年7月22日から3日間、初日は鼓童のみ、2日目は「入破」と石井眞木さん指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団との「モノプリズム」、3日目は1988年から1990年までのアース・セレブレーションで共演させていただいた日野皓正さん、山下洋輔さん、ゴスペルシンガーのレシー・ライトさんらとの企画をおこないました。

しかし、今にして思えば、この頃は鼓童村の本部棟の食堂の増築から始まって、住居棟、和泉邸(ゲストハウス)稽古場、などを次々と建設中でしたし、8月のアース・セレブレーションの準備もしながらでしたので、資金繰りを含めて、よくもまぁ、実行できたものだと回想することがあります。でもこの頃、自分がどんなふうにアレコレ奔走しながら乗り切っていったのか、ほとんど記憶にないのです。
ただ、渋谷の東急文化村のオーチャードホール公演に向けては、たくさんのお力添えをいただいたことは今も忘れることはありません。その中でも一番大きな出会いは、東急グループの関係の方々がアース・セレブレーションに度々ご来島いただき、鼓童を応援してくださっていたことでした。そんなご縁もあり、会場押さえのご調整や東急電鉄、東急バスなどでの全面的な広報宣伝のご支援をいただいたことがこの大きな企画を実行していく上で、とても勇気付けられました。

とにかく、30年前も困難の連続でした。それでも若くて未来に希望を持っていたからこそ、やりがいのある面白い時代だったとも言えるのかもしれません。
鼓童創立40周年記念公演の2021年オーチャードホールでの公演に向けては、あらためて30年前のことを思い出しながら、次世代の鼓童メンバーたちの成長を見届けたいと思っています。


【太鼓芸能と音楽】

1991年に受賞した「第5回日本ゴールドディスク大賞」の記念楯

1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を交わしてから3枚目のCDが「彩 IRODORI」です。このCDが1991年「第5回日本ゴールドディスク大賞のアルバム部門」を受賞しました。

CD「彩」

私は赤坂プリンスホテルでの授賞式に参列させていただきました。この時、ベスト5ニュー・アーティスト賞を受賞されたBEGINのメンバーたちとたまたま楽屋が一緒だったので、少しお話をする機会を得ました。すると、彼らから「僕たち鼓童を聞いたことがあります。」という話で意気投合させていただいたことを思い出します。
鼓童が初めて沖縄公演ツアーを行ったのが1983年、そして86年にも再び訪れています。彼ら3人が沖縄の石垣島出身で同級生であることは知っていましたが、鼓童を知ったのは、彼らの出身校の八重山高校での学校公演の時だったと聞いて驚きました。彼らが高校生の時に、鼓童と出会っていて、その後プロのアーティストとなり、このような授賞式で偶然にも再会できたことは感慨深い思い出です。
また、1995年には「第37回日本レコード大賞 特別賞」を受賞しました。この授賞式はTBSのスタジオで開催されました。この時『清河への道〜48番』でアルバム大賞を受賞されたのは新井英一氏でした。新井英一氏は黒田征太郎さんと何度か佐渡を訪れ、1988年第一回のアース・セレブレーションの時に一緒に参加していただいたご縁もあったので、このような晴れの舞台で再会できたことも嬉しかった思い出です。

「第37回日本レコード大賞 特別賞」受賞の際のプログラム

私は鼓童メンバーが創作した楽曲を著作権登録して管理できるようにしたことや1990年代に音楽業界における素晴らしい賞を二つも頂いたことによって、鼓童の「太鼓芸能」が「音楽」として少しづつ認められるようになったのかなと感じはじめたのはこの頃です。

しかし、2021年の今でも「太鼓芸能」というジャンルは文化庁の分野区分けの中にはありません。音楽・演劇・舞踊・映画・アニメーション・伝統芸能(雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊、その他)・大衆芸能(講談、落語、浪曲、漫談、漫才、歌唱、その他)・・・
日本の太鼓芸能文化はいまだに「その他」の位置づけなのです。

私は時間をかけても鼓童グループの活動を通じて、日本文化の中に「太鼓芸能文化」という芸術分野としてのジャンルが確立される日がくることを今も目指しています。


【1994年 EC94 テント劇場企画】

1994年のアース・セレブレーションのプレイベントとして「テント劇場」という実験的な試みを実践しました。期間は7月28日〜8月18日の22日間。「テント劇場」を通じて当時のメンバーに伝えたかった思いがありました。
鼓童の結成初期は知名度が低く、公演の営業活動が大変な苦難の時代でしたが、1990年代に入ると、公演依頼をお断りしなければならないほどいただけるようになり、逆の意味で苦悩する時代となりました。大きな劇場、たくさんのお客様。仕事があることがあたり前になっている状況に、私はそこはかとない危惧を感じ始めていました。
メンバーたちがこの<恵まれ過ぎた環境>に対して慣れてしまい、ぬるま湯に浸かり過ぎた「茹でガエル」にならぬよう、発想を転換するキッカケにしたかったのです。
あたりまえという既成概念からの脱皮によって、それぞれが空間をどう活かすか、観客との密着性など、固定されずに、機動性があって胸騒ぎのする空間、つまり、そこから新たなエネルギーが吹き出してきそうな空間を創りあげ、創造力の開花を促すことが目的でした。

小木町の漁港そばの空き地に設営されたテント劇場(撮影:吉田励氏)

この企画はサーカステントの設営や管理を含め、神奈川県のサーカス集団「むごん劇かんぱにぃ」の方々のお力添えによって実現することができました。
また、この企画によって、佐渡の若者たちのバンドとの交流が生まれ、彼らのライブもおこないました。ソニーレコードのプロデューサーを招いて、演奏後にそれぞれのバンドへの寸評、アドバイスなどをお願いしました。そして、鼓童メンバーたちも小編成による様々な企画を日替わりで行いました。永六輔さんや小室等さん、坂田明さん、渡辺香津美さんらにもご協力をいただき、「テント寄席」や「音楽自由自在」、そして、「イメージサーカス」などの多種多様なプログラムを通じて22日間、佐渡の方々にも楽しんでいただく機会になりました。

「テント寄席」(撮影:吉田励氏) (故・内海好江師匠とマジックの花島皆子・世津子氏。両端は藤本容子・小島千絵子)

永六輔さんはこのテント劇場企画に向けて芸人の方々を佐渡に連れてきてくださり、鼓童村の和泉邸で合宿生活をしながら、佐渡の方々のためにと、取り組んでくださいました。
そして、このテント劇場企画がきっかけとなり、1996年からスタートしたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」の企画へと繋がっていくことになりました。
しかし、このテント劇場は運営面での課題が多く、1994年のECが最初で最後の企画になりました。

EC1994で行われた永六輔さんとの勉強会(撮影:吉田励氏)

この頃は<恵まれ過ぎた環境=安定期>のように私自身が感じていたのかもしれません。しかし、同時に言葉で言い表せないような危惧も感じはじめていたため、かなり意識的に発想の転換を促す企画にチャレンジした時期でした。
しかし、今のコロナ禍という苦難な時代では・・・
必然的に発想の転換が必要になっており、この機会だからこそ、必ず新たなエネルギーが吹き出してくると信じています。


【1997年 財団法人鼓童文化財団 設立と 研修所二年制】

初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)は当初から株式会社北前船の設立の先に財団法人化を目指していました。しかし、80年代当時の財団法人化の認可には基本財産や実績が必要であったため、その目標は叶えることはできませんでした。
私はハンチョウ亡き後、多くの方々のご支援を糧に、この財団法人化に向けた準備にも着手しました。
もともと鼓童グループの活動は営利を目的にした事業というよりも、研修所での人材育成やアース・セレブレーションを通じた地域貢献など公益事業を目的とした活動が根幹にあったからです。引き継いでから10年かかりましたが、認可規定の基本財産もなんとか集まり、1997年に新潟県から認定を受け、その目標が実現し、念願だった財団法人鼓童文化財団が設立されました。その後2011年には、寄付をしてくださった方が税制上の優遇措置を受けられる「公益財団法人」へと移行認可されることになりました。

1997年、研修所で行われた鼓童文化財団設立公演(撮影:吉田励氏)

また、同時期に鼓童文化財団「研修所」が2年制になりました。それまでの研修所は佐渡の南部にある鼓童村から遠く離れた北部にあり、研修所所長がほぼ1人で指導をし、鼓童の舞台演目を中心に習いおぼえるという1年間のカリキュラムでした。しかし、1年生と2年生が共に学びあう時間は貴重な人材育成、学びの場になるという当時鼓童文化財団の副理事長だった島崎信先生(2004年〜2016年は理事長、現在は特別顧問)のご助言もあり、2年制へと舵を切りました。
この時から鼓童メンバー以外にも、佐渡島内、島外から様々な専門家の先生方をお招きしご指導を仰ぐ体制に変わっていきました。

当時の研修生応募要項では鼓童メンバー志望者に限らず、スタッフや広く社会に出て活躍できる人材の育成も目指して受け入れていました。
そして研修内容には太鼓、唄、踊り、笛の他に佐渡の歴史や文化などに関する講義や茶道、能、琉球舞踊、佐渡の鬼太鼓などの芸能や、農作業(米づくり等)、祭り見学、駅伝など、様々なカリキュラムに取り組みながら、少しずつ定着をして今があります。

充実した研修内容は様々なカリキュラムに取り組み、少しずつ定着している

この2年制の研修所が実現できたのは、新たな研修所として旧岩首中学校の校舎が借りられることになったことも重要な出会いでした。

1995年頃に鼓童スタッフで佐渡の岩首出身の山中津久美の母校が閉校になるとの情報を得て、すぐに一緒に見に行きました、この学校は前浜地域の柿野浦という集落にあり、佐渡市と柿野浦集落の方々で建物を取り壊すか、残すかと協議されていた時でした。この学校は小高い丘の上にあり、周りに民家もなく、近隣にご迷惑をかけずに太鼓の音も思いっきり出せ、日々の研修に集中して学びあう場として素晴らしい環境でした。
私は「ここは最高の環境だ」と即断し、山中を通じて、すぐにこの学校を研修所としてお借りできないかと柿野浦集落の方々に相談させていただきました。集落の皆さんも校舎を取り壊さずに、活用できる方策をご検討中だったこともあり、私たちの申し出を快く承諾していただくことができました。

こうして素晴らしい環境の中で、毎年4月には新研修生を迎え、2年生が研修所での基本的な日常生活や稽古方法などを伝え、お互いに学びあう貴重な場になっています。

どんな時代になっても年齢に関係なく、指導される側から指導する側になり、主体性を持って相手に伝えていかなければならなくなった場合、あらためて自らがそのあり方、伝え方などを学び直す機会にもなって成長していく経験は今の時代だからこそ、とても重要だと思っています。


【鼓童の活動拠点 鼓童村の土地のこと】

90年代の鼓童村(撮影:鼓童)

現在の鼓童村の土地は約4万坪ほどあります。周囲はコナラや山桜、朴など雑木林に囲まれた傾斜の多い佐渡南端の小木半島にあります。地形上平坦な土地が少ないため、ここに本部棟、稽古場、スタジオ、住居棟、ゲストハウス、工房などを建てる上で造成工事が大変でした。1987年5月3日に当時の本拠地の真野・大小で「鼓童葬」を行って皆でハンチョウを見送り、その翌週の5月11日に地鎮祭を行いました。
1988年からできる範囲で少しづつ建設してきたのですが、当初はこの4万坪の土地の環境や歴史のことなどを考える余裕はまったくありませんでした。
しかし、私は1998年頃からこの鼓童村の土地のことが知りたくなり、敷地内を探索し始めました。道のない勾配の激しい危険なエリアから海岸沿いにある江積(えっつみ)集落まで降ったこともあります。途中には不思議な小さな洞窟もありました。ムジナの積み重なった糞石にも驚いた記憶があります。ここの土地は長者が平遺跡という縄文遺跡が発掘された地域でもあるので、その時代のことを想像しながら、歩きまわることが楽しくなりました。
梅原猛さんの『森の思想が地球を救う』という考え方に共感し、上越のNPO法人「木と遊ぶ研究所」の方々の活動にも影響を受け、鼓童村内の森の手入れを始めたのがこの頃です。今も所々に残る炭焼き用にかたどられた穴の形跡も発見し、もともと鼓童村の土地は炭焼き用に手入れされてきた土地であることが判明しました。私はこのことを知ってから、荒れた竹林の整備も兼ねて、宿根木博物館にある炭焼き小屋をお借りして、竹炭造りにも挑戦したことがありました。
このような行動とともに、私は日々の暮らしとその土地、私たちの生業である芸能や太鼓、その源流を知らずして未来を語ることができない。未来に伝えていくことができない。そう強く感じるようになり、この頃から500年前の太鼓の胴の樹木のことも考え始めました。

昔の山仕事に従事した人たちは何世代も先の未来を見据えて、日々過酷で地道な作業をおこなってこられました。森の手入れや植樹はその作業そのものでは目先の収入は得られません。目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を忘れてはいけない。有形と無形との違いはあるにせよ、芸能者の仕事も同じであることに気づき、同時に太鼓芸能文化の未来も考えなければばらないと思うようになったのです。
そして、今迄のやり方だけでは「鼓童」の未来が見えない。太鼓芸能文化そのものの底上げをしなければ鬱蒼とした森と同じく、新たな光と風を吹き込まなければすぐれた森を次世代へ継承できなくなってしまうのではないかという思いに駆られました。

「言うは易し行うは難し」なかなか簡単なことではありませんが、今だからこそ、目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を見直して実践していくことが重要なのだと思っています。


【1999年 交流学校公演と二班制のスタート】

1997年頃から交流学校公演に向けた活動理念を考え、1999年春に向けて二班制の準備に入りました。当初は「鼓童と中学生との交流学校公演」プロジェクトというあえて一番多感な中学生のみを対象にしていく方針でしたが、今では0歳児から高校生まで幅広い年齢層を対象とした交流学校公演が始動しています。

実はこの企画の発端は、1996年〜2000年にかけて、二年に一回のペースで行なっていたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」「佐渡あたりでバチあたり」などの公演を通じて、永六輔さんにご指導をいただいた影響があります。
長年、永さんには「鼓童には遊びが足りない。肩が凝る。鼓童は世の中に貢献していることもあるけど、悪い影響も与えている。君たちはもっともっとお年寄りや子どもたちに楽しんでもらえる芸を学び、地域社会に根付くような活動もしていくべきだ。もっと鼓童は言葉でも伝えられるようにならなければいけない。佐渡弁で語れるようになってほしい。」というような叱咤激励を事あるごとに頂いていました。

1996年、永六輔さんと「鼓童で遊ぼう」の打ち合わせ(撮影:吉田励氏)

一流の芸人やミュージシャンの方々を佐渡に招いて、鼓童メンバーたちに刺激を与えてくださいました。この時の公演は、あえてリハーサルなどはさせずに、永六輔さんから鼓童メンバーにぶっつけ本番でお題が提示されるという、鼓童にとってはそれまでにまったく経験したことのない何とも厳しい試練を体験させていただきました。齊藤栄一をはじめ鼓童メンバー達はあたふたしながらも臨機応変に対応するプロの芸や話術に触れ、多くのことを学ばせていただいたと思います。

2000年7月「佐渡あたりでバチあたり」公演リハーサル。出演者の福尾野歩さん、栄一、容子、永さん(撮影:吉田励氏)

このような体験が私自身にとっても大きな発想の転換になりました。
劇場、つまり舞台と観客という場だけではなく、子ども達の学びの場(体を育む館)に出向いていくことの重要性を感じたのです。
そして、照明や舞台機構も使用せず、演奏、質疑応答(楽器の説明等)、体験コーナーなど90分程度の基本構成を、1995年から佐渡で研修生が行なってきた中学生との交流公演をベースにして、当時の鼓童代表の山口幹文齊藤栄一らが中心となって作っていきました。参加メンバーは準備段階から、何らかの形で制作にも関わりました。

1999年にスタートした交流学校公演

学校の体育館という場で太鼓芸能を通じて、鼓童メンバーひとりひとりが等身大のまま、子ども達に言葉で語りかけながらの交流学校公演を実践していきました。

この頃は、1999年春にスタートさせた本公演と交流学校公演の二班制をとることで、鼓童グループの活動をより熟成させていこうと考えていました。

今も鼓童は子ども達に日々学ばせてもらいながら、交流学校公演を有意義に実践させていただいています。

そこで、このような体験を経て2000年7月に永六輔さんから巻物書簡でいただいたお言葉をあらためてご紹介させていただきます。

永六輔さんからの巻物書簡①

永六輔さんからの巻物書簡②

「君達の【太鼓】はそこにあるだけで充分に鑑賞に耐える工藝品であり、美術品なのだ。だから、君達もそこにいるだけで【存在感を示せる人間】であってほしい。その上で太鼓と向き合うと君達は中途半端な人間であるよりは純粋に”童”であることに徹することでしか、対応出来ないことに気づく、その時君達は鼓童なのだ。」

(このお言葉は鼓童代表の船橋裕一郎の発案により、鼓童創立40周年「鼓」公演で掲げるテーマにもなっています)

鬼太鼓座の誕生に深く関わる3人(永六輔さん、本間雅彦先生、島崎信先生)と青木(2000年・柿野浦の研修所にて)(撮影:吉田励氏)


━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その1:1977年〜1989年/青木孝夫

【はじめに】
2020年に世界中で起こった新型コロナウイルス感染症という未曾有の出来事は、鼓童グループの活動に大切なことを気づかせてくれています。

2021年、鼓童創立40周年の節目に、「初心忘るべからず」「歴史を知らずして未来は語れない」という言葉を噛み締めています。
前身の佐渡の國鬼太鼓座時代から現在の鼓童グループの活動に関わらせていただいている中で、生き抜くチカラを教えてくれた出来事や成長させていただいた出来事などを「来し方行く末」として年代ごとに数回に分け、あらためて思考してみたいと思います。

尚、鬼太鼓座の誕生から2011年までの鼓童の歴史については『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡』(鼓童文化財団著、出版文化社)に詳しく書かれているのでそちらを読んで頂ければ幸いです。
あくまでもこのブログはこの書籍には書かれていない私自身の出来事を通じて、鼓童の歴史の一端を思い返せればと思います。

株式会社北前船 会長 青木孝夫

 

1977年〜1980年 「佐渡の國鬼太鼓座」時代

【1977年 鬼太鼓座 東京公演】
東京で生まれ育った私は、鬼太鼓座の座員で後に初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)の弟と同級生だった関係で、学生の頃から、当時中野区にあった鬼太鼓座東京事務所や、佐渡の真野大小の本拠地を何度か訪問していました。そのようなご縁もあり、お手伝いを兼ねて1977年8月1日(月)新宿厚生年金小ホールで行われた「走る・叩く・踊る 佐渡ノ國鬼太鼓座」の公演を観に行きました。鬼太鼓座東京事務所の主催でした。
ところが驚いたことに自由席のチケットを客席数以上に売ってしまったらしく、客席に入れないお客様がロビーに溢れていました。私は何が起こっているのか、まったく分からず、ただただお客様の苦情の対応に追われ「申し訳ございません」とロビーで謝罪をしていました。つまり、状況が把握できていないままお客様に頭を下げて謝罪することから私の鬼太鼓座、そして鼓童への人生が始まったのでした。
この公演は急遽、予定していた18時30分からの公演の後、20時30分から追加公演を行うこととし、溢れかえったお客様になんとかご理解をいただくことができました。私にはよくわかっていませんでしたが、当時はまだ公演の舞台製作周りのことや、公演を主催するということについて、ほとんど知識のないまま公演を実行した素人集団だったと思われます。その直前の1977年7月、日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で開催された加藤登紀子さんのコンサートに鬼太鼓座が出演して、多くのメディアなどに取り上げられたため、お客様が予想以上に増えてしまったのではないかと推測しています。突然の追加公演にむけては、さぞかし舞台裏の鬼太鼓座メンバーや裏方さんたちも大変な修羅場だったと想像しています。
私はこの公演での林英哲さんやハンチョウの津軽三味線に言葉にできない衝撃を受けました。

初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)

私の大学生活はのうのうと豊かな暮らしの中にいて、自分が何をしたら日本の将来に希望を抱くことができるのか、まったく見出すことができず、フラフラと行き先に迷っていた時でもありました。
当時20代半ばの彼らは佐渡ヶ島で共同生活をしながら太鼓や芸能の厳しい修業をしていました。給料や保証もない不安定な生活なのに、なんで皆の目が輝いているのだろうか、なんでこんなに感動するのだろうか、訳がわからぬまま、気が付いたら本能的に1979年に佐渡に渡っていました。

私はこの公演のチケットと、音楽評論家の諸井誠氏(1930-2013)の新聞評を保管しておりました。

<1977 年8月 毎日新聞 諸井誠 感想 鬼太鼓座(一部抜粋)>

新鮮さを欠く新作物
相変わらず、トリの曲は秩父屋台囃子。いわゆる馬鹿囃子の傑作である。新旧メンバー交代のせいもあって、この鬼太鼓座の一番の呼物、以前とは感じがガラリと変わった。多少改悪のきらいもあるが、いまだに楽器配置に工夫を重ねていることなど、見上げたもの。曲目前半の終わりは石井作品だが、これは、ネタ割れしていて、新作物としての新鮮味に欠ける。手の組合せを変え、リズムをくずすなど、不規則な要素を加え、また演出に多少石井らしい構成上の工夫が見られたものの、全体として屋台囃子に似過ぎているのだ。ピッチを変えた七人の締太鼓。最弱奏から、各自ズレて入ってくる開始部分だけが印象的。屋台囃子にはない銅羅(どら)の参加が、作曲上からも、演奏上も、決め手に活用されていないのが期待外れ」。もう一息、何かが欲しいところだ。
素人芸めざしても
(櫓のお七)と(鬼剣舞)が踊りの主要演目だが、お七の人形ぶりを踊った女性および黒子たちには、研鑽の跡がみられた。だが、伴奏の三絃は“スカ撥!などの撥さばきに未熟さが見え、尺八ともピッチが合わなくて、若干感興がそがれた。素人芸を標榜するグループとはいえ、永年研鑽を重ねていれば、いつか自然に玄人として評価されるようになるのだから、これは一考を要するところだ。事実、万能型の名手も一、二育っていることだし、鬼太鼓座も、プロにふみ切るタイミングを、いつかつかまねばならないときがくるだろう。
民謡と(佐渡おけさ)の踊りには、津軽三味線同様、ひなびた味が欲しい。近代青年の都会臭が表に出過ぎる甘さがあるのだ。結局、今回一番印象に残ったのは、ふんどし一本の若者二人で打ちまくる(大太鼓)。技と若さを満喫させてくれた。
アマ離脱、考えねば
技と若さ満喫の「大太鼓」

つまり、この頃は鬼太鼓座はまだまだアマチュアの太鼓芸能集団という認識だったということになります。
「佐渡の國鬼太鼓座から鼓童へ」果たしてプロにふみきるタイミングはいつつかんだのだろうか。


【1979年 ガンガラと孤独】
私は1979年23才のときに佐渡に渡り、新人スタッフとして佐渡でロケ中だった加藤泰監督の『ざ・鬼太鼓座』の映画撮影のお手伝いをすることになりました。
ここで、今は笑って思い返せるようになりましたが、のちのち私自身に生き抜くチカラを教えてくれた、と思われる出来事があります。

映画撮影スタッフがよく冬場に使用するブリキ缶に薪をくべ暖をとる「ガンガラ」というものがあります。佐渡の北部、外海府の入川というところまで行き、何もない酷寒の地での撮影が終了しました。私はマイクロバスに乗り込もうとした時、まだおき火の残っているガンガラを「これどうしましょうか」と、ある先輩座員に尋ねました。すると「おき火はそこの海に」と促され、新人の私は初々しく、素直に海岸に捨てに行きました。
ところが・・・振り返ると誰にも心配されず、気付かれずに、マイクロバスは私を置き去りにして走り去っていました。
まだ佐渡のことすら何にも知らない、知り合いもいない。もちろんお金など持っていませんでした。あてもなく両手にその「ガンガラ」を持って、とぼとぼと50キロ以上離れた真野大小への帰り道を歩き始めるしかありませんでした。
この試練によって佐渡で暮らすことの覚悟とともに、共同生活の孤独感、人間不信というトラウマを自らで克服していかねばならない、乗り越えて行かなくてはならないという使命を学ばせていただいた出来事でした。


【1980年3月23日 田耕氏との対峙】

映画『ざ・鬼太鼓座』を撮り終えた後に、主宰者である田耕氏が突然、映画を撮り直すということを言い始めました。映画撮影で疲弊し切っていた鬼太鼓座の座員達は公演を主体にした活動を求めて、1980年3月23日に中野の鬼太鼓座東京事務所に全員集まり、田耕氏と対峙することになりました。

『映画撮りなおしには参加の意志がありません。私たちは現在の公演活動を軸とした鬼太鼓座の活動を充実させていくことに力を合わせていきます。田耕様 座員一同』

結局、このことが直接のきっかけとなって、田耕氏と座員たちは袂を分つことになりました。

それからまもなく、1980年(昭和55年)の6月5日に小木町民体育館、6月15日に両津市民会館で鬼太鼓座は公演を行っています。公演のチラシの裏には「鬼太鼓座」映画化決定!(松竹・朝日放送・鬼太鼓座)松竹系全国公開 監督 加藤泰、脚本 仲倉重郎 美術 横尾忠則 撮影 丸山圭司 音楽 一柳慧 と書いてありましたが・・・・・
映画は未公開となり、お蔵入りとなってしまいました。
その後、この映画は2016年に「映画監督加藤泰 生誕100年」を記念して、幻の遺作として映画上映され、翌2017年にはDVD化されました。

1981年〜1982年 鬼太鼓座から鼓童へ

【1981年2月18日 株式会社北前船 設立】

1981年の年明けとともに新たなグループの名前を全員で話し合い、林英哲氏から提案された「鼓童空海」という言葉の中から、「鼓童」が正式な名称となりました。
そして「鬼太鼓座から鼓童へ」というタイトルをつけて、すでに決まっていた公演を行なっていくことになりました。

食事や衣類などの最低限の共同生活に必要な配給はあったけれど、佐渡の國鬼太鼓座結成時から10年間、全員無給でした。つまり、個人的なお金はまったく持っていませんでした。メンバーたちは30歳になりつつあり、このままではひとり暮らしもできないし、当然ながら、結婚もできない。
初代鼓童代表となった河内敏夫(ハンチョウ)は舞台を下りて演出や運営に専念することになり、株式会社北前船(きたまえせん)を設立し、代表取締役社長にも就任しました。会社設立と同時に、初めて鼓童メンバーたちへの給与の支給がスタートしました。

とはいえ、生活が急に変わったわけではありません。共同生活はそのまま続き、最初の頃は月末に給与が支給されないこともたびたびあったような気がします。それでも私を含めメンバーたちは、ハンチョウ(社長)に文句を言ったことがありませんでした。(たぶん 笑)
とにかく、鼓童グループ全員でこの難局をひとつひとつ切り抜けて、安定した給与体制が確立できるように、「自分たちで何とかしなくてはならない」という意識をひとりひとりが持って日々取り組んでいました。ハンチョウが一番大変だったと思いますが、みんなそれぞれが主体的に、能動的に「やるべきこと」を責任を持って行動しなければならない必然的な環境だったからこそ、何も恐れずに、夢に向かって邁進できたのかもしれないと思っています。

このコロナ禍の困難を乗り越えていくためには、誰かのせい、何かのせいにすることなく、ひとりひとりが責任を持ち、新たなエネルギーを産み出していく原動力そのものが重要な気がしています。


【1981年9月 ベルリンデビューと「入破」 】

鼓童が対外的に創立したのは1981年9月1日です。そして、鼓童としてのデビューが9月9日のベルリン芸術祭になります。私はこの時のツアーには参加しないで国内に残り、公演営業のために全国を行脚していました。この時代は今と違ってインターネットなどもなく、海外との連絡はなかなかできない環境だったので、正直寂しさ、心細さで悶々としていましたが、ベルリンの林英哲さんから絵葉書をいただき、気にかけてくれていることがとても嬉しく、励みになりました。今でもこの絵葉書は大切にしています。
9月9日のコンサートはアンコールの「入破」まで非常にたくさんの喝采を受けたことが書かれていました。

「入破」には新たな領域に入る。新たなスタートをきるという意味があります。
この時の英哲さんからの絵葉書を読み返しつつ、久しぶりに鼓童創立40周年の舞台で太鼓芸能集団 鼓童 代表の船橋裕一郎が演出し、現在の鼓童メンバーが演奏する石井眞木さんの楽曲「入破」を聴くのはとても感慨深いものがありました。


自主制作レコード『鼓童Ⅰ』 (現在は廃盤)

【1981年 自主制作レコード『鼓童Ⅰ』】

自主制作レコードのタイトルは『鼓童I』となりました。
しかし、この自主制作レコード『鼓童I』が私と英哲さんとの最後の仕事になってしまいました。すでに英哲さんは鼓童としてスタートしたベルリン芸術祭の頃から、鼓童を牽引していくことに、かなり悩み、苦しんでおられたことが頂いた絵葉書からも読み取れていました。


【1982年 林英哲氏との別れと葛藤】
そして、林英哲氏は1982年1月末に鼓童を去って行きました。
私は1981年後半に林英哲さんから退座の意思を聞いてから、実は私自身の去就も大いに悩みました。1977年の新宿厚生年金会館小ホールでの英哲さんとハンチョウの津軽三味線に魅了され、影響され、佐渡に渡る決意をした私にとって、英哲さんの退座は本当に辛かった。おそらく私以上にハンチョウが一番辛くて、苦しかったに違いないと思います。人前で弱みや涙なんか見せたことのないハンチョウの、あの時の涙が今でも痛いほど心に残っています。
とはいえ、私も煩悶の日々でした。ハンチョウにも相談したことはありませんでしたが、英哲さんとともに佐渡を離れ、独立に向けて何かお手伝いができないか、と真剣に考え、悩みました。しかし、まだなんの経験値もなかった25歳の私にはその決断はできませんでした。最終的にはハンチョウの鼓童“むら”構想の提案をもとに、鼓童の未来に向けて、自分ができることを模索していこうと、佐渡にとどまる決断をしました。

1983年〜1986年 鼓童

【1983年8月 林英哲氏からいただいた手紙と本】

私が大切にしている本があります。
1983年8月に林英哲さんから頂いた藤原新也著『メメント・モリ』です。

英哲さんは鼓童から独立した直後の過酷な時期だったはずで、鼓童も過酷な時期でありました。そんな時代に頂いた一冊であり、本の最後のページに英哲さんの直筆イラストの孔雀と「寿福」という言葉が寄せられていました。

この年の8月は私が所帯を持った時なので、そのお祝いの書籍だったと思います。

この藤原新也の『メメント・モリ』は衝撃の一冊であり、私の人生のバイブルにもなっています。
当時27歳だった私にはかなりディープなテーマであり、実感として想像できない写真や言葉ばかりでした。「メメント・モリ」=〜死を想え〜
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というコメントとともにニンゲンが犬にむさぼり喰らわれている一枚の写真には今も生きる意味を問われ続けている気がします。
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」

若い頃は「どんな生き方を目指すべきなのか。」などと能天気な自分探しの青春を過ごし、なんら確信を得られないまま時が過ぎていった気がします。ところがこの一冊と出会い、歳をかさねるにつれ、「どんな死に方をしたいのか」と考えるようになり、今までみえなかったことが少しずつみえるようになってきたような気もします。まだまだみえないことばかりではありますが・・・・。

このコロナ禍においてあらためて考えさせられていることは
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、生き甲斐というものにも出会えないのかもしれない。」ということです。


【1984年 写真集『鼓童』出版と岡本太郎さんとの出会い】

写真家・星野小麿さんに多大なるご支援をいただき『鼓童』という豪華な写真集を1984年に出版することができました。この表紙の「鼓童」という力強い文字は岡本太郎さんに揮毫していただいた文字です。このご縁で岡本太郎さんにはシアターアプルの鼓童公演をご鑑賞いただいたことがあります。「岡本太郎さんは公演中、ずっと身体を動かしていた。」というハンチョウの言葉を思い出します。

『鼓童』写真集に岡本太郎氏に揮毫していただいた文字

私は岡本太郎さんの表参道の自宅兼仕事場(現在は岡本太郎記念館)に伺って、岡本太郎さんと打合せをさせていただいたことがあります。揮毫していただいた「鼓童」という題字の最終確認のためでした。
玄関先でベルを鳴らし、ドアが開きました。するとそこに岡本太郎さんが「おぅ!」という感じで両手をあげて待っておられ、私はびっくりして、ひたすら恐縮です、恐縮ですと頭を下げまくった記憶があります。でもそれは有名な岡本太郎さんの蝋人形だったのでした。なつかしい思い出です。この蝋人形は今も岡本太郎記念館で拝見できます。

この写真集では揮毫していただいた「鼓童」の文字だけでなく、下記のメッセージもいただきました。

太鼓を叩くのが好きだ。あの音。生命のリズムそのものという感じ。魂の躍動がそのまま響きとなって宇宙に広がるようで、血が騒ぐ。いわゆる楽器を奏でる気どった技巧ではない。無条件に高鳴る。太古から、南北・東西を問わず、全身をぶつけて響かせてきた夢。
岡本太郎1984年(鼓童写真集より)

「伝統とは創造である」
「世界的であると同時にローカルな新しい伝統」という岡本太郎さんの言葉には勇気づけられました。それは人間としての誇りや自覚を持って、たくましく息づき、「くらし・まなび・つくる」という生命感あふれる場所にこそ、第一級の芸術や芸能が伝統として存在するという啓示でもあると思えたからです。
また、『岡本太郎と太陽の塔』という本にあった重松清氏による下記の文章は、鼓童グループの未来に向けたメッセージのようにも思え、心に残っています。

・・・「過去」をさかのぼる旅は、「始まり」に向かう旅でもある。・・・かつて「未来」だったものが「過去」になり、始まったものが終わっていく連鎖――けれど、生命はまた新たな「始まり」を迎え、新たな「未来」に向かうのだと、教えてくれた。・・・岡本太郎が、新しい時代の「始まり」を生きる次の世代、その次の世代、さらにその次の世代へ託したメッセージだったのではないか。
「未来」とは「過去」を忘れて始まるものではない、そして一つの時代の「未来」は、やがて過去になり、次の「未来」へとバトンを渡していくのだと…
重松清(文面抜粋)

【ONE EARTH TOURのスタートと国内公演営業活動】
1984年に「ONE EARTH TOUR(ワン・アース・ツアー)」と命名されたツアーがスタートしました。海外を半年間もかけて回るツアーでした。しかし、公演がすべて決まっていたわけではありませんでした。これはハンチョウ主導のもとで、いくつか決まっている公演地を起点に海外を移動しながら公演をブッキングしていくという大胆不敵な旅でありました。

撮影:吉田励氏

私はこの期間も国内公演の営業活動のため全国を行脚していました。各学校の芸術鑑賞のご担当の先生をご紹介いただいたり、飛び込みで学校営業をしていたこともあります。また各地域の方々に「実行委員会」を組織していただき、主催公演をお願いしたりしていました。この組織づくりをお願いするにあたり、実行委員会の方々のお家に宿泊させていただき、お酒を飲み交わしながらご支援をお願いしたことも多々ありました。
しかし、この頃はまだあまり「鼓童」のことは知られていない時代でした。電話営業でも「鼓童の青木です」といっても相手からは「はぁ?こんどうさん?」というような返答を度々されていました。地方公演の営業をしながら、もっと「鼓童」の存在を広く知ってもらう必要性を強く感じていました。
東京や大阪、名古屋などの大都市で鼓童の連続公演を模索し始めたのもこの頃でした。とはいえ、東京都内ではそんな簡単に長期で劇場は押さえられないし、主催をしてもらうことはできません。
私はいくつか700人前後の中劇場をあたって交渉しましたが、どの劇場のご担当者も「え?太鼓?うちの劇場はそういうのはやらないよ」というなかなか厳しい反応でした。そんな中、新宿コマ劇場の地下にあった新宿シアターアプルのご担当の方になんとか興味を持っていただくことができ、1984年に初めて8回連続公演が実現し、翌年には12回連続公演と続き、以後1999年頃まで、年末の新宿シアターアプル公演が毎年の恒例となりました。
新宿駅前や劇場前にあるシアターアプル専用の広告大看板に職人の方による手描きの「鼓童公演ビジュアル絵画」が毎年描かれ、鼓童の存在を知らない人でも「なんか面白そうだな」と目に留まり、劇場に足を運んでくれるお客様もたくさんおられました。東京での連続公演には入場者数以上にこのような効果もあったと思っています。

新宿駅前のシアターアプルの広告看板(撮影:山野實氏)

この頃はまだ携帯電話やEメールなどが存在していなかった時代なので、国内ブッキング状況や相談事項などは海外のホテルへの固定電話や手紙、ファクスなどでハンチョウと連絡をとりあっていました。今では考えられない通信環境でした。

1987年〜1989年 激動の時代

【1987年1月 河内敏夫(ハンチョウ)との別れ】

私にとって、林英哲氏の鼓童退座に続いて困窮を極めた出来事はハンチョウの突然の訃報でした。
1986年12月の大阪。その年の最終公演の終了後、打ち上げを終えた後、ハンチョウは手を振って「ちょっと年末年始に海外に行ってくる。それではまた来年」と言って別れたのが最後になってしまいました。
私はこの時、結婚後に生まれた子どもがまだ1歳10ヶ月の頃でした。
家族と自宅でのんびり正月を過ごしていたところに、電話が鳴り響きました。とても辛い電話でした。茫然自失とはこの時のような心境のことなのだと思います。目の前が・・・本当に真っ暗闇になりました。側で無邪気に遊んでいる子どもを見つめながら、何をどうすればいいのか、まったくわからぬまま長い間、時間が止まってしまった感じでした。
この後、どんな行動をとったのか、何をしたのか、正直ほとんど覚えていません。
とにかく、ハンチョウ亡き後、お葬式を終え、予定していたアメリカツアーに向けてなんとか鼓童メンバーたちを送り出しました。そして、ハンチョウが残していった企画段階のアース・セレブレーションの内容や鼓童村の構想図や文面を見つめながら、「いまやるべきことはなんだ、いまできることはなんだ」と必死で考えました。しかし、この壮大な夢を実現するための現実(資金)の問題に直面し、葛藤し、悩み続けました。
鬼太鼓座の創設者の田耕氏をはじめ、ほとんどの方々から「ハンチョウ亡き後、鼓童は続かないだろう」という声を多く聞きました。
私はこの声(噂)が言葉で言い表せないほど、本当に悔しかった。この悔しさと使命がこの時の大きな原動力になった気がします。

長嶋茂雄が好きで「巨人軍は永久に不滅です」という引退セレモニーの言葉にあやかって「鼓童は永久に不滅だ!」と気持ちを奮い立たせて「やるしかない」「前に進むしかない」と恐れずに立ち向かっていったことを思い出します。

2020年に、鼓童が東京ドームで開催された読売巨人軍の試合での応援演奏に関わっているご縁がなんとも嬉しい。

アース・セレブレーションは1年延期せざるを得ませんでしたが、「鼓童スペシャルー追悼 河内敏夫」公演を佐渡・東京・大阪でプロデュースしました。佐渡は城山公園を初めて使用し、アース・セレブレーションの会場としての可能性を感じることができました。

城山公園での「鼓童スペシャル-追悼 河内敏夫」公演(撮影:吉田励氏)

1988年には1年遅れでハンチョウの残していった企画書を菅野敦司らと現実化するために練り直し、1回目から6回目までのアース・セレブレーションの総進行を務めました。この最初の6年間は大雨、台風、雷というお天気の神様が毎年降りかかり、その自然界の様々な対応に苦慮することばかりでしたが、いろんな経験をさせていただいたおかげで、アース・セレブレーションも成長し、今も多くの方々のご支援をいただく中で継続させていただいております。


【1988年 ソニーレコードとの専属契約と太鼓音楽の著作権】
とにかく、鼓童の太鼓音楽をなんとかCDにできないものかといろんなレコード会社に営業のために奔走したのはこの頃です。
世界展開のネットワークを通じて、世界中の各レコード店にポップス・ロックのアーティストたちと並んで「KODO」という名札のあるCD陳列スペースをつくり、販売できるようになることが私の夢でもありました。
この夢は1988年のソニーレコードとの専属契約で実現することができました。

海外出張のときには、必ずタワーレコードやヴァージンレコードなどの店舗に立ち寄り、陳列状況をチェックしていました。ロンドンの大手レコード店で鼓童の衣装を展示して、宣伝してもらったこともあります。LIVE会場では確実にCDは売れますが、「鼓童」を体感していない多くの方々にもCDを通じて、鼓童を知ってもらいたかったのです。

ロンドン・タワーレコードでの「衣装を使ったディスプレイ」(撮影:狩野泰一氏)

その第一弾が「UBU-SUNA」です。このタイトルは現名誉団員の山口幹文の発案でした。

実はこの時代、太鼓グループが作曲する太鼓音楽には、著作権なるものがまだ確立していませんでした。
そこで翌年1989年に著作権管理をするために有限会社音大工(おとだいく)を設立し、このCD「UBU-SUNA」から鼓童メンバーが作曲した太鼓音楽の収録楽曲における著作権登録をJASRACと手続き交渉を開始しました。

1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を取り交わしてから20年後、インターネット配信時代により、音楽業界は急激な変動期と混迷期を迎えていました。各国のCDショップも激減し、閉店しているところが多くなりました。

コロナ禍の社会の中で、これから鼓童の「音源」市場をどのように開拓していくべきか、現在のインターネット配信時代に風穴をあけ、鼓童の真価を発揮するチャンスでもあります。鼓童の独自性、多様性を広く、多くの人たちに届けていき、そして新たな活動の収入源になるようなアイディアと打開策が必要な時代になっています。
いつの時代にも、夢を信じて粘りつよく行動していけば、打開策は必ず見つかると信じています。

 

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【速報】1/15より TAIKO-1発売決定!!

こんにちは、鼓童オンラインストアです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ローランド社と鼓童が共同開発を進めていた電子和太鼓 TAIKO-1。2016年から5年の開発期間を経てとうとう発売となります。

ヘッドホンを使用して自宅で練習ができる静粛性をもち、スピーカーに繋げればリアルな音が響き渡ります。

一般的な桶胴太鼓より軽量な4.5Kg。100種類以上の音色を駆使して軽快な演奏がお楽しみ頂けます。

鼓童オンラインストアの商品ページからは、北林玲央、米山水木の演奏動画や、石塚充、住吉佑太、鶴見龍馬、北林玲央、渡辺ちひろ演奏の「巡」の動画など、TAIKO-1に関する情報がもりだくさん。 →http://store.kodo.or.jp/?pid=156452151

また、初回お買い上げ10名様に「担ぎ演奏用ストラップ」をプレゼント。
この機会を是非お見逃しなく!!

★TAIKO-1 価格:140,800円(税込)
*商品は1/20頃〜2月初旬にかけて順次発送いたします。その後も随時入荷予定です。初回ロットのみお届け日時指定ができません。ご了承ください。
*商品は分解した状態での発送となります。

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その他、新作オリジナルグッズや、鼓童のCDやDVD、楽器類も取り扱っております。
お気軽にお問い合わせください。

鼓童オンラインストア
Tel.0259-86-3630
Email:store@kodo.or.jp
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鼓童Instagram 実演動画

新年あけましておめでとうございます

写真:岡本隆史

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

旧年は、新型コロナウイルスの影響で、皆さまにおかれましては、大変な時をお過ごしだったことと存じます。
我々も国内では細心の感染予防対策を行いながら公演を再開させた一方で、海外公演を各国の感染が落ち着くまで見送りとせざるをえないなど、厳しい状況が続いております。
この困難な状況下において、我々は様々な方法での表現を模索し、新たな挑戦に向かうための力を養い、佐渡の魅力、太鼓の力、そしてお客様の前で演奏できる喜びを改めて実感いたしました。そんな中にあって、多くの皆さまからのご支援、激励のお言葉を賜りましたこと、改めて深く感謝申し上げます。

本年は鼓童創立40周年となります。この力を糧に、鼓童がこの先50年、100年と佐渡より各地へと太鼓の響きを届け続けられますよう、グループ一丸となり頑張ってまいります。そして一日も早い新型コロナウイルス感染症の終息を願うとともに、本年が皆さまにとって良い一年になりますことを祈念いたします。
引き続き、皆さまのご指導、ご鞭撻のほど何卒お願い申し上げます。

2021年元旦
太鼓芸能集団 鼓童
代表 船橋裕一郎

【ゆめのうつつリレー】合言葉/藤本容子

みなさま、これまでリレートークを読んでくださいまして、ありがとうございます。

佐渡で、旅先で、忙しさの中から文章を寄せてくれた鼓童の皆に感謝します。草洋介の文中にあります『チーム容子』。その実働はCD製作のひとときでありましたが、渦中で生まれた共感は、末長く生き続けることでしょう。

たくさんのご縁と協力からなる、このCD。そこにまつわるすべての出来事に感謝でいっぱいです。

今澤雨江氏(絵)、緒形昭弘氏(デジタルアート)

小木の内の澗に、船を出してくれた又七さん

制作チームの鼓童特別編成チアガールズ

CDを手にされた皆さんからは「車での移動中に楽しんでいます」というお声が多く届いています。

私も!です。

最後の曲、冬の火祭り「どんど焼きの唄」からトップに戻ると、清々しい春の風光の気配に思わず引き込まれて、エンドレスで聴いてしまいます。

どうぞお試しください。

このCDを作るにあたっての合言葉は、「佐渡の一家に一枚!」です。

45年という歳月の感謝を込めて、島の皆さんに、「これは自分たちのCDだ」と思っていただけますように、喜んでいただけますように、その願い一心で鼓童の皆、ゲストのお二人と取り組みました。



海山の自然音、祭りの現場の鬼太鼓や木遣り唄の様子、「小木大津絵」では、かつての小木町の花街の風情を思い出していただければと、あれこれ工夫してみました。CDのあちこちに、佐渡の様々な音が盛り込まれています。お楽しみください。

ブックレットでは、唄のご縁となった外海府、国仲、小木半島、前浜の皆さんとの物語りを綴らせていただきました。また、唄を通して、佐渡における鼓童の歴史も記していますので、読んでいただけたら嬉しいです。

もう一つの合言葉。

それは、
「鼓童村発CD」の実現です。

鼓童村の施設で、鼓童メンバーと音づくりをし、鼓童村の子供から大人まで、藤本吉利を始めとした演奏陣から、スタッフ、アルバイトも含めての全体参加を成就し、鼓童のスタジオで録音して、鼓童の音大工レーベルから発売する。

その夢が果たせました!

今後、同様のことが再現するかどうかは分からない、記念すべき出来事になったと思います。

個人の夢が、集団にとっても特別な意味のある現実となれたこと。なんと幸せなことでしょう。年末を迎えて、コロナ禍の厳しさが増している、そんな中だからこそ尚更に、人の繋がりの温もりを肌身に感じ、励ましの連鎖が産まれる日々となってゆきますように。

Photo: Takashi Okamoto

そんな中だからこそまた、音楽が、唄が、より一層日常に寄り添い、深く慰めを誘うものとなってゆきますように。来年が、少しでも明るい未来となりますように。その中で「〜佐渡もの語り〜ゆめのうつつ」が、皆さまのかたわらにあって、日々の慰めとなってゆきますことを願いつつ、このリレートークのページを閉じさせていただきます。

Photo: Takashi Okamoto

ありがとうございました。来年、佐渡の、日本の、世界のどこかで、みなさまと出会えたらどんなに嬉しいことでしょう。

良いお年を!

 

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Photo: Takashi Okamoto

【ゆめのうつつリレー】音楽監督として/住吉佑太

藤本容子NEWアルバム
〜佐渡もの語り〜ゆめのうつつ
楽しんで頂けておりますでしょうか!

音楽監督を担当いたしました、住吉佑太です。

容子さんと共に、試行錯誤を繰り返しながら、1曲1曲を大切に紡いで作ったこのCDには、私も特別な思い入れがあります。

Photo:中川晃輔

全曲、最初は容子さんがiPhoneで録音してくださった声から始まっています。

その録音に、私がいろいろな音を重ねながら、世界観を形作っていきました。

ある程度出来上がったら、容子さんにも確認して頂き、イメージを擦り合わせながら、ときには無茶振りに鍛えられながら…(笑)

ああでもないこうでもないと、1曲ずつ形にしていきました。

Photo: Akiko Umegaki

自分が音楽監督として関わるからには、懐かしい!という印象だけではなく、それでいてどこか新しい!と思わせたいという気持ちが強くありました。

かといって、いわゆるポップスのような歌物のアレンジにして、容子さんの「語る力」をかき消してしまないように。むしろ打ち出す世界観によって後押しできるような音楽を目指しました。

Photo: Yoko Fujimoto

普段の鼓童は、リズムが主体の音楽ですが、今回はメロディーと和音に重きを置いたアレンジのものが多いです。

1曲ごとの雰囲気に合わせて、和音や響きを決めていきました。

1曲目の「この峰の」に関しては、ド頭から、日本の響きではない和音を使っています。
こういったテンションコードと呼ばれる和音は
なかなか和楽器と馴染みにくいのですが
容子さんの旋律や、唄の世界観には、よく合うなと感じています。

音楽的には不安定な響きが、繊細さや美しさ、ときに力強さを表現してくれています。

レコーディングに関しても、できるだけ容子さんの息に合わせてできるよう、可能な限り全員一緒に、メトロノームを聴かずに録音しました。

「鬼太鼓若衆」などは、その息の感じが、とても心地よい仕上がりになっています!

響きと息。

そんなことも感じてもらえると、よりこのCDを楽しんで頂けるかと思います!

Photo: Takuro Susaki

次回は、藤本容子です。
お楽しみに! 

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【ゆめのうつつリレー】緊張したけど・・・!/三浦友恵

みなさん、こんにちは。2020年も早いもので最後の月となりました。いかがお過ごしでしょうか?

10月に佐渡島にある「御宿 花の木」さんで、~ゆめのうつつ~ミニコンサートに参加させていただきました。

容子さんと鼓童が作ったCD”佐渡もの語り~ゆめのうつつ~“をミニコンサート出演という形で応援することができ、とても嬉しかったです。

コンサート当日はお天気にも恵まれて、佐渡の自然もCD発売を喜んでいるかのようでした。

今回のコンサートでは琴・太鼓・鳴り物を担当し、その中でも『この峰の』の琴が好きでずーっと稽古していました。(CDでは菊武粧子さんが演奏されています。)好きでもうまく演奏することができず苦戦しました。笑

コンサート本番で緊張して手が震えたのですが、容子さんの歌声と笑顔が素敵で緊張が少し和らいだのを覚えています。とてもとても楽しいコンサートでした。あのコンサートの場所にいれたことを幸せに思います。
容子さん、関係者のみなさまありがとうござました、お疲れさまでした!

きっと!みなさまに幸せを運んでくれるCDです。容子さんの佐渡愛、鼓童愛、みなさまへの愛が溢れでているCDとなっています。ぜひたくさんの方に聴いていただきたい!!

Photo: Yuka Kusa

次回は、住吉佑太です。
お楽しみに! 

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【ゆめのうつつリレー】チーム容子/草 洋介


前回のタニくん(中谷憧)と同じく「〜ゆめのうつつ〜ミニコンサート」に出演いたしました、草洋介です。

コンサートの前に、CD収録の際にも少しだけお手伝いできたのですが、その現場ではじっくりと時間をかけて丁寧に作品が練られていました。

唄の持つ意味と音が絶妙にリンクされていく、、そんな作業が日々繰り返されていました。

そして収録に関わるメンバーたちの雰囲気は「チーム容子」と呼べるような一体感がありました。

そんな中、自分もコンサートの出演が決まりました。

憧れの「チーム容子」の一員になれるような気がして、とても嬉しかったのを覚えています。
今回、容子さんが唄う姿を見ていてとても印象に残ったことがありました。

それは稽古の時からずっと感じていたことなのですが、、「目」です。

Photo: Takashi Okamoto

「花の寿」や「忘れな草」を唄う時の視線は遠く、はるか先の地平線に声を届けるような郷愁がありました。

かたや「ねんねん猫の・・・」や「椎谷の観音さま」を唄う時には、お客さんと視線を合わせて、一緒に唄を楽しむ姿がありました。

そんな姿を見ていると、容子さんは「唄い手」でもありながら、やはり「舞台人」でもあるのだなと感じました。

Photo: Takashi Okamoto

CDでこだわり抜いた音と声、そして「チーム容子」の結成を成せる唄への想いの強さを持って、これからもお客さんの前でも唄い続けていただきたいなと思います。

そんな藤本容子のコンサートに行く前には必ず「佐渡もの語り〜ゆめのうつつ〜」での予習もお忘れなく!

Photo: Yuka Kusa

次回は、三浦友恵です。
お楽しみに! 

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【ゆめのうつつリレー】椎谷の観音さま/中谷 憧

〜ゆめのうつつ〜ミニコンサートに出演させていただきました。中谷憧です。研修生の頃から唄を指導していただき、ずっと尊敬している容子さんの唄のコンサートに参加させていただいたのは、とても嬉しく、光栄という他ありません。

そしてとても暖かいコンサートで、演奏している自分も気持ちがほっこりしました。ミニコンサートは「椎谷しいやの観音さま」を容子さんと一緒に歌わせていただきました。

それはあんまり思いがけないことで「まじか!」と心の中で叫ぶほど、嬉しいことでした。

僕のパートは、普段は吉利さんが唄っていらっしゃるので、その唄い方を研究しようとしましたが、容子さんが「タニはタニの唄い方で行けば良いからね」と言ってくださり、とても楽になりました。そして、あんまり考えすぎずに、この曲のエネルギーに乗って唄えたらよいなと思いました。

本番では、容子さんがお客様と一緒になって、心から嬉しそうに唄われている姿を見て、自分もいろんな思いを吹っ切って唄えたように思います。最後のいきなりの声のバトルはびっくり、そして最高でした。

「椎谷の観音さま」

あんなに明るい面白い曲なのに、実はこんなにも悲しくて深い話、数百年にもわたる繋がりが今もあるとは…悲しいからこそ、明るく強い曲にしたという話が、忘れられません。これからも唄い続けていきたいと思います。

 

Photo: Yuka Kusa

次回は、草 洋介です。
お楽しみに!

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