【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その4:2010年〜2020年 後編/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>
<その2:1990年〜2000年のブログはこちら>
<その3:2000年〜2010年 前編のブログはこちら>
<その3:2000年〜2010年 後編のブログはこちら>
<その4:2010年〜2020年 前編のブログはこちら>

【2016年 鼓童創立35周年】

鼓童創立35周年の企画については2012年頃から考え始め、3年前から少しづつ可能性を模索し、音楽プロデューサーの森千二さんや芸術監督に相談をしながら動き始めました。
森千二さんはちょうど私が鬼太鼓座に関わり始めた1977 年頃、「佐渡の國 鬼太鼓座」という豪華な紹介パンフレットを立案され製作された頃からご指導をいただいている方です。
鬼太鼓座から鼓童への激動期には故河内敏夫(ハンチョウ)や林英哲さんたちとご自宅に伺い、いろいろご相談をさせていただきました。

このパンフレットの最後のページにある「鬼太鼓座『村』の構想」の絵図は故河内敏夫(ハンチョウ)が鼓童設立時に掲げた村構想の原形になっているものだと私は思っています。

鼓童グループの未来に向けて、玉三郎さんに鼓童の芸術監督をお願いすることの意義についても共感してくださり、後押ししてくださったのも森さんです。
私自身は出会った頃から現在に至るまで、森さんからたえず叱咤激励を受け、鍛えられ、成長させていただいたことに、とても感謝しています。

森さんはサントリーホールの開館に際して、コンセプト作りから企画立案に尽力された方でもあり、『ゴールドブレンド・コンサート』企画制作、国技館『5,000人の第九コンサート』、ヤマト運輸『音楽宅急便』コンサートの全国展開、墨田区文化会館 建設計画〜すみだトリフォニーホール企画など名だたるプロジェクトの音楽プロデューサーでした。

鼓童は森さんのご尽力で1986年11月にサントリーホールオープニング・シリーズで、小澤征爾さんの指揮で石井眞木さん作曲の「モノプリズム」を新日本フィルハーモニー交響楽団と演奏させていただいたことがあります。

1986年11月に行われたサントリーホールオープニング・シリーズ(リハーサルの様子)

ちょうど2016年はサントリーホールが開館30周年になるという情報を得たこともあり、「創立35周年はサントリーホールでやりたい!」という衝動に突き動かされ、すぐに森さんにご相談させてもらいました。
そして、この記念すべき時に「サントリーホール開館30周年記念事業」としてのご支援もいただき、芸術監督の監修のもとで多種多様な3日間のプログラムを企画することにしました。

1日目の「出逢い」は下野竜也氏の指揮で新日本フィルハーモニー交響楽団との共演で「モノプリズム」と冨田勲さんの「宇宙の歌」。そして、作曲家の猿谷紀郎さんの「紺碧の彼方」、伊左治直さんの「浮島神楽」という2つの委嘱作品を世界初演しました。

第一夜〜「出会い」より、「浮島神楽」(撮影:岡本隆史氏)

2日目の「螺旋」は鼓童の単独公演。これは玉三郎さんとの出会いから16年間の集大成となる世界初演の舞台です。

「らせん」には、パワーの象徴である三つ巴の渦巻きのように、帰着のないケルト文様の渦巻きのように、螺旋中心軸は必ず普遍的にダイナミックなゆらぎにつくり変えていく意味があると私は思っていました。
鼓童グループにとって、ゆりもどし原理で絶え間なくエネルギーをうみだし続けていくための象徴的な作品になったと思っています。

第二夜〜「螺旋」より、「螺旋」(撮影:岡本隆史氏)

3日目の「飛翔」は2014年8月に佐渡で共演させていただいた男子新体操界初のプロパフォーマンスユニットのBLUE TOKYOと独創的なダンスカンパニーのDAZZLEの皆さんと共演させていただき、多くのお客様たちに創立35周年をお祝いしていただき、3日間の多種多様な鼓童の魅力を楽しんでいただくことができました。

第三夜〜「飛翔」より、「魅惑」(撮影:岡本隆史氏)

新たな表現を生み出すために多様性と柔軟性を持ち続けながら、果敢に取り組んでいきたいという企画する側の私の思いとは裏腹に、鼓童メンバーたちは数々の難しいプログラムの稽古はさぞかし大変だったと思います。
でも、芸術監督のご指導のおかげで、それを乗り越え、成長した姿を見届けられたことを、とても嬉しく思いました。


【2017年5月 幽玄】

私の夢であった坂東玉三郎さんとの共演作『アマテラス』公演を2006年に実現させていただき、2007年8月に歌舞伎座において再演、そして、2013年7月~10月にはメインキャストを替えて、東京・赤坂ACTシアター、福岡・博多座、京都・南座でも『アマテラス』を再演させていただきました。

そして、2017年5月から9月にかけて共演2作目『幽玄』公演を東急文化村、テレビ東京、BSジャパン、日本経済新聞社の皆様のご支援のもと、東京のオーチャードホールを皮切りに、新潟(TeNYテレビ新潟、新潟市芸術文化振興財団、新潟日報社)、愛知(中日新聞社、中日劇場)、福岡(博多座)、京都(松竹株式会社)と、各地の皆様のご力添えをいただいて上演(計30公演)させていただきました。

撮影:岡本隆史氏

『幽玄』公演は前作以上に鼓童メンバーにとって、さらに緻密で奥深い表現力を求められる舞台でした。

玉三郎さんが鼓童メンバーたちと「今後はどんなものをやりたいの?」と対話する機会があった時、「日本のものをやりたい」という話がきっかけとなり『幽玄』の舞台づくりが始まりました。

15年以上ご指導いただいた玉三郎さんには従来の鼓童の常識、和太鼓の常識のこだわりを解き放っていただき、様々な可能性を広げていただいておりましたが、この舞台はさらにハードルの高い未知なる領域への挑戦だったと思います。

鼓童村で坂東玉三郎氏と行われた「幽玄」の稽古(撮影:岡本隆史氏)

しかし、能楽の先生方、日本舞踊の花柳流の皆様のお力添えをいただきながら、鼓童メンバーたちが稽古のたびに成長していく姿はとても頼もしく、勇気付けられました。
私たちの概念にはなかった大きな振り幅の中で玉三郎さんに鍛えていただいた賜物だと思っています。

能楽師葛野流大鼓方の亀井広忠先生による稽古の様子(撮影:岡本隆史氏)

そして、2018年9月には歌舞伎座での『幽玄』1ヶ月公演という鼓童グループにとって奇跡のような機会もいただくことができました。

連獅子を舞う坂東玉三郎氏と鼓童の演奏。鼓童のメンバーも連獅子に挑戦しました。(撮影:岡本隆史氏)

そして、2017年の『幽玄』舞台の記録映像をもとに、松竹の方々と玉三郎さん自らが映像・音楽編集にも携わっていただき、シネマ歌舞伎 特別篇として『幽玄』が全国各地で上映されました。それはシネマ歌舞伎 特別篇の『幽玄』でしか味わえない映像と音の臨場感でした。
鼓童の歴史にとっても永久保存版の貴重なシネマ映像です。

そして、この頃に玉三郎さんから「鼓童の人たちも5年後、10年後に自分たちがどうなっていたいのか、ということを真剣に考える時期が来ているのではないでしょうか」というとても重要な示唆をいただいておりました。

20年近くにわたる坂東玉三郎さんのご指導のおかげではありますが、私はこの『幽玄』公演での鼓童メンバーたちの表現力を見届け、鼓童がプロの太鼓芸能集団になれた瞬間を肌で感じることができました。

1977年代で触れたことですが、
「鬼太鼓座から鼓童へ、プロにふみきるタイミングはいつつかんだのだろうか。」という問いに答えるとしたら・・・

私はこの時だったのかもしれないと思っています。


【2020年〈NOVA〉公演・・そして新型コロナウイルス感染症の影響】

2015年の4月頃から外部の専門家の方々にアドバイザーとしてご協力をいただきながら「鼓童は、どこに向かうのか?」という「鼓童の未来」について話し合いを続けていました。そのときに生まれたのが「NEW BEAT VISION PROJECT」でした。

2020年に東京オリンピックが開催されることになり、新しい人々が次の時代を作り出していかなくてはならない。その中でカタチを問わず常に新しい「ビート」を発信し続ける集団であり続けるために、「『聴く』から、『+観る』 そしてその先へ」というテーマで新たな『音の視覚化』を模索し始めていました。

そんな折、2016年7月に新潟市民芸術文化会館でロベール・ルパージュ氏の演出・出演の舞台『887』の公演がありました。ルパージュ氏から鼓童を訪ねたいとのご希望があり、公演の前日、急遽佐渡に来島されることになりました。

佐渡に初めていらした時のロベール・ルパージュ氏(中央)(撮影:大井キヨ子)

ロベール・ルパージュ氏は『KA』 (2004) 『トーテムTOTEM』(2010)というシルク・ドゥ・ソレイユの舞台を演出した今世紀における最も重要な舞台演出家の一人ともいわれるカナダ・ケベック生まれの演出家、劇作家、俳優、映画監督です。

この機会を得て、私は鼓童村や研修所などをご案内し、いろいろとお話をさせていただくことができました。何より、ルパージュ氏が鼓童のことにご興味を持っていただけていたことがとても嬉しかったです。このときは具体的なお仕事の話はしませんでしたが、ルパージュ氏から広島原爆を題材にした上演時間7時間の『太田川七つの流れ』という舞台の再演の話が話題になりました。

私はシルク・ドゥ・ソレイユの『トーテムTOTEM』はお会いする数年前にたまたま拝見したことがあり、人類の普遍的なテーマを題材にしていて、最先端のテクノロジーを駆使し、独創的でオリジナリティーにあふれた映像の使い方にとても驚きました。
しかし、実はこの『トーテムTOTEM』の鑑賞時には演出家としてのルパージュ氏の存在は認識していませんでした。

この時の出会いから数ヶ月たち、私の中では「音の視覚化」というテーマとルパージュ氏との出会いがひとつに結びついていきました。
そして、玉三郎さんに学んできたメンバーたちが次に挑戦するべき大きなプロジェクトとなり、「鼓童の未来に必ず繋がる」という思いにかられました。

そして、2016年8月にルパージュ氏に「2019年以降に鼓童の舞台演出をお願いできるような可能性はありますか?」との打診を開始しました。すると、ルパージュ氏の事務所から「とても好意的に、可能性はあります」とのご返答をいただき、早速、2017年1月に東京に来日中だったルパージュ氏らと初めてのミーティングをおこないました。

その時に「音の視覚化」という私たちの提案したテーマに対して、ルパージュ氏から「このプロジェクトはサイマティクスという理論をもとに創りたいと考えています。サイマティクスとは私たちの目に映るこの世全てのもの、地球や太陽系、私たちの身体や動物、陸などはすべてビック・バンによって生み出されたもの、そしてそのすべてに形を与えたのが『音』という理論です。」とのお話があり、ワクワクするような映像素材を見せていただき、具体的な稽古スケジュールや条件面での確認作業がスタートしました。

サイマティックスの理論を元にした仕掛けを模索する鶴見龍馬(撮影:神谷唯)

2018年4月の佐渡稽古(Phase1)からスタートし、12月にはケベックのロベール・ルパージュ氏の創作スタジオでの稽古(Phase2)、2019年3月(Phase3)のケベック稽古後にケベックと日本で何度も話し合いを続け、私たちはこのプロジェクトを〈NOVA〉(ノーヴァ)と名付けました。

ケベックにあるロベール・ルパージュ氏の拠点で作品作りに励んだ。(撮影:神谷唯)

そして、11月(Phase4)のケベック稽古から帰国直後に、日本での記者会見を行いました。
そして2020年の4月下旬から横須賀芸術劇場での3週間の最終稽古を経て、カナダスタッフたちから日本側のスタッフたちへの技術的な引き継ぎを行い、舞台を完成させるための準備をしていました。

ところが、2020年3月11日(奇しくも東日本震災と同じ月日)にWHOがパンデミックを表明。
人類がかつて経験のない新型コロナウイルス(COVID-19)感染症との闘いが始まり、すでに世界中に感染が拡大していました。

鼓童もこの影響を受けて、鼓童ヨーロッパ「Legacy」公演ツアーは3月のイタリア、ポーランド、ドイツの10公演が中止、ツアー途中での帰国という事態となりました。

日本では4月7日に緊急事態宣言が発令され、東京や神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡などで外出制限などの規制がはじまり、音楽・演劇・スポーツなど、すべての事業が中止や延期の対応を余儀なくされました。
3年以上をかけて海外共同製作で準備してきたこの〈NOVA〉は大変厳しい状況に追い込まれ、延期はできず、全公演中止という苦渋の決断をせざるをえませんでした。

〈NOVA〉は多くのスタッフが関わり、作り上げてきた作品でした。(撮影:神谷唯)

今回の〈NOVA〉公演のストーリーには「当たり前のことが当たり前でなくなるという、アノマリー(異常)によって文明が破壊する都市」の演出シーンがありました。

今となっては、ウイルスというまさに「アノマリー」な存在によって、今まで当たり前だったことが当たり前ではなくなり、いとも簡単に日常が「破壊」されてしまうことを思い知らされました。と同時に、ルパージュ氏の普遍的で哲学的な演出意図が今回の新型コロナウイルス感染症における人類への警鐘のように思えて、とても驚きました。

私は太鼓芸能文化の可能性を広げていくために、玉三郎さんとの共演作『アマテラス』『幽玄』と同じように、今までに誰も見たことのない舞台づくりに挑戦していくために全力で〈NOVA〉公演に取り組んでいました。

2020年のオリンピック・パラリンピックにむけて、芸術文化創造の支援に向けた特別な公的資金の公募がいくつかあるという情報を得たり、劇場ネットワーク関係(舞台芸術や演劇界)の方々がルパージュ氏の演出する鼓童に大変興味を持ってくださるなど、その支援体制の感触によって、この新たなプロジェクトに取り組む決断をいたしました。

制作発表の際に披露した〈NOVA〉の一部分(撮影:岡本隆史氏)

ルパージュ氏が佐渡での最初の稽古の時のインタビューで「日本という国は地震とか津波とか、絶えず災害に見舞われる国でありながら、そこから再興させ、そこで世界にないような美しいものを導きだしている。この国の文化に非常に興味がある」と言い、今回のプロジェクトではそれを語りたいと言ってくれました。

私はこのコメントを聞いて、2020年の東京都で世界初演するテーマとして非常に心に刺さりました。そのルパージュ氏の思いを聞いて、絶対に今までに見たことのない太鼓の概念を覆すような新しいものづくりができると確信しました。

それも、鼓童の使命として2020年にやらないと、今まで玉三郎さんに学んできたことが次に繋がっていかないような気がしたのです。

鼓童グループにとっては果敢な挑戦となりましたが、このプロジェクトを通じて、国内外の新たな鼓童ファンや多くの支援者との出会いも目指していましたので、2020年に実行するという意味が凄くあると思っていました。
だから、正直にいえば、完成間近で成就できなかったことはとても悔しい思いでいっぱいです。

しかし、多くの方々のお力添えをいただきながら、3年間かけてロベール・ルパージュ氏をはじめ、カナダチームスタッフと鼓童メンバーや日本チームスタッフたちと最善を尽くして創作してきた記録映像を、2019年11月のPhase4のケベック稽古での最初で最後になってしまった通し稽古の様子も含めて、ドキュメンタリー映像作品として完成させることができました。そして、期間限定ではありましたが、海外同時配信させていただき、国内外の多くの方々に視聴していただいたことで、私たちの〈NOVA〉公演に向けた渾身の思いをお届けることができました。

ビッグバンから始まり、生命体が生まれ、そして文明が始まり、世界が破壊され、そして再生・復活していくという、森羅万象、宇宙の摂理というものが鼓童の太鼓や踊り、声によって テクノロジーを駆使した映像とともに有機的に繋がる新たな神話のような物語に仕立てられていました。

この創作過程におけるルパージュ氏たちとの「ものづくり」の貴重な時間は、鼓童の未来の活動に大きな力になると信じています。

 


 

【あとがき】

世界各地で起こっている天災、人災、人間がつくりだした言語、民族、文化、宗教、政治、経済などの確執や価値観の違いを超越し、人間界と自然界との全体的調和を伝えていける強みが太鼓や芸能、音楽には内在していると信じています。

私自身は実際に太鼓を打ち込んで、人々に感動をお届けするということはできないのですが、「この感動をたくさんの人々に伝えたい。」ただただその思いのまま、今があります。

でもその衝動の根幹がいったいなんだったのか、実は腑に落ちないままでした。

あれから四十年以上、太鼓や芸能に携わらせて頂き、さまざまな出会いと学び、そして多くの困難を経験する中で、あらためて思い巡らしています。

それは当たり前のことではあるのですが、太鼓がとても原始な楽器だということと、この世に生まれたばかりの赤ちゃんには、本能としてひたすら泣き叫んで伝達しようとする野生の心が宿っていることです。

この太鼓と向き合う無垢な存在が伝達しようとする音(共振)にこそ、私たちは無条件に「原始の記憶」に回帰し浄化され、感動するのではないかと思うのです。

また、太鼓には人と人、人と神をつなぐ役割があります。

私たち日本人は古来より多くの自然災害による惨劇を経験しながらも、謙虚にひたむきに、たえず自然と向かいあい、地道に努力を積み重ねて復興させ、革新性や生産性を生み出してきました。

鼓童グループもコロナ禍に負けることなく、創立40周年記念の年に向けて、原点に立ち返り、自分たちの足元をたえず見つめ直し、人間が本来内包している「童」としての純真な心と野性的な心を鼓童の舞台を通じて表現し、魂を揺さぶる感動を届けることができるように、謙虚で逞しく生きていかなくてはなりません。

いつの日も、新しいことを成し遂げる原動力はひとつのことを一途に思い続けるという、わけのわからない強烈な熱意とひたむきな打ち込みにあると信じています。
だから、自信を持って、ひるまず打ち込み続けなくてはなりません。

鼓童創立40周年を迎える2021年、新型コロナウイルス感染症による困難を乗り越えて、多くのお客様と鼓童が出会い、元気に呼応しあえることを願っています。

 

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 後編/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>
<その2:1990年〜2000年のブログはこちら>
<その3:2000年〜2010年 前編のブログはこちら>

【2001年 ケヤキの植樹とケヤキ原木太鼓づくり、薪ストーブ】
私たちの生業である太鼓のことを絶えず意識し続けて活動してもらいたいという願いから、2001年2月にケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。
特に鼓童の人たちが日々の暮らしの中で一番行き交う場所である中庭には、象徴として庭の中央に植えました。

ケヤキの苗木を鼓童村の数カ所に植樹しました。

また、その苗木は植樹する前に稽古場にて見留知弘を中心とし、船橋裕一郎や当時準メンバーだった石塚充阿部好江らに「魂入れ」の太鼓演奏をおこなってもらいました。
私たちの生業は太鼓を中心とした芸能の創造であり、この生業に欠かせない太鼓は樹木と動物の皮の恩恵で成り立っています。その中でもケヤキはとても堅く重い材で、音をよくはね返す性質があり、太鼓にはとても適した樹木なのです。

四季が変わりゆく中で成長していく鼓童村のケヤキ。(撮影:西田太郎)

私の好きな絵本があります。
原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』。
実は鼓童村の中庭にケヤキを植樹したのもこの絵本の影響かもしれません。

原作ジャン・ジオノ、画家フレデリック・バックの『木を植えた男』の影響で鼓童村の中庭にケヤキが植えられました。

私にとってこの絵本は宇宙、自然、人間存在の本質を問う人類哲学の指針となっている愛読書でもありました。重責に押しつぶされ、孤独と絶望に打ちひしがれたときなどは何度も何度もこの絵本を読みかえし、励まされ、勇気づけられてきました。

いったい「鼓童」というグループは何のために存在するのか。

こんなことを自問して袋小路に陥ったとき、この絵本の中に私自身を投影し、「いま、何をすべきなのか」と、今も思索し続けています。

今までも同じく、目の前に「存在」していたものなのに、今までは見えなかったその「存在」がうっすらと見えはじめたときがあります。

それは例えば、光や風も通らないぐらい鬱蒼とした森の大地で、咲くのをじっと待ち続けていた植物の根が、ちょっとした人の手入れによって光が射し、風通しが良くなったことで開花し、今まで見えなかった一輪の花の綺麗な存在に気づかされたようなことです。

傍目からすればその行為について、ささやかなことばかりではありましたが、その行為を愚かしいことだとは思わなくなった時期でもあり、行動をおこす原動力となっていました。

そして、2001年秋頃から間伐した雑木を薪に再利用する目的もあり、鼓童村の森の手入れの一環で、鼓童村の食堂に薪ストーブを導入しました。
薪ストーブはエアコンや石油ストーブでは感じられない温もりがあります。
資源の循環をさせながら、多忙な日々のひと時をゆらゆらと燃える炎のなんとも言えない暖かさを鼓童メンバー達と共感しあえる場をつくることも目的の一つでした。

鼓童村の薪ストーブ(撮影:平田裕貴)

人間は生きていく上で火と水は欠かせません。この薪ストーブの炎は人間の本能として、心が浄化され安心させてくれるのかもしれません。

さらに、2001年7月にはケヤキの原木太鼓づくりもスタートさせました。
ケヤキの原木は上越市柿崎の「善導寺」にあったものです。このケヤキは内部が腐った影響により、やむなく切り倒され、買い手がつかないまま上越市のNPO法人「木と遊ぶ研究所」が所有されていました。

鼓童村の一画に設けた作業場に運び込まれた原木。

「木と遊ぶ研究所」の方々とは、鼓童村の森の手入れをきっかけに、3年ほど前から親交があり、「このケヤキの原木は鼓童で活用してください」と無償で譲ってくださったのです。そこから、見留知弘を棟梁として「鼓童村のケヤキ太鼓づくりプロジェクト」が始まりました。

棟梁の見留を中心に、メンバーで堅い木を削る作業に取り組んだ。

もともと中が腐って空洞になっていたため、太鼓づくりには適していると思っていましたが、非常に堅い樹木でもあり、なかなか作業は進みませんでした。上越市の木工職人の方のご協力を得ながら、2006年11月には浅野太鼓楽器店へツアーメンバーが伺い、太鼓づくりの最後の工程である太鼓に革を張る「鋲打ち」を行わせていただきました。

空洞に手を入れて空気の振動を感じ、思わず笑みがこぼれる船橋裕一郎。

こうして、6年がかりで完成した原木太鼓が佐渡に戻ってきたのは2007年4月。
ちょうど開館したばかりの佐渡太鼓体験交流館(たたこう館)でお披露目することができました。

棟梁の見留知弘が打ち込んで、原木太鼓をお披露目。

原木太鼓は、たたこう館に来館する方々にニックネームを募集し「やまいもくん」と「ぶたばなちゃん」と名付けられました。

老木に特有の玉目(たまもく)という美しい模様が現れた(撮影:宮川舞子氏)

たたこう館は新潟県内の小学生の修学旅行先として多くの子ども達が訪れるほか、老若男女を問わず、どんな方でも太鼓に触れていただける施設です。もちろん原木太鼓も叩くことができ、自然との共生と地域交流のシンボルとして、多くの方々から親しまれています。

また、2002年〜2003年には佐渡林業実践者大学に参加して、太鼓のバチ材にもなるアテビを増やそうと「空中取り木」という増殖方法(もともと鼓童村にあったアテビの枝をはく皮して、水ゴケを包み、ポリ袋に包んで紐で結び固定し、4〜5ヶ月の育苗期間を経た上で、枝を切って植樹する方法)を学び、スタッフの大井キヨ子らと鼓童村にアテビの植樹も行ないました。

和名ヒノキアスナロ。佐渡では「アテビ」と呼ぶ。


【2007年11月 鼓童牛 きくこ 】

飼育を委託した仔牛のきくこと青木孝夫

ものごとの源流を知らずして未来を語ることはできない。
未来に伝えていくことができない。という思いの中で、
ケヤキの苗木の植樹、原木太鼓つくり、そして次は牛皮のことも思考していくために、2007年11月2日、佐渡北部の高千家畜市場で仔牛(きくこ/2006年12月31日生まれ)を鼓童文化財団で落札し、池野牧場さんに飼育を委託しました。

目的はもう一つありました。
そもそも、池野牧場の方との出会いは「大佐渡トラスト」運動とドンデン放牧を守ろうという市民有志との会合でした。池野さんの牧場がおこなってきた自然放牧は大佐渡の山々の環境保全、シバ草原を守ることにありました。自然放牧の牛たちがシバ草原の草を食べ、自然循環する環境を守り、佐渡の魅力的な風景を持続することと、放牧牛の自然飼育を推進することが目的でした。行政主導の柵付き放牧はどこにもあるけれど、日本の中でも池野牧場さんのような自然放牧をしているところはほとんどはなく、とても貴重な自然放牧でした。

しかし、年々放牧牛も少なくなり、シバ草原にイバラやススキがはびこり、山が荒廃しはじめていました。鼓童グループとしても、何かできることはないかと考えて、「きくこ」を購入しました。そして鼓童文化財団研修生たちと荒れた牛の通り道の確認や草刈り整備しながら、放牧を守り、大佐渡トラスト環境保全のための山登りを始めました。

牛の通り道の確認と整備を行う山登り前にきくこと会う当時の研修生(撮影:石原泰彦)

残念ながら、池野牧場さんは2016年を最後に大佐渡の自然放牧を断念したそうです。一度、自然放牧を断念すると、残念ながら再開はできません。つまり、佐渡で唯一実践されていた自然放牧が絶滅したことになります。それは、さらに大佐渡の山が荒れていくことを意味すると思います。

シバ草原にイバラやススキがはびこると、牛が食べる草がなくなり、さらに荒れるという悪循環になるということです。
それと、自然放牧の経験のある牛が未経験の牛たちを引き連れて、水の場所や食料を探し出すことを教えていく。その循環も途絶えてしまうと、自然放牧ができなくなるということだと思います。

どんな困難にあっても、人間が逞しく生きて抜くためには、どうすればいいのか・・・・・
自然放牧された牛たちが放牧前と放牧後では精悍さが増し、逞しくなって牛舎に帰ってくる姿を思い出します。


【2007年 4尺の国産ケヤキの大太鼓 と 浅野昭利さん】

1982年2月初めに、田耕氏の指示のもと、新たな鬼太鼓座メンバーが真野大小の稽古場にあった太鼓や楽器、家具類を引き取りにきました。
つまり、太鼓がなければ、公演はできない。
公演ができなければ、食べていくことができない。
つまり、ここから・・・まさにゼロからのスタートとなりました。

しかし、初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)はこの難局の中で1982年2月〜8月まで演奏活動を中止とし、新たな演目の仕込み期間、営業期間として次の準備に向けて始動することになりました。
しかし、演奏活動をしていくために、太鼓や楽器類を準備しなくてはなりません。でも当時はまったくお金がありません。そんな状況の中で河内は浅野太鼓楽器店の浅野昭利さんにご相談させていただきました。

浅野さんは私たちの困窮と新たな活動に向けた夢と構想を温かく受け止めてくださり「出世払いでいいから」と演奏活動に必要な最低限の太鼓一式を準備してくださいました。私はこの時の浅野さんのご厚情がなければ、今の鼓童は存在していなかったと思っています。

鬼太鼓座時代にはサントリー様から寄贈された国産ケヤキの大太鼓がありました。しかし、その貴重な太鼓も佐渡を離れ、田耕氏のもとに行ってしまいました。それ以降、鼓童は外材の胴の大太鼓で演奏をしていました。

私はいつの日か、次代を担う鼓童の若者には日本の自然環境に適合した響きのいい国産ケヤキの大太鼓で演奏させたいと願い続けていました。大袈裟に言えば、鼓童にはバイオリンの名器ストラディヴァリウスと同じような存在が必要ではないかと夢想し始めたのは2004年頃です。

しかし、大太鼓にするための大きな国産ケヤキ材はなかなか手に入るものではありません。立派に聳え立つものは神木になっていることが多かったですし、いろいろな事情で売りに出されるものがあったとしても、それはかなり高価なものになっていました。

しかし、私のそんな思いをこの頃から浅野さんに相談させていただいておりました。この時も浅野さんは親身になってケヤキの材を探してくださり、日光産のケヤキ原木と出会うことになりました。
この時、浅野太鼓でも国産ケヤキ大太鼓の製作は20〜30年ぶりになるとおっしゃっておられました。

2005年3月31日に浅野太鼓楽器店本社で「けやきの原木玉切り 斧はじめ神事」が執り行われ、私も立ち合わせていただきました。


この神事がはじまる前に少し雨が降り、浅野さんは「いい清めになったなぁ。」と話され、神事がはじまると少し晴れ間もさしてきました。そして、最後の「昇神の儀」が終わると小雨とともに「雷鳴」がゴロゴロと轟いたことに、なんとも言えない不思議な気持ちになりました。

私は、これから製作が始まるケヤキ大太鼓に魂入れし、神木のケヤキを甦らせることができるのは太鼓職人と太鼓芸人の役割になるに違いないと思いたち、無性にこのケヤキの生まれた場所のことが知りたくなり、2005年5月に鼓童メンバー数名とケヤキ大太鼓(4尺)のふるさと、源流地にも行ってきました。

そうして2年後の2007年に、浅野さんは日光産4尺のケヤキ大太鼓とこの良質な材をくり抜き、2尺5寸の子太鼓と、1尺5寸の孫太鼓も同時に鼓童村に納品してくださいました。

真野大小の稽古場から全ての太鼓がなくなってから、26年後の鼓童村にこの日光産4尺の欅大太鼓が納品された日は一生忘れることができません。


【2008年 御太鼓遊び】


現代の暮らしの中では祭りや芸能の意味がとても重要です。
私は、もともと祭りや芸能(太鼓)は人と人、人と神、天と地を繋ぐ役割があるのだから、その太鼓を中心とした芸能集団である鼓童グループ独自の楽しい村まつりができないものかと常々考えていました。

鼓童が日々、打ち込んでいる太鼓たち。その樹木や動物たちへの感謝、バチや皮も折れたり、消耗したりしたものはゴミ箱に捨てずに、感謝を込めた鼓童的儀式(供養)として、「鼓童村どんど焼き(左義長)」もできないかなぁ。

鼓童メンバーの旅路安全・芸道上達・無病息災・大入祈願を願う「鼓童村盆踊り」などもあると楽しいかもしれないなぁ。

年に一回、鼓童グループ全員が集まり、鼓童村内の森の手入れなどをしながら、感謝を込めた楽しい鼓童村まつりの年中行事ができないかなぁ。

そんな鼓童村まつりのことを思考していたときに、藤本容子からも具体的な提案があり、藤本容子の作詞作曲で風流口説き節(2004年)や鼓童村どんど焼きの唄<左義長>(2005年)という鼓童村独自の唄も生まれました。

現在は鼓童村の恒例行事となった「鼓童村どんど焼き」(左義長)(撮影:西田太郎)

そうして、2008年7月には鼓童村まつり(鼓童グループ内で執り行う年中行事という意味合いのもの)に「御太鼓遊び(おたいこあそび)」という行事がひとつ加わりました。
原木太鼓「やまいもくん」をみんなで担いで鼓童村を練り歩き、中庭に植樹したケヤキのまわりを御太鼓さまが右回り(この世=生命) 左回り(あの世=魂)と担ぎまわし、あの世とこの世の皆々で ハヤシ、オドリ、ウタイ ムスビ合い、村人全員でひとりひとり打ち込み、自然なカタチで祈り、喜び合うまつりの儀式(のようなもの)を行いました。

私たちの生業として欠かせない「御太鼓さま」のすべての繋がりの恩恵に感謝すること、鼓童グループの繁栄と旅路安全・芸道上達・家内安全・無病息災、そして、世界中の繁栄と平和を祈って、鼓童の象徴であるケヤキの「御太鼓さま」を「わっしょい」という掛け声で担ぎ、全員で一打一打魂込めて祈り、打ち鳴らすことにも大きな意味があるのではないかと思ったからでした。

「わっしょい」とは「和」を「背負う」という意味合いがあり、普段仲の悪い人でもこの日、この時に限って、「和」をもって尊し、意気(粋)を合わせて元気に「御太鼓さま」を背負いましょう。という鼓童村村民の絆を確かめ合うとともに、ONE EARTH TOURと同じく、「御太鼓さま」を通じて、世界中の平和を「和」ショイという願いを込めた掛け声で楽しく確かめ合うことも大切なのではないかと思ったからでした。

(特定の宗教観を押し付けたわけではなく、「くらす・まなぶ・つくる」という原初的な理念に基づく思いからでした)

風流口説き節」もこの行事の最後に全員でウタイ納められました。

残念ながら御太鼓遊びは諸事情により、3年で途絶えることになってしまいました。また、鼓童村まつりは会場を深浦学舎にかえて「鼓童祭り」となりましたが、お世話になっている地域の方々をお招きして開催し、「風流口説き節」はまつりの締めくくりに毎年唄われています。

私は芸能者の鼓童人からうみだされ、事始となる「まつり」がいつしか「伝統」になっていくことを想像することがなにより楽しいことでした。

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その3:2000年〜2010年 前編/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>
<その2:1990年〜2000年のブログはこちら>

【2000年 坂東玉三郎さん 千載一遇の出会い】

坂東玉三郎さんとの稽古風景(撮影:田中文太郎氏)

1999年頃までの鼓童の舞台活動はそれなりに順調でした。

しかし、どんな組織でも現状に満足した時に停滞が始まり、衰退へと向かいます。
佐渡の國鬼太鼓座の時代から鼓童となって20年目が近付いた頃、絶えず先駆的で革新的な創造活動をし続けていると思っていたのですが、組織としては知らぬ間に保守的な方向性へと向かい始めているのではないかという思いを抱きました。
魂を込め、大きな音で一打一打を打ち込む舞台に対しては、反響もあり、お客さまにも満足していただけていたと思います。
しかし、これからの舞台活動を考えていく上で、そこに安住しがちになっていることへの危機感が募ってきたのはこの頃です。

もちろん、鼓童内部でも鼓童メソッドや演出ビジョンなどの話し合いも何度となくおこなっておりましたが、それを具体化するための説得力ある方針がなかなか定まっていきませんでした。

芸の道というものは意識を持って進めば進むほど 険しく、遠く、深くなっていくものです。その深さに挑むには「精神と身体と技術」を鍛え、精度を高めなくてはなりません。
それは言葉で言うほど容易いことではなく、その道を極めていくためにはまだまだ何百年とかかるわけであり、そのために今何をすべきかを考え、行動していかなければならないと覚悟をしたのはこの頃でした。

もっと先々の100年後の鼓童を見据えたときに、今ままでのやり方だけでは続かないという思いにかられました。

そもそも「鼓童」をはじめとする太鼓芸能は、古典として確立しているわけではありません。新しい楽曲を創作する「創り手」が必要ですが、当時の鼓童グループ内だけでは限界がありました。そして「創り手」を育てるには時間がかかります。とにかく新しい視点と発想が必要であり、今やるべきことは何かを考え続けていました。

そんな折、鼓童が専属契約をしていたソニーレコードのプロデューサーが坂東玉三郎さんとヨーヨー・マ氏とのコラボに関わっていた関係で、玉三郎さんの存在がとても気になっていました。

実は、1988年に鼓童が出演させていただいた冨田勲さんがプロデュースされたイベント「サウンド・クラウド・イン・シドニー」に玉三郎さんも出演されており、その時初めてお目にかかりました。でも一流の歌舞伎役者、舞踊家であり、私にとって雲の上の方だったので、この時は緊張して、レセプションの席でもお声をかけることはできませんでした。

しかし、2000年にソニーレコードのプロデューサーのご紹介を得て、12年ぶりに玉三郎さんにお会いし、お話をさせていただくことができました。

2000年12月京都南座顔見世興行での「阿古屋(あこや)」では箏、三味線、胡弓の三曲を自在に弾かれ、内に秘めた女形の演技の美しさと音楽的感性に思わず息をのみ、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)では佐野次郎左衛門役の勘九郎(故十八代目中村勘三郎)さんと八ツ橋の玉三郎さんの絶妙な間のやりとりに歌舞伎の醍醐味を堪能したことは一生忘れることはありません。

しかし、私が最も印象に残った玉三郎さんの舞台は2002年12月大歌舞伎での三島由紀夫氏の新作歌舞伎「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。ポスターデザインに横尾忠則さん、出演者は玉三郎さんはじめ、猿之助さん(現二代目市川猿翁)、勘九郎さん(故勘三郎)、亀治郎さん(現四代目市川猿之助)という豪華キャストでした。
この舞台の初演は1969年11月であり、その1年後の11月25日に三島由紀夫氏は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自害されており、「弓張月」での切腹シーンの演出には三島由紀夫は並々ならぬ力が入っていたとパンフレットで横尾忠則さんが述懐されていたことが思い出されます。三島由紀夫氏が白縫姫役には玉三郎さんしか考えられないという思いの舞台を、初演から33年経って見届けられたことは感慨深いものがありました。

これだけ観客を魅了する芸能者と共演させていただき、ご指導いただけたら、鼓童の新たな創造性を引き出していただけるかもしれないと鼓童の未来を考えれば考えるほど、歌舞伎役者で舞踊家である玉三郎さんとお仕事がしてみたいという思いが強くわきあがってきました。

2001年4月に新潟で玉三郎さんの特別舞踊公演があることをお聞きし、無理を承知でこの機会に鼓童の活動拠点をご覧いただけないかとご相談しました。玉三郎さんは快く新潟公演の前に佐渡の鼓童村を訪問してくださり、稽古場でいくつか演奏を聴いていただきました。玉三郎さんは常々「大太鼓打ちを見れば、そのメンバーの身体の使い方や表現力が一目瞭然」ということをおっしゃっていて、技術的に未熟でもどんどん若手を抜擢して可能性を試していくべきではないか、といろいろとご助言をいただきました。

私の夢は鼓童の演奏する音楽で玉三郎さんに舞い踊っていただけるような共演企画でした。しかし、玉三郎さんからは「鼓童のことをもっと知らなければ共演することはできないので、まずは鼓童の舞台演出であれば」とご承諾を得ることができました。当然ながら、玉三郎さんは鼓童のためにということだけではなく、芸能に携わる後輩たちのために、芸能文化全体の発展のためにという思いでお引き受けくださったのだと思います。

そして、2003年11月「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」の演出に向けて2001年より準備がスタートしました。

玉三郎さんと「佐渡へ」の稽古に打ち込む当時の鼓童メンバー(撮影:井出情児氏)

鼓童単独の舞台の演出を外部の方にお願いするのは初めての取り組みでしたが、私は未来の鼓童及び太鼓芸能文化にとって大きな影響を与えられるものと確信していました。

当然、組織としても今迄になかったことを改革しながらの挑戦でもあるので、内部における対立と葛藤というものは絶えず起こりました。しかし、それは創造活動において欠くことの出来ない源泉であったとつくづく思います。

絶えず、批判という風をいれながら立ち向かう勇気が必要であり、そのために克服する機会と力を与えられ、個々が強くなっていくことが組織として重要なことだと強く感じていた時期でした。

私は他者が真似の出来ない新たな創造性を発揮するために、今までの枠組みを取り払い、新しいものに対して、まず「受け入れて」全体的な調和のなかに組み込みながらゆるやかな変化をしていく必要性を感じていました。

かなり広く、深く、俯瞰的な視野で物事を見定める高い目標を求めていたので、当初、私の行動はすべての仲間たちには理解されないことも多々ありました。しかし、この実践は高みを目指し、さらに成長し熟成していくために乗り越えていかなければならない挑戦として取り組んでいきました。

2002年12月に歌舞伎座出演を終えて世田谷パブリックシアターでの鼓童公演に駆けつけてくれた玉三郎さんは、公演をご覧になられた後から鼓童の衣装について考えはじめられていました。
特に世田谷パブリックシアターは「舞台面が黒のため、藍染めの衣装が沈んでしまう。」ということをお話され、なんと、それから1週間後におこなわれた篠山紀信氏による「佐渡へ」公演用のビジュアル撮影時には衣装見本までご準備くださいました。そして、従来の鼓童衣装デザインをベースに色が「生成り」の方針で準備が始まっていきました。

世田谷パブリックシアターにて(撮影:井出情児氏)

そうして翌年2003年から佐渡に何度もご来島いただき、2003年11月世田谷パブリックシアター15回連続公演を皮切りに、佐渡を含めた全国5都市を巡る、「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル〜佐渡へ」に向けた稽古と貴重なご指導を仰ぐことになりました。

この公演には鼓童メンバー全員が参加し、玉三郎さん自らが鼓童メンバーひとりひとりと向き合い、丁寧な話し合いを重ね、ベテランから若手まで鼓童グループの全体の特性を全面的に活かしてくださいました。特に女性の表現については歌舞伎の女形の世界観を知り尽くしている方なので、愛情深く、厳しい眼差しでご指導していただきました。

ワン・アース・ツアー スペシャルの舞台上で行ったミーティング(撮影:井出情児氏)

従来の鼓童の舞台は大太鼓〜屋台囃子でエンディング、クライマックスへという構成でしたが、玉三郎さんの演出では、木遣り〜大太鼓〜屋台囃子から始まるという真逆な構成でした。鼓童内だけではなかなかできない画期的な発想でした。

玉三郎さんのアイディアと構成でこの時に「巴」と「佐渡へ」という新たな楽曲が生まれました。特に大太鼓、屋台囃子という公演のクライマックスに替わった全員参加の「佐渡へ」は様々な種類の太鼓の音色を緻密に組み合わせるだけでなく、箏や胡弓、三味線、拍子木、鳴物など、鼓童の特性をフルに発揮させ、未来に向けた可能性を最大限に具現化してくださいました。

玉三郎さん構成の元生まれた「佐渡へ」(撮影:田中文太郎氏)

「どんな物を手にもっても太鼓打ちとして成立させたい。楽器も、衣装にもこれからも色々と試していって、100年以上経って、美しい古典に成りうる要素を付け加えていこうと考えている。」

「違った味を楽しめなかったら、将来に向かって様々な作品は提供出来ない」

という玉三郎さんのお言葉は、私が願っていた内部改革の挑戦の意図を汲み取っていただけたことが嬉しくて、とても印象に残っています。

私は玉三郎さんとの千載一遇の出会いは鼓童グループにとって、新たな領域(新しい視点と発想)への挑戦の大きな一歩となったと思っています。

坂東玉三郎氏による初の演出作品「ワン・アース・ツアー スペシャル」公演のライブ収録(DVD・CD)


【2006年 坂東玉三郎さんとの共演作 アマテラス】

「アマテラス」初演時、南座にて(撮影:田中文太郎氏)

玉三郎さんとの出会いから6年後、鼓童創立25周年の2006年に私の念願だった玉三郎さんとの共演作「アマテラス」公演が実現しました。
私は「佐渡へ」稽古期間中も、共演作の可能性を打診し続けていました。

私は玉三郎さんからお借りした玉三郎さんの作品集の映像を拝見し、共演作としてのテーマとなるようなヒントを探しながら、ご相談をさせていただいておりました。そして、その中にあったスサノオがヤマタノオロチを退治する話を題材にした内容の「日本振袖始」(にほんふりそではじめ)が最初のヒントともなり、日本の神話について学び始めました。

高天原(たかまがはら)でスサノオの行為に怒り、天の岩屋戸に身を隠した太陽神アマテラス。このことによって世は暗黒になってしまい、アメノウズメが踊り狂い、捧げ物をし、酩酊や狂気の祝祭を行ったことによりやっと岩屋戸から出てきて、この世に光が甦ったという神話があります。

これは「秩序を壊乱させ、新たな創造の道をひらく」と言う意味にも解釈できます。アマテラスは玉三郎さん。打って、唄って、踊って、奏でて、捧げ物をして太陽を甦らす八百万の神々が鼓童の役割。このようなシンプルなテーマで物語を創作し、それぞれの世界を表現できたら、今までに観たことのない素晴らしい「太鼓音楽舞踊劇」の作品ができるのではないか、玉三郎さんと鼓童の共演作は「アマテラス」しかない。と私は妄想し始めていました。
ところが程なく、それは妄想ではなくなり、玉三郎さんからのご提案によって、スサノオ役に藤本吉利、アメノウズメ役に小島千絵子という鼓童創立メンバーがキャスティングされ、玉三郎さんと鼓童の共演作「アマテラス」が実現できる運びになりました。

アマテラス役の坂東玉三郎さんとスサノオ役の藤本吉利(撮影:岡本隆史氏)

鼓童はもともと太鼓だけの演奏団体ではありません。
打って、唄って、踊って、奏でる芸能を学んできました。そんな太鼓芸能集団としての魅力を物語性のあるテーマで今迄にない前人未踏の新たな舞台に挑戦してみたいと願っていたので、この「アマテラス」公演では私の大きな夢がまた一つ実現できたことになりました。

しかし、このプロジェクトは製作面でもハードルの高い大きな挑戦でした。それでも、玉三郎さんはじめ、松竹株式会社、そして多くの関係者の皆様からのご支援をいただき、2006年5月の世田谷パブリックシアターでの23回公演、6月の京都南座での16回公演を大盛況の中で実現することができました。
そして、2007年8月には、2010年から建て替えのため休館となる前の旧歌舞伎座において再演をさせていただきました。

千秋楽。カーテンコールを通常行わない歌舞伎座で、フルスタンディングオベーション(撮影:岡本隆史氏)

鼓童メンバーたちを歌舞伎座の舞台に立たせたいということも私の夢のひとつでした。
鼓童グループは佐渡という島に根ざしながら、コロナ禍に負けずに、絶えず前人未踏の新しい舞台上での表現を求めて活動していくことが大切であるとあらためて実感しています。

旧歌舞伎座正面玄関前での集合写真(撮影:岡本隆史氏)

 

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫

<その1:1977年〜1989年のブログはこちら>

【1991年 鼓童創立10周年「ギャザリング」とオーチャードホール】

Gathering Mono Prism

(左)CD「Gathering」 (右)CD「Mono-Prism」(カバーイラストレーション:黒田征太郎氏)

鼓童創立10周年として1991年7月22日から3日間、初日は鼓童のみ、2日目は「入破」と石井眞木さん指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団との「モノプリズム」、3日目は1988年から1990年までのアース・セレブレーションで共演させていただいた日野皓正さん、山下洋輔さん、ゴスペルシンガーのレシー・ライトさんらとの企画をおこないました。

しかし、今にして思えば、この頃は鼓童村の本部棟の食堂の増築から始まって、住居棟、和泉邸(ゲストハウス)稽古場、などを次々と建設中でしたし、8月のアース・セレブレーションの準備もしながらでしたので、資金繰りを含めて、よくもまぁ、実行できたものだと回想することがあります。でもこの頃、自分がどんなふうにアレコレ奔走しながら乗り切っていったのか、ほとんど記憶にないのです。
ただ、渋谷の東急文化村のオーチャードホール公演に向けては、たくさんのお力添えをいただいたことは今も忘れることはありません。その中でも一番大きな出会いは、東急グループの関係の方々がアース・セレブレーションに度々ご来島いただき、鼓童を応援してくださっていたことでした。そんなご縁もあり、会場押さえのご調整や東急電鉄、東急バスなどでの全面的な広報宣伝のご支援をいただいたことがこの大きな企画を実行していく上で、とても勇気付けられました。

とにかく、30年前も困難の連続でした。それでも若くて未来に希望を持っていたからこそ、やりがいのある面白い時代だったとも言えるのかもしれません。
鼓童創立40周年記念公演の2021年オーチャードホールでの公演に向けては、あらためて30年前のことを思い出しながら、次世代の鼓童メンバーたちの成長を見届けたいと思っています。


【太鼓芸能と音楽】

1991年に受賞した「第5回日本ゴールドディスク大賞」の記念楯

1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を交わしてから3枚目のCDが「彩 IRODORI」です。このCDが1991年「第5回日本ゴールドディスク大賞のアルバム部門」を受賞しました。

CD「彩」

私は赤坂プリンスホテルでの授賞式に参列させていただきました。この時、ベスト5ニュー・アーティスト賞を受賞されたBEGINのメンバーたちとたまたま楽屋が一緒だったので、少しお話をする機会を得ました。すると、彼らから「僕たち鼓童を聞いたことがあります。」という話で意気投合させていただいたことを思い出します。
鼓童が初めて沖縄公演ツアーを行ったのが1983年、そして86年にも再び訪れています。彼ら3人が沖縄の石垣島出身で同級生であることは知っていましたが、鼓童を知ったのは、彼らの出身校の八重山高校での学校公演の時だったと聞いて驚きました。彼らが高校生の時に、鼓童と出会っていて、その後プロのアーティストとなり、このような授賞式で偶然にも再会できたことは感慨深い思い出です。
また、1995年には「第37回日本レコード大賞 特別賞」を受賞しました。この授賞式はTBSのスタジオで開催されました。この時『清河への道〜48番』でアルバム大賞を受賞されたのは新井英一氏でした。新井英一氏は黒田征太郎さんと何度か佐渡を訪れ、1988年第一回のアース・セレブレーションの時に一緒に参加していただいたご縁もあったので、このような晴れの舞台で再会できたことも嬉しかった思い出です。

「第37回日本レコード大賞 特別賞」受賞の際のプログラム

私は鼓童メンバーが創作した楽曲を著作権登録して管理できるようにしたことや1990年代に音楽業界における素晴らしい賞を二つも頂いたことによって、鼓童の「太鼓芸能」が「音楽」として少しづつ認められるようになったのかなと感じはじめたのはこの頃です。

しかし、2021年の今でも「太鼓芸能」というジャンルは文化庁の分野区分けの中にはありません。音楽・演劇・舞踊・映画・アニメーション・伝統芸能(雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊、その他)・大衆芸能(講談、落語、浪曲、漫談、漫才、歌唱、その他)・・・
日本の太鼓芸能文化はいまだに「その他」の位置づけなのです。

私は時間をかけても鼓童グループの活動を通じて、日本文化の中に「太鼓芸能文化」という芸術分野としてのジャンルが確立される日がくることを今も目指しています。


【1994年 EC94 テント劇場企画】

1994年のアース・セレブレーションのプレイベントとして「テント劇場」という実験的な試みを実践しました。期間は7月28日〜8月18日の22日間。「テント劇場」を通じて当時のメンバーに伝えたかった思いがありました。
鼓童の結成初期は知名度が低く、公演の営業活動が大変な苦難の時代でしたが、1990年代に入ると、公演依頼をお断りしなければならないほどいただけるようになり、逆の意味で苦悩する時代となりました。大きな劇場、たくさんのお客様。仕事があることがあたり前になっている状況に、私はそこはかとない危惧を感じ始めていました。
メンバーたちがこの<恵まれ過ぎた環境>に対して慣れてしまい、ぬるま湯に浸かり過ぎた「茹でガエル」にならぬよう、発想を転換するキッカケにしたかったのです。
あたりまえという既成概念からの脱皮によって、それぞれが空間をどう活かすか、観客との密着性など、固定されずに、機動性があって胸騒ぎのする空間、つまり、そこから新たなエネルギーが吹き出してきそうな空間を創りあげ、創造力の開花を促すことが目的でした。

小木町の漁港そばの空き地に設営されたテント劇場(撮影:吉田励氏)

この企画はサーカステントの設営や管理を含め、神奈川県のサーカス集団「むごん劇かんぱにぃ」の方々のお力添えによって実現することができました。
また、この企画によって、佐渡の若者たちのバンドとの交流が生まれ、彼らのライブもおこないました。ソニーレコードのプロデューサーを招いて、演奏後にそれぞれのバンドへの寸評、アドバイスなどをお願いしました。そして、鼓童メンバーたちも小編成による様々な企画を日替わりで行いました。永六輔さんや小室等さん、坂田明さん、渡辺香津美さんらにもご協力をいただき、「テント寄席」や「音楽自由自在」、そして、「イメージサーカス」などの多種多様なプログラムを通じて22日間、佐渡の方々にも楽しんでいただく機会になりました。

「テント寄席」(撮影:吉田励氏) (故・内海好江師匠とマジックの花島皆子・世津子氏。両端は藤本容子・小島千絵子)

永六輔さんはこのテント劇場企画に向けて芸人の方々を佐渡に連れてきてくださり、鼓童村の和泉邸で合宿生活をしながら、佐渡の方々のためにと、取り組んでくださいました。
そして、このテント劇場企画がきっかけとなり、1996年からスタートしたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」の企画へと繋がっていくことになりました。
しかし、このテント劇場は運営面での課題が多く、1994年のECが最初で最後の企画になりました。

EC1994で行われた永六輔さんとの勉強会(撮影:吉田励氏)

この頃は<恵まれ過ぎた環境=安定期>のように私自身が感じていたのかもしれません。しかし、同時に言葉で言い表せないような危惧も感じはじめていたため、かなり意識的に発想の転換を促す企画にチャレンジした時期でした。
しかし、今のコロナ禍という苦難な時代では・・・
必然的に発想の転換が必要になっており、この機会だからこそ、必ず新たなエネルギーが吹き出してくると信じています。


【1997年 財団法人鼓童文化財団 設立と 研修所二年制】

初代代表の河内敏夫(ハンチョウ)は当初から株式会社北前船の設立の先に財団法人化を目指していました。しかし、80年代当時の財団法人化の認可には基本財産や実績が必要であったため、その目標は叶えることはできませんでした。
私はハンチョウ亡き後、多くの方々のご支援を糧に、この財団法人化に向けた準備にも着手しました。
もともと鼓童グループの活動は営利を目的にした事業というよりも、研修所での人材育成やアース・セレブレーションを通じた地域貢献など公益事業を目的とした活動が根幹にあったからです。引き継いでから10年かかりましたが、認可規定の基本財産もなんとか集まり、1997年に新潟県から認定を受け、その目標が実現し、念願だった財団法人鼓童文化財団が設立されました。その後2011年には、寄付をしてくださった方が税制上の優遇措置を受けられる「公益財団法人」へと移行認可されることになりました。

1997年、研修所で行われた鼓童文化財団設立公演(撮影:吉田励氏)

また、同時期に鼓童文化財団「研修所」が2年制になりました。それまでの研修所は佐渡の南部にある鼓童村から遠く離れた北部にあり、研修所所長がほぼ1人で指導をし、鼓童の舞台演目を中心に習いおぼえるという1年間のカリキュラムでした。しかし、1年生と2年生が共に学びあう時間は貴重な人材育成、学びの場になるという当時鼓童文化財団の副理事長だった島崎信先生(2004年〜2016年は理事長、現在は特別顧問)のご助言もあり、2年制へと舵を切りました。
この時から鼓童メンバー以外にも、佐渡島内、島外から様々な専門家の先生方をお招きしご指導を仰ぐ体制に変わっていきました。

当時の研修生応募要項では鼓童メンバー志望者に限らず、スタッフや広く社会に出て活躍できる人材の育成も目指して受け入れていました。
そして研修内容には太鼓、唄、踊り、笛の他に佐渡の歴史や文化などに関する講義や茶道、能、琉球舞踊、佐渡の鬼太鼓などの芸能や、農作業(米づくり等)、祭り見学、駅伝など、様々なカリキュラムに取り組みながら、少しずつ定着をして今があります。

充実した研修内容は様々なカリキュラムに取り組み、少しずつ定着している

この2年制の研修所が実現できたのは、新たな研修所として旧岩首中学校の校舎が借りられることになったことも重要な出会いでした。

1995年頃に鼓童スタッフで佐渡の岩首出身の山中津久美の母校が閉校になるとの情報を得て、すぐに一緒に見に行きました、この学校は前浜地域の柿野浦という集落にあり、佐渡市と柿野浦集落の方々で建物を取り壊すか、残すかと協議されていた時でした。この学校は小高い丘の上にあり、周りに民家もなく、近隣にご迷惑をかけずに太鼓の音も思いっきり出せ、日々の研修に集中して学びあう場として素晴らしい環境でした。
私は「ここは最高の環境だ」と即断し、山中を通じて、すぐにこの学校を研修所としてお借りできないかと柿野浦集落の方々に相談させていただきました。集落の皆さんも校舎を取り壊さずに、活用できる方策をご検討中だったこともあり、私たちの申し出を快く承諾していただくことができました。

こうして素晴らしい環境の中で、毎年4月には新研修生を迎え、2年生が研修所での基本的な日常生活や稽古方法などを伝え、お互いに学びあう貴重な場になっています。

どんな時代になっても年齢に関係なく、指導される側から指導する側になり、主体性を持って相手に伝えていかなければならなくなった場合、あらためて自らがそのあり方、伝え方などを学び直す機会にもなって成長していく経験は今の時代だからこそ、とても重要だと思っています。


【鼓童の活動拠点 鼓童村の土地のこと】

90年代の鼓童村(撮影:鼓童)

現在の鼓童村の土地は約4万坪ほどあります。周囲はコナラや山桜、朴など雑木林に囲まれた傾斜の多い佐渡南端の小木半島にあります。地形上平坦な土地が少ないため、ここに本部棟、稽古場、スタジオ、住居棟、ゲストハウス、工房などを建てる上で造成工事が大変でした。1987年5月3日に当時の本拠地の真野・大小で「鼓童葬」を行って皆でハンチョウを見送り、その翌週の5月11日に地鎮祭を行いました。
1988年からできる範囲で少しづつ建設してきたのですが、当初はこの4万坪の土地の環境や歴史のことなどを考える余裕はまったくありませんでした。
しかし、私は1998年頃からこの鼓童村の土地のことが知りたくなり、敷地内を探索し始めました。道のない勾配の激しい危険なエリアから海岸沿いにある江積(えっつみ)集落まで降ったこともあります。途中には不思議な小さな洞窟もありました。ムジナの積み重なった糞石にも驚いた記憶があります。ここの土地は長者が平遺跡という縄文遺跡が発掘された地域でもあるので、その時代のことを想像しながら、歩きまわることが楽しくなりました。
梅原猛さんの『森の思想が地球を救う』という考え方に共感し、上越のNPO法人「木と遊ぶ研究所」の方々の活動にも影響を受け、鼓童村内の森の手入れを始めたのがこの頃です。今も所々に残る炭焼き用にかたどられた穴の形跡も発見し、もともと鼓童村の土地は炭焼き用に手入れされてきた土地であることが判明しました。私はこのことを知ってから、荒れた竹林の整備も兼ねて、宿根木博物館にある炭焼き小屋をお借りして、竹炭造りにも挑戦したことがありました。
このような行動とともに、私は日々の暮らしとその土地、私たちの生業である芸能や太鼓、その源流を知らずして未来を語ることができない。未来に伝えていくことができない。そう強く感じるようになり、この頃から500年前の太鼓の胴の樹木のことも考え始めました。

昔の山仕事に従事した人たちは何世代も先の未来を見据えて、日々過酷で地道な作業をおこなってこられました。森の手入れや植樹はその作業そのものでは目先の収入は得られません。目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を忘れてはいけない。有形と無形との違いはあるにせよ、芸能者の仕事も同じであることに気づき、同時に太鼓芸能文化の未来も考えなければばらないと思うようになったのです。
そして、今迄のやり方だけでは「鼓童」の未来が見えない。太鼓芸能文化そのものの底上げをしなければ鬱蒼とした森と同じく、新たな光と風を吹き込まなければすぐれた森を次世代へ継承できなくなってしまうのではないかという思いに駆られました。

「言うは易し行うは難し」なかなか簡単なことではありませんが、今だからこそ、目先の収益に囚われることなく、何世代も先の未来のために黙々と働く行為、自分のためではなく、人のために尽くすことに喜びを感じる仕事を見直して実践していくことが重要なのだと思っています。


【1999年 交流学校公演と二班制のスタート】

1997年頃から交流学校公演に向けた活動理念を考え、1999年春に向けて二班制の準備に入りました。当初は「鼓童と中学生との交流学校公演」プロジェクトというあえて一番多感な中学生のみを対象にしていく方針でしたが、今では0歳児から高校生まで幅広い年齢層を対象とした交流学校公演が始動しています。

実はこの企画の発端は、1996年〜2000年にかけて、二年に一回のペースで行なっていたさど・ぷれぜんつ 「永六輔の鼓童であそぼう」「佐渡あたりでバチあたり」などの公演を通じて、永六輔さんにご指導をいただいた影響があります。
長年、永さんには「鼓童には遊びが足りない。肩が凝る。鼓童は世の中に貢献していることもあるけど、悪い影響も与えている。君たちはもっともっとお年寄りや子どもたちに楽しんでもらえる芸を学び、地域社会に根付くような活動もしていくべきだ。もっと鼓童は言葉でも伝えられるようにならなければいけない。佐渡弁で語れるようになってほしい。」というような叱咤激励を事あるごとに頂いていました。

1996年、永六輔さんと「鼓童で遊ぼう」の打ち合わせ(撮影:吉田励氏)

一流の芸人やミュージシャンの方々を佐渡に招いて、鼓童メンバーたちに刺激を与えてくださいました。この時の公演は、あえてリハーサルなどはさせずに、永六輔さんから鼓童メンバーにぶっつけ本番でお題が提示されるという、鼓童にとってはそれまでにまったく経験したことのない何とも厳しい試練を体験させていただきました。齊藤栄一をはじめ鼓童メンバー達はあたふたしながらも臨機応変に対応するプロの芸や話術に触れ、多くのことを学ばせていただいたと思います。

2000年7月「佐渡あたりでバチあたり」公演リハーサル。出演者の福尾野歩さん、栄一、容子、永さん(撮影:吉田励氏)

このような体験が私自身にとっても大きな発想の転換になりました。
劇場、つまり舞台と観客という場だけではなく、子ども達の学びの場(体を育む館)に出向いていくことの重要性を感じたのです。
そして、照明や舞台機構も使用せず、演奏、質疑応答(楽器の説明等)、体験コーナーなど90分程度の基本構成を、1995年から佐渡で研修生が行なってきた中学生との交流公演をベースにして、当時の鼓童代表の山口幹文齊藤栄一らが中心となって作っていきました。参加メンバーは準備段階から、何らかの形で制作にも関わりました。

1999年にスタートした交流学校公演

学校の体育館という場で太鼓芸能を通じて、鼓童メンバーひとりひとりが等身大のまま、子ども達に言葉で語りかけながらの交流学校公演を実践していきました。

この頃は、1999年春にスタートさせた本公演と交流学校公演の二班制をとることで、鼓童グループの活動をより熟成させていこうと考えていました。

今も鼓童は子ども達に日々学ばせてもらいながら、交流学校公演を有意義に実践させていただいています。

そこで、このような体験を経て2000年7月に永六輔さんから巻物書簡でいただいたお言葉をあらためてご紹介させていただきます。

永六輔さんからの巻物書簡①

永六輔さんからの巻物書簡②

「君達の【太鼓】はそこにあるだけで充分に鑑賞に耐える工藝品であり、美術品なのだ。だから、君達もそこにいるだけで【存在感を示せる人間】であってほしい。その上で太鼓と向き合うと君達は中途半端な人間であるよりは純粋に”童”であることに徹することでしか、対応出来ないことに気づく、その時君達は鼓童なのだ。」

(このお言葉は鼓童代表の船橋裕一郎の発案により、鼓童創立40周年「鼓」公演で掲げるテーマにもなっています)

鬼太鼓座の誕生に深く関わる3人(永六輔さん、本間雅彦先生、島崎信先生)と青木(2000年・柿野浦の研修所にて)(撮影:吉田励氏)


━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その1:1977年〜1989年/青木孝夫

【はじめに】
2020年に世界中で起こった新型コロナウイルス感染症という未曾有の出来事は、鼓童グループの活動に大切なことを気づかせてくれています。

2021年、鼓童創立40周年の節目に、「初心忘るべからず」「歴史を知らずして未来は語れない」という言葉を噛み締めています。
前身の佐渡の國鬼太鼓座時代から現在の鼓童グループの活動に関わらせていただいている中で、生き抜くチカラを教えてくれた出来事や成長させていただいた出来事などを「来し方行く末」として年代ごとに数回に分け、あらためて思考してみたいと思います。

尚、鬼太鼓座の誕生から2011年までの鼓童の歴史については『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡』(鼓童文化財団著、出版文化社)に詳しく書かれているのでそちらを読んで頂ければ幸いです。
あくまでもこのブログはこの書籍には書かれていない私自身の出来事を通じて、鼓童の歴史の一端を思い返せればと思います。

株式会社北前船 会長 青木孝夫

 

1977年〜1980年 「佐渡の國鬼太鼓座」時代

【1977年 鬼太鼓座 東京公演】
東京で生まれ育った私は、鬼太鼓座の座員で後に初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)の弟と同級生だった関係で、学生の頃から、当時中野区にあった鬼太鼓座東京事務所や、佐渡の真野大小の本拠地を何度か訪問していました。そのようなご縁もあり、お手伝いを兼ねて1977年8月1日(月)新宿厚生年金小ホールで行われた「走る・叩く・踊る 佐渡ノ國鬼太鼓座」の公演を観に行きました。鬼太鼓座東京事務所の主催でした。
ところが驚いたことに自由席のチケットを客席数以上に売ってしまったらしく、客席に入れないお客様がロビーに溢れていました。私は何が起こっているのか、まったく分からず、ただただお客様の苦情の対応に追われ「申し訳ございません」とロビーで謝罪をしていました。つまり、状況が把握できていないままお客様に頭を下げて謝罪することから私の鬼太鼓座、そして鼓童への人生が始まったのでした。
この公演は急遽、予定していた18時30分からの公演の後、20時30分から追加公演を行うこととし、溢れかえったお客様になんとかご理解をいただくことができました。私にはよくわかっていませんでしたが、当時はまだ公演の舞台製作周りのことや、公演を主催するということについて、ほとんど知識のないまま公演を実行した素人集団だったと思われます。その直前の1977年7月、日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で開催された加藤登紀子さんのコンサートに鬼太鼓座が出演して、多くのメディアなどに取り上げられたため、お客様が予想以上に増えてしまったのではないかと推測しています。突然の追加公演にむけては、さぞかし舞台裏の鬼太鼓座メンバーや裏方さんたちも大変な修羅場だったと想像しています。
私はこの公演での林英哲さんやハンチョウの津軽三味線に言葉にできない衝撃を受けました。

初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)

私の大学生活はのうのうと豊かな暮らしの中にいて、自分が何をしたら日本の将来に希望を抱くことができるのか、まったく見出すことができず、フラフラと行き先に迷っていた時でもありました。
当時20代半ばの彼らは佐渡ヶ島で共同生活をしながら太鼓や芸能の厳しい修業をしていました。給料や保証もない不安定な生活なのに、なんで皆の目が輝いているのだろうか、なんでこんなに感動するのだろうか、訳がわからぬまま、気が付いたら本能的に1979年に佐渡に渡っていました。

私はこの公演のチケットと、音楽評論家の諸井誠氏(1930-2013)の新聞評を保管しておりました。

<1977 年8月 毎日新聞 諸井誠 感想 鬼太鼓座(一部抜粋)>

新鮮さを欠く新作物
相変わらず、トリの曲は秩父屋台囃子。いわゆる馬鹿囃子の傑作である。新旧メンバー交代のせいもあって、この鬼太鼓座の一番の呼物、以前とは感じがガラリと変わった。多少改悪のきらいもあるが、いまだに楽器配置に工夫を重ねていることなど、見上げたもの。曲目前半の終わりは石井作品だが、これは、ネタ割れしていて、新作物としての新鮮味に欠ける。手の組合せを変え、リズムをくずすなど、不規則な要素を加え、また演出に多少石井らしい構成上の工夫が見られたものの、全体として屋台囃子に似過ぎているのだ。ピッチを変えた七人の締太鼓。最弱奏から、各自ズレて入ってくる開始部分だけが印象的。屋台囃子にはない銅羅(どら)の参加が、作曲上からも、演奏上も、決め手に活用されていないのが期待外れ」。もう一息、何かが欲しいところだ。
素人芸めざしても
(櫓のお七)と(鬼剣舞)が踊りの主要演目だが、お七の人形ぶりを踊った女性および黒子たちには、研鑽の跡がみられた。だが、伴奏の三絃は“スカ撥!などの撥さばきに未熟さが見え、尺八ともピッチが合わなくて、若干感興がそがれた。素人芸を標榜するグループとはいえ、永年研鑽を重ねていれば、いつか自然に玄人として評価されるようになるのだから、これは一考を要するところだ。事実、万能型の名手も一、二育っていることだし、鬼太鼓座も、プロにふみ切るタイミングを、いつかつかまねばならないときがくるだろう。
民謡と(佐渡おけさ)の踊りには、津軽三味線同様、ひなびた味が欲しい。近代青年の都会臭が表に出過ぎる甘さがあるのだ。結局、今回一番印象に残ったのは、ふんどし一本の若者二人で打ちまくる(大太鼓)。技と若さを満喫させてくれた。
アマ離脱、考えねば
技と若さ満喫の「大太鼓」

つまり、この頃は鬼太鼓座はまだまだアマチュアの太鼓芸能集団という認識だったということになります。
「佐渡の國鬼太鼓座から鼓童へ」果たしてプロにふみきるタイミングはいつつかんだのだろうか。


【1979年 ガンガラと孤独】
私は1979年23才のときに佐渡に渡り、新人スタッフとして佐渡でロケ中だった加藤泰監督の『ざ・鬼太鼓座』の映画撮影のお手伝いをすることになりました。
ここで、今は笑って思い返せるようになりましたが、のちのち私自身に生き抜くチカラを教えてくれた、と思われる出来事があります。

映画撮影スタッフがよく冬場に使用するブリキ缶に薪をくべ暖をとる「ガンガラ」というものがあります。佐渡の北部、外海府の入川というところまで行き、何もない酷寒の地での撮影が終了しました。私はマイクロバスに乗り込もうとした時、まだおき火の残っているガンガラを「これどうしましょうか」と、ある先輩座員に尋ねました。すると「おき火はそこの海に」と促され、新人の私は初々しく、素直に海岸に捨てに行きました。
ところが・・・振り返ると誰にも心配されず、気付かれずに、マイクロバスは私を置き去りにして走り去っていました。
まだ佐渡のことすら何にも知らない、知り合いもいない。もちろんお金など持っていませんでした。あてもなく両手にその「ガンガラ」を持って、とぼとぼと50キロ以上離れた真野大小への帰り道を歩き始めるしかありませんでした。
この試練によって佐渡で暮らすことの覚悟とともに、共同生活の孤独感、人間不信というトラウマを自らで克服していかねばならない、乗り越えて行かなくてはならないという使命を学ばせていただいた出来事でした。


【1980年3月23日 田耕氏との対峙】

映画『ざ・鬼太鼓座』を撮り終えた後に、主宰者である田耕氏が突然、映画を撮り直すということを言い始めました。映画撮影で疲弊し切っていた鬼太鼓座の座員達は公演を主体にした活動を求めて、1980年3月23日に中野の鬼太鼓座東京事務所に全員集まり、田耕氏と対峙することになりました。

『映画撮りなおしには参加の意志がありません。私たちは現在の公演活動を軸とした鬼太鼓座の活動を充実させていくことに力を合わせていきます。田耕様 座員一同』

結局、このことが直接のきっかけとなって、田耕氏と座員たちは袂を分つことになりました。

それからまもなく、1980年(昭和55年)の6月5日に小木町民体育館、6月15日に両津市民会館で鬼太鼓座は公演を行っています。公演のチラシの裏には「鬼太鼓座」映画化決定!(松竹・朝日放送・鬼太鼓座)松竹系全国公開 監督 加藤泰、脚本 仲倉重郎 美術 横尾忠則 撮影 丸山圭司 音楽 一柳慧 と書いてありましたが・・・・・
映画は未公開となり、お蔵入りとなってしまいました。
その後、この映画は2016年に「映画監督加藤泰 生誕100年」を記念して、幻の遺作として映画上映され、翌2017年にはDVD化されました。

1981年〜1982年 鬼太鼓座から鼓童へ

【1981年2月18日 株式会社北前船 設立】

1981年の年明けとともに新たなグループの名前を全員で話し合い、林英哲氏から提案された「鼓童空海」という言葉の中から、「鼓童」が正式な名称となりました。
そして「鬼太鼓座から鼓童へ」というタイトルをつけて、すでに決まっていた公演を行なっていくことになりました。

食事や衣類などの最低限の共同生活に必要な配給はあったけれど、佐渡の國鬼太鼓座結成時から10年間、全員無給でした。つまり、個人的なお金はまったく持っていませんでした。メンバーたちは30歳になりつつあり、このままではひとり暮らしもできないし、当然ながら、結婚もできない。
初代鼓童代表となった河内敏夫(ハンチョウ)は舞台を下りて演出や運営に専念することになり、株式会社北前船(きたまえせん)を設立し、代表取締役社長にも就任しました。会社設立と同時に、初めて鼓童メンバーたちへの給与の支給がスタートしました。

とはいえ、生活が急に変わったわけではありません。共同生活はそのまま続き、最初の頃は月末に給与が支給されないこともたびたびあったような気がします。それでも私を含めメンバーたちは、ハンチョウ(社長)に文句を言ったことがありませんでした。(たぶん 笑)
とにかく、鼓童グループ全員でこの難局をひとつひとつ切り抜けて、安定した給与体制が確立できるように、「自分たちで何とかしなくてはならない」という意識をひとりひとりが持って日々取り組んでいました。ハンチョウが一番大変だったと思いますが、みんなそれぞれが主体的に、能動的に「やるべきこと」を責任を持って行動しなければならない必然的な環境だったからこそ、何も恐れずに、夢に向かって邁進できたのかもしれないと思っています。

このコロナ禍の困難を乗り越えていくためには、誰かのせい、何かのせいにすることなく、ひとりひとりが責任を持ち、新たなエネルギーを産み出していく原動力そのものが重要な気がしています。


【1981年9月 ベルリンデビューと「入破」 】

鼓童が対外的に創立したのは1981年9月1日です。そして、鼓童としてのデビューが9月9日のベルリン芸術祭になります。私はこの時のツアーには参加しないで国内に残り、公演営業のために全国を行脚していました。この時代は今と違ってインターネットなどもなく、海外との連絡はなかなかできない環境だったので、正直寂しさ、心細さで悶々としていましたが、ベルリンの林英哲さんから絵葉書をいただき、気にかけてくれていることがとても嬉しく、励みになりました。今でもこの絵葉書は大切にしています。
9月9日のコンサートはアンコールの「入破」まで非常にたくさんの喝采を受けたことが書かれていました。

「入破」には新たな領域に入る。新たなスタートをきるという意味があります。
この時の英哲さんからの絵葉書を読み返しつつ、久しぶりに鼓童創立40周年の舞台で太鼓芸能集団 鼓童 代表の船橋裕一郎が演出し、現在の鼓童メンバーが演奏する石井眞木さんの楽曲「入破」を聴くのはとても感慨深いものがありました。


自主制作レコード『鼓童Ⅰ』 (現在は廃盤)

【1981年 自主制作レコード『鼓童Ⅰ』】

自主制作レコードのタイトルは『鼓童I』となりました。
しかし、この自主制作レコード『鼓童I』が私と英哲さんとの最後の仕事になってしまいました。すでに英哲さんは鼓童としてスタートしたベルリン芸術祭の頃から、鼓童を牽引していくことに、かなり悩み、苦しんでおられたことが頂いた絵葉書からも読み取れていました。


【1982年 林英哲氏との別れと葛藤】
そして、林英哲氏は1982年1月末に鼓童を去って行きました。
私は1981年後半に林英哲さんから退座の意思を聞いてから、実は私自身の去就も大いに悩みました。1977年の新宿厚生年金会館小ホールでの英哲さんとハンチョウの津軽三味線に魅了され、影響され、佐渡に渡る決意をした私にとって、英哲さんの退座は本当に辛かった。おそらく私以上にハンチョウが一番辛くて、苦しかったに違いないと思います。人前で弱みや涙なんか見せたことのないハンチョウの、あの時の涙が今でも痛いほど心に残っています。
とはいえ、私も煩悶の日々でした。ハンチョウにも相談したことはありませんでしたが、英哲さんとともに佐渡を離れ、独立に向けて何かお手伝いができないか、と真剣に考え、悩みました。しかし、まだなんの経験値もなかった25歳の私にはその決断はできませんでした。最終的にはハンチョウの鼓童“むら”構想の提案をもとに、鼓童の未来に向けて、自分ができることを模索していこうと、佐渡にとどまる決断をしました。

1983年〜1986年 鼓童

【1983年8月 林英哲氏からいただいた手紙と本】

私が大切にしている本があります。
1983年8月に林英哲さんから頂いた藤原新也著『メメント・モリ』です。

英哲さんは鼓童から独立した直後の過酷な時期だったはずで、鼓童も過酷な時期でありました。そんな時代に頂いた一冊であり、本の最後のページに英哲さんの直筆イラストの孔雀と「寿福」という言葉が寄せられていました。

この年の8月は私が所帯を持った時なので、そのお祝いの書籍だったと思います。

この藤原新也の『メメント・モリ』は衝撃の一冊であり、私の人生のバイブルにもなっています。
当時27歳だった私にはかなりディープなテーマであり、実感として想像できない写真や言葉ばかりでした。「メメント・モリ」=〜死を想え〜
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というコメントとともにニンゲンが犬にむさぼり喰らわれている一枚の写真には今も生きる意味を問われ続けている気がします。
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」

若い頃は「どんな生き方を目指すべきなのか。」などと能天気な自分探しの青春を過ごし、なんら確信を得られないまま時が過ぎていった気がします。ところがこの一冊と出会い、歳をかさねるにつれ、「どんな死に方をしたいのか」と考えるようになり、今までみえなかったことが少しずつみえるようになってきたような気もします。まだまだみえないことばかりではありますが・・・・。

このコロナ禍においてあらためて考えさせられていることは
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、生き甲斐というものにも出会えないのかもしれない。」ということです。


【1984年 写真集『鼓童』出版と岡本太郎さんとの出会い】

写真家・星野小麿さんに多大なるご支援をいただき『鼓童』という豪華な写真集を1984年に出版することができました。この表紙の「鼓童」という力強い文字は岡本太郎さんに揮毫していただいた文字です。このご縁で岡本太郎さんにはシアターアプルの鼓童公演をご鑑賞いただいたことがあります。「岡本太郎さんは公演中、ずっと身体を動かしていた。」というハンチョウの言葉を思い出します。

『鼓童』写真集に岡本太郎氏に揮毫していただいた文字

私は岡本太郎さんの表参道の自宅兼仕事場(現在は岡本太郎記念館)に伺って、岡本太郎さんと打合せをさせていただいたことがあります。揮毫していただいた「鼓童」という題字の最終確認のためでした。
玄関先でベルを鳴らし、ドアが開きました。するとそこに岡本太郎さんが「おぅ!」という感じで両手をあげて待っておられ、私はびっくりして、ひたすら恐縮です、恐縮ですと頭を下げまくった記憶があります。でもそれは有名な岡本太郎さんの蝋人形だったのでした。なつかしい思い出です。この蝋人形は今も岡本太郎記念館で拝見できます。

この写真集では揮毫していただいた「鼓童」の文字だけでなく、下記のメッセージもいただきました。

太鼓を叩くのが好きだ。あの音。生命のリズムそのものという感じ。魂の躍動がそのまま響きとなって宇宙に広がるようで、血が騒ぐ。いわゆる楽器を奏でる気どった技巧ではない。無条件に高鳴る。太古から、南北・東西を問わず、全身をぶつけて響かせてきた夢。
岡本太郎1984年(鼓童写真集より)

「伝統とは創造である」
「世界的であると同時にローカルな新しい伝統」という岡本太郎さんの言葉には勇気づけられました。それは人間としての誇りや自覚を持って、たくましく息づき、「くらし・まなび・つくる」という生命感あふれる場所にこそ、第一級の芸術や芸能が伝統として存在するという啓示でもあると思えたからです。
また、『岡本太郎と太陽の塔』という本にあった重松清氏による下記の文章は、鼓童グループの未来に向けたメッセージのようにも思え、心に残っています。

・・・「過去」をさかのぼる旅は、「始まり」に向かう旅でもある。・・・かつて「未来」だったものが「過去」になり、始まったものが終わっていく連鎖――けれど、生命はまた新たな「始まり」を迎え、新たな「未来」に向かうのだと、教えてくれた。・・・岡本太郎が、新しい時代の「始まり」を生きる次の世代、その次の世代、さらにその次の世代へ託したメッセージだったのではないか。
「未来」とは「過去」を忘れて始まるものではない、そして一つの時代の「未来」は、やがて過去になり、次の「未来」へとバトンを渡していくのだと…
重松清(文面抜粋)

【ONE EARTH TOURのスタートと国内公演営業活動】
1984年に「ONE EARTH TOUR(ワン・アース・ツアー)」と命名されたツアーがスタートしました。海外を半年間もかけて回るツアーでした。しかし、公演がすべて決まっていたわけではありませんでした。これはハンチョウ主導のもとで、いくつか決まっている公演地を起点に海外を移動しながら公演をブッキングしていくという大胆不敵な旅でありました。

撮影:吉田励氏

私はこの期間も国内公演の営業活動のため全国を行脚していました。各学校の芸術鑑賞のご担当の先生をご紹介いただいたり、飛び込みで学校営業をしていたこともあります。また各地域の方々に「実行委員会」を組織していただき、主催公演をお願いしたりしていました。この組織づくりをお願いするにあたり、実行委員会の方々のお家に宿泊させていただき、お酒を飲み交わしながらご支援をお願いしたことも多々ありました。
しかし、この頃はまだあまり「鼓童」のことは知られていない時代でした。電話営業でも「鼓童の青木です」といっても相手からは「はぁ?こんどうさん?」というような返答を度々されていました。地方公演の営業をしながら、もっと「鼓童」の存在を広く知ってもらう必要性を強く感じていました。
東京や大阪、名古屋などの大都市で鼓童の連続公演を模索し始めたのもこの頃でした。とはいえ、東京都内ではそんな簡単に長期で劇場は押さえられないし、主催をしてもらうことはできません。
私はいくつか700人前後の中劇場をあたって交渉しましたが、どの劇場のご担当者も「え?太鼓?うちの劇場はそういうのはやらないよ」というなかなか厳しい反応でした。そんな中、新宿コマ劇場の地下にあった新宿シアターアプルのご担当の方になんとか興味を持っていただくことができ、1984年に初めて8回連続公演が実現し、翌年には12回連続公演と続き、以後1999年頃まで、年末の新宿シアターアプル公演が毎年の恒例となりました。
新宿駅前や劇場前にあるシアターアプル専用の広告大看板に職人の方による手描きの「鼓童公演ビジュアル絵画」が毎年描かれ、鼓童の存在を知らない人でも「なんか面白そうだな」と目に留まり、劇場に足を運んでくれるお客様もたくさんおられました。東京での連続公演には入場者数以上にこのような効果もあったと思っています。

新宿駅前のシアターアプルの広告看板(撮影:山野實氏)

この頃はまだ携帯電話やEメールなどが存在していなかった時代なので、国内ブッキング状況や相談事項などは海外のホテルへの固定電話や手紙、ファクスなどでハンチョウと連絡をとりあっていました。今では考えられない通信環境でした。

1987年〜1989年 激動の時代

【1987年1月 河内敏夫(ハンチョウ)との別れ】

私にとって、林英哲氏の鼓童退座に続いて困窮を極めた出来事はハンチョウの突然の訃報でした。
1986年12月の大阪。その年の最終公演の終了後、打ち上げを終えた後、ハンチョウは手を振って「ちょっと年末年始に海外に行ってくる。それではまた来年」と言って別れたのが最後になってしまいました。
私はこの時、結婚後に生まれた子どもがまだ1歳10ヶ月の頃でした。
家族と自宅でのんびり正月を過ごしていたところに、電話が鳴り響きました。とても辛い電話でした。茫然自失とはこの時のような心境のことなのだと思います。目の前が・・・本当に真っ暗闇になりました。側で無邪気に遊んでいる子どもを見つめながら、何をどうすればいいのか、まったくわからぬまま長い間、時間が止まってしまった感じでした。
この後、どんな行動をとったのか、何をしたのか、正直ほとんど覚えていません。
とにかく、ハンチョウ亡き後、お葬式を終え、予定していたアメリカツアーに向けてなんとか鼓童メンバーたちを送り出しました。そして、ハンチョウが残していった企画段階のアース・セレブレーションの内容や鼓童村の構想図や文面を見つめながら、「いまやるべきことはなんだ、いまできることはなんだ」と必死で考えました。しかし、この壮大な夢を実現するための現実(資金)の問題に直面し、葛藤し、悩み続けました。
鬼太鼓座の創設者の田耕氏をはじめ、ほとんどの方々から「ハンチョウ亡き後、鼓童は続かないだろう」という声を多く聞きました。
私はこの声(噂)が言葉で言い表せないほど、本当に悔しかった。この悔しさと使命がこの時の大きな原動力になった気がします。

長嶋茂雄が好きで「巨人軍は永久に不滅です」という引退セレモニーの言葉にあやかって「鼓童は永久に不滅だ!」と気持ちを奮い立たせて「やるしかない」「前に進むしかない」と恐れずに立ち向かっていったことを思い出します。

2020年に、鼓童が東京ドームで開催された読売巨人軍の試合での応援演奏に関わっているご縁がなんとも嬉しい。

アース・セレブレーションは1年延期せざるを得ませんでしたが、「鼓童スペシャルー追悼 河内敏夫」公演を佐渡・東京・大阪でプロデュースしました。佐渡は城山公園を初めて使用し、アース・セレブレーションの会場としての可能性を感じることができました。

城山公園での「鼓童スペシャル-追悼 河内敏夫」公演(撮影:吉田励氏)

1988年には1年遅れでハンチョウの残していった企画書を菅野敦司らと現実化するために練り直し、1回目から6回目までのアース・セレブレーションの総進行を務めました。この最初の6年間は大雨、台風、雷というお天気の神様が毎年降りかかり、その自然界の様々な対応に苦慮することばかりでしたが、いろんな経験をさせていただいたおかげで、アース・セレブレーションも成長し、今も多くの方々のご支援をいただく中で継続させていただいております。


【1988年 ソニーレコードとの専属契約と太鼓音楽の著作権】
とにかく、鼓童の太鼓音楽をなんとかCDにできないものかといろんなレコード会社に営業のために奔走したのはこの頃です。
世界展開のネットワークを通じて、世界中の各レコード店にポップス・ロックのアーティストたちと並んで「KODO」という名札のあるCD陳列スペースをつくり、販売できるようになることが私の夢でもありました。
この夢は1988年のソニーレコードとの専属契約で実現することができました。

海外出張のときには、必ずタワーレコードやヴァージンレコードなどの店舗に立ち寄り、陳列状況をチェックしていました。ロンドンの大手レコード店で鼓童の衣装を展示して、宣伝してもらったこともあります。LIVE会場では確実にCDは売れますが、「鼓童」を体感していない多くの方々にもCDを通じて、鼓童を知ってもらいたかったのです。

ロンドン・タワーレコードでの「衣装を使ったディスプレイ」(撮影:狩野泰一氏)

その第一弾が「UBU-SUNA」です。このタイトルは現名誉団員の山口幹文の発案でした。

実はこの時代、太鼓グループが作曲する太鼓音楽には、著作権なるものがまだ確立していませんでした。
そこで翌年1989年に著作権管理をするために有限会社音大工(おとだいく)を設立し、このCD「UBU-SUNA」から鼓童メンバーが作曲した太鼓音楽の収録楽曲における著作権登録をJASRACと手続き交渉を開始しました。

1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を取り交わしてから20年後、インターネット配信時代により、音楽業界は急激な変動期と混迷期を迎えていました。各国のCDショップも激減し、閉店しているところが多くなりました。

コロナ禍の社会の中で、これから鼓童の「音源」市場をどのように開拓していくべきか、現在のインターネット配信時代に風穴をあけ、鼓童の真価を発揮するチャンスでもあります。鼓童の独自性、多様性を広く、多くの人たちに届けていき、そして新たな活動の収入源になるようなアイディアと打開策が必要な時代になっています。
いつの時代にも、夢を信じて粘りつよく行動していけば、打開策は必ず見つかると信じています。

 

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画