【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その1:1977年〜1989年/青木孝夫

【はじめに】
2020年に世界中で起こった新型コロナウイルス感染症という未曾有の出来事は、鼓童グループの活動に大切なことを気づかせてくれています。

2021年、鼓童創立40周年の節目に、「初心忘るべからず」「歴史を知らずして未来は語れない」という言葉を噛み締めています。
前身の佐渡の國鬼太鼓座時代から現在の鼓童グループの活動に関わらせていただいている中で、生き抜くチカラを教えてくれた出来事や成長させていただいた出来事などを「来し方行く末」として年代ごとに数回に分け、あらためて思考してみたいと思います。

尚、鬼太鼓座の誕生から2011年までの鼓童の歴史については『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡』(鼓童文化財団著、出版文化社)に詳しく書かれているのでそちらを読んで頂ければ幸いです。
あくまでもこのブログはこの書籍には書かれていない私自身の出来事を通じて、鼓童の歴史の一端を思い返せればと思います。

株式会社北前船 会長 青木孝夫

 

1977年〜1980年 「佐渡の國鬼太鼓座」時代

【1977年 鬼太鼓座 東京公演】
東京で生まれ育った私は、鬼太鼓座の座員で後に初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)の弟と同級生だった関係で、学生の頃から、当時中野区にあった鬼太鼓座東京事務所や、佐渡の真野大小の本拠地を何度か訪問していました。そのようなご縁もあり、お手伝いを兼ねて1977年8月1日(月)新宿厚生年金小ホールで行われた「走る・叩く・踊る 佐渡ノ國鬼太鼓座」の公演を観に行きました。鬼太鼓座東京事務所の主催でした。
ところが驚いたことに自由席のチケットを客席数以上に売ってしまったらしく、客席に入れないお客様がロビーに溢れていました。私は何が起こっているのか、まったく分からず、ただただお客様の苦情の対応に追われ「申し訳ございません」とロビーで謝罪をしていました。つまり、状況が把握できていないままお客様に頭を下げて謝罪することから私の鬼太鼓座、そして鼓童への人生が始まったのでした。
この公演は急遽、予定していた18時30分からの公演の後、20時30分から追加公演を行うこととし、溢れかえったお客様になんとかご理解をいただくことができました。私にはよくわかっていませんでしたが、当時はまだ公演の舞台製作周りのことや、公演を主催するということについて、ほとんど知識のないまま公演を実行した素人集団だったと思われます。その直前の1977年7月、日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で開催された加藤登紀子さんのコンサートに鬼太鼓座が出演して、多くのメディアなどに取り上げられたため、お客様が予想以上に増えてしまったのではないかと推測しています。突然の追加公演にむけては、さぞかし舞台裏の鬼太鼓座メンバーや裏方さんたちも大変な修羅場だったと想像しています。
私はこの公演での林英哲さんやハンチョウの津軽三味線に言葉にできない衝撃を受けました。

初代鼓童代表となる河内敏夫(通称:ハンチョウ)

私の大学生活はのうのうと豊かな暮らしの中にいて、自分が何をしたら日本の将来に希望を抱くことができるのか、まったく見出すことができず、フラフラと行き先に迷っていた時でもありました。
当時20代半ばの彼らは佐渡ヶ島で共同生活をしながら太鼓や芸能の厳しい修業をしていました。給料や保証もない不安定な生活なのに、なんで皆の目が輝いているのだろうか、なんでこんなに感動するのだろうか、訳がわからぬまま、気が付いたら本能的に1979年に佐渡に渡っていました。

私はこの公演のチケットと、音楽評論家の諸井誠氏(1930-2013)の新聞評を保管しておりました。

<1977 年8月 毎日新聞 諸井誠 感想 鬼太鼓座(一部抜粋)>

新鮮さを欠く新作物
相変わらず、トリの曲は秩父屋台囃子。いわゆる馬鹿囃子の傑作である。新旧メンバー交代のせいもあって、この鬼太鼓座の一番の呼物、以前とは感じがガラリと変わった。多少改悪のきらいもあるが、いまだに楽器配置に工夫を重ねていることなど、見上げたもの。曲目前半の終わりは石井作品だが、これは、ネタ割れしていて、新作物としての新鮮味に欠ける。手の組合せを変え、リズムをくずすなど、不規則な要素を加え、また演出に多少石井らしい構成上の工夫が見られたものの、全体として屋台囃子に似過ぎているのだ。ピッチを変えた七人の締太鼓。最弱奏から、各自ズレて入ってくる開始部分だけが印象的。屋台囃子にはない銅羅(どら)の参加が、作曲上からも、演奏上も、決め手に活用されていないのが期待外れ」。もう一息、何かが欲しいところだ。
素人芸めざしても
(櫓のお七)と(鬼剣舞)が踊りの主要演目だが、お七の人形ぶりを踊った女性および黒子たちには、研鑽の跡がみられた。だが、伴奏の三絃は“スカ撥!などの撥さばきに未熟さが見え、尺八ともピッチが合わなくて、若干感興がそがれた。素人芸を標榜するグループとはいえ、永年研鑽を重ねていれば、いつか自然に玄人として評価されるようになるのだから、これは一考を要するところだ。事実、万能型の名手も一、二育っていることだし、鬼太鼓座も、プロにふみ切るタイミングを、いつかつかまねばならないときがくるだろう。
民謡と(佐渡おけさ)の踊りには、津軽三味線同様、ひなびた味が欲しい。近代青年の都会臭が表に出過ぎる甘さがあるのだ。結局、今回一番印象に残ったのは、ふんどし一本の若者二人で打ちまくる(大太鼓)。技と若さを満喫させてくれた。
アマ離脱、考えねば
技と若さ満喫の「大太鼓」

つまり、この頃は鬼太鼓座はまだまだアマチュアの太鼓芸能集団という認識だったということになります。
「佐渡の國鬼太鼓座から鼓童へ」果たしてプロにふみきるタイミングはいつつかんだのだろうか。


【1979年 ガンガラと孤独】
私は1979年23才のときに佐渡に渡り、新人スタッフとして佐渡でロケ中だった加藤泰監督の『ざ・鬼太鼓座』の映画撮影のお手伝いをすることになりました。
ここで、今は笑って思い返せるようになりましたが、のちのち私自身に生き抜くチカラを教えてくれた、と思われる出来事があります。

映画撮影スタッフがよく冬場に使用するブリキ缶に薪をくべ暖をとる「ガンガラ」というものがあります。佐渡の北部、外海府の入川というところまで行き、何もない酷寒の地での撮影が終了しました。私はマイクロバスに乗り込もうとした時、まだおき火の残っているガンガラを「これどうしましょうか」と、ある先輩座員に尋ねました。すると「おき火はそこの海に」と促され、新人の私は初々しく、素直に海岸に捨てに行きました。
ところが・・・振り返ると誰にも心配されず、気付かれずに、マイクロバスは私を置き去りにして走り去っていました。
まだ佐渡のことすら何にも知らない、知り合いもいない。もちろんお金など持っていませんでした。あてもなく両手にその「ガンガラ」を持って、とぼとぼと50キロ以上離れた真野大小への帰り道を歩き始めるしかありませんでした。
この試練によって佐渡で暮らすことの覚悟とともに、共同生活の孤独感、人間不信というトラウマを自らで克服していかねばならない、乗り越えて行かなくてはならないという使命を学ばせていただいた出来事でした。


【1980年3月23日 田耕氏との対峙】

映画『ざ・鬼太鼓座』を撮り終えた後に、主宰者である田耕氏が突然、映画を撮り直すということを言い始めました。映画撮影で疲弊し切っていた鬼太鼓座の座員達は公演を主体にした活動を求めて、1980年3月23日に中野の鬼太鼓座東京事務所に全員集まり、田耕氏と対峙することになりました。

『映画撮りなおしには参加の意志がありません。私たちは現在の公演活動を軸とした鬼太鼓座の活動を充実させていくことに力を合わせていきます。田耕様 座員一同』

結局、このことが直接のきっかけとなって、田耕氏と座員たちは袂を分つことになりました。

それからまもなく、1980年(昭和55年)の6月5日に小木町民体育館、6月15日に両津市民会館で鬼太鼓座は公演を行っています。公演のチラシの裏には「鬼太鼓座」映画化決定!(松竹・朝日放送・鬼太鼓座)松竹系全国公開 監督 加藤泰、脚本 仲倉重郎 美術 横尾忠則 撮影 丸山圭司 音楽 一柳慧 と書いてありましたが・・・・・
映画は未公開となり、お蔵入りとなってしまいました。
その後、この映画は2016年に「映画監督加藤泰 生誕100年」を記念して、幻の遺作として映画上映され、翌2017年にはDVD化されました。

1981年〜1982年 鬼太鼓座から鼓童へ

【1981年2月18日 株式会社北前船 設立】

1981年の年明けとともに新たなグループの名前を全員で話し合い、林英哲氏から提案された「鼓童空海」という言葉の中から、「鼓童」が正式な名称となりました。
そして「鬼太鼓座から鼓童へ」というタイトルをつけて、すでに決まっていた公演を行なっていくことになりました。

食事や衣類などの最低限の共同生活に必要な配給はあったけれど、佐渡の國鬼太鼓座結成時から10年間、全員無給でした。つまり、個人的なお金はまったく持っていませんでした。メンバーたちは30歳になりつつあり、このままではひとり暮らしもできないし、当然ながら、結婚もできない。
初代鼓童代表となった河内敏夫(ハンチョウ)は舞台を下りて演出や運営に専念することになり、株式会社北前船(きたまえせん)を設立し、代表取締役社長にも就任しました。会社設立と同時に、初めて鼓童メンバーたちへの給与の支給がスタートしました。

とはいえ、生活が急に変わったわけではありません。共同生活はそのまま続き、最初の頃は月末に給与が支給されないこともたびたびあったような気がします。それでも私を含めメンバーたちは、ハンチョウ(社長)に文句を言ったことがありませんでした。(たぶん 笑)
とにかく、鼓童グループ全員でこの難局をひとつひとつ切り抜けて、安定した給与体制が確立できるように、「自分たちで何とかしなくてはならない」という意識をひとりひとりが持って日々取り組んでいました。ハンチョウが一番大変だったと思いますが、みんなそれぞれが主体的に、能動的に「やるべきこと」を責任を持って行動しなければならない必然的な環境だったからこそ、何も恐れずに、夢に向かって邁進できたのかもしれないと思っています。

このコロナ禍の困難を乗り越えていくためには、誰かのせい、何かのせいにすることなく、ひとりひとりが責任を持ち、新たなエネルギーを産み出していく原動力そのものが重要な気がしています。


【1981年9月 ベルリンデビューと「入破」 】

鼓童が対外的に創立したのは1981年9月1日です。そして、鼓童としてのデビューが9月9日のベルリン芸術祭になります。私はこの時のツアーには参加しないで国内に残り、公演営業のために全国を行脚していました。この時代は今と違ってインターネットなどもなく、海外との連絡はなかなかできない環境だったので、正直寂しさ、心細さで悶々としていましたが、ベルリンの林英哲さんから絵葉書をいただき、気にかけてくれていることがとても嬉しく、励みになりました。今でもこの絵葉書は大切にしています。
9月9日のコンサートはアンコールの「入破」まで非常にたくさんの喝采を受けたことが書かれていました。

「入破」には新たな領域に入る。新たなスタートをきるという意味があります。
この時の英哲さんからの絵葉書を読み返しつつ、久しぶりに鼓童創立40周年の舞台で太鼓芸能集団 鼓童 代表の船橋裕一郎が演出し、現在の鼓童メンバーが演奏する石井眞木さんの楽曲「入破」を聴くのはとても感慨深いものがありました。


自主制作レコード『鼓童Ⅰ』 (現在は廃盤)

【1981年 自主制作レコード『鼓童Ⅰ』】

自主制作レコードのタイトルは『鼓童I』となりました。
しかし、この自主制作レコード『鼓童I』が私と英哲さんとの最後の仕事になってしまいました。すでに英哲さんは鼓童としてスタートしたベルリン芸術祭の頃から、鼓童を牽引していくことに、かなり悩み、苦しんでおられたことが頂いた絵葉書からも読み取れていました。


【1982年 林英哲氏との別れと葛藤】
そして、林英哲氏は1982年1月末に鼓童を去って行きました。
私は1981年後半に林英哲さんから退座の意思を聞いてから、実は私自身の去就も大いに悩みました。1977年の新宿厚生年金会館小ホールでの英哲さんとハンチョウの津軽三味線に魅了され、影響され、佐渡に渡る決意をした私にとって、英哲さんの退座は本当に辛かった。おそらく私以上にハンチョウが一番辛くて、苦しかったに違いないと思います。人前で弱みや涙なんか見せたことのないハンチョウの、あの時の涙が今でも痛いほど心に残っています。
とはいえ、私も煩悶の日々でした。ハンチョウにも相談したことはありませんでしたが、英哲さんとともに佐渡を離れ、独立に向けて何かお手伝いができないか、と真剣に考え、悩みました。しかし、まだなんの経験値もなかった25歳の私にはその決断はできませんでした。最終的にはハンチョウの鼓童“むら”構想の提案をもとに、鼓童の未来に向けて、自分ができることを模索していこうと、佐渡にとどまる決断をしました。

1983年〜1986年 鼓童

【1983年8月 林英哲氏からいただいた手紙と本】

私が大切にしている本があります。
1983年8月に林英哲さんから頂いた藤原新也著『メメント・モリ』です。

英哲さんは鼓童から独立した直後の過酷な時期だったはずで、鼓童も過酷な時期でありました。そんな時代に頂いた一冊であり、本の最後のページに英哲さんの直筆イラストの孔雀と「寿福」という言葉が寄せられていました。

この年の8月は私が所帯を持った時なので、そのお祝いの書籍だったと思います。

この藤原新也の『メメント・モリ』は衝撃の一冊であり、私の人生のバイブルにもなっています。
当時27歳だった私にはかなりディープなテーマであり、実感として想像できない写真や言葉ばかりでした。「メメント・モリ」=〜死を想え〜
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というコメントとともにニンゲンが犬にむさぼり喰らわれている一枚の写真には今も生きる意味を問われ続けている気がします。
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」

若い頃は「どんな生き方を目指すべきなのか。」などと能天気な自分探しの青春を過ごし、なんら確信を得られないまま時が過ぎていった気がします。ところがこの一冊と出会い、歳をかさねるにつれ、「どんな死に方をしたいのか」と考えるようになり、今までみえなかったことが少しずつみえるようになってきたような気もします。まだまだみえないことばかりではありますが・・・・。

このコロナ禍においてあらためて考えさせられていることは
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、生き甲斐というものにも出会えないのかもしれない。」ということです。


【1984年 写真集『鼓童』出版と岡本太郎さんとの出会い】

写真家・星野小麿さんに多大なるご支援をいただき『鼓童』という豪華な写真集を1984年に出版することができました。この表紙の「鼓童」という力強い文字は岡本太郎さんに揮毫していただいた文字です。このご縁で岡本太郎さんにはシアターアプルの鼓童公演をご鑑賞いただいたことがあります。「岡本太郎さんは公演中、ずっと身体を動かしていた。」というハンチョウの言葉を思い出します。

『鼓童』写真集に岡本太郎氏に揮毫していただいた文字

私は岡本太郎さんの表参道の自宅兼仕事場(現在は岡本太郎記念館)に伺って、岡本太郎さんと打合せをさせていただいたことがあります。揮毫していただいた「鼓童」という題字の最終確認のためでした。
玄関先でベルを鳴らし、ドアが開きました。するとそこに岡本太郎さんが「おぅ!」という感じで両手をあげて待っておられ、私はびっくりして、ひたすら恐縮です、恐縮ですと頭を下げまくった記憶があります。でもそれは有名な岡本太郎さんの蝋人形だったのでした。なつかしい思い出です。この蝋人形は今も岡本太郎記念館で拝見できます。

この写真集では揮毫していただいた「鼓童」の文字だけでなく、下記のメッセージもいただきました。

太鼓を叩くのが好きだ。あの音。生命のリズムそのものという感じ。魂の躍動がそのまま響きとなって宇宙に広がるようで、血が騒ぐ。いわゆる楽器を奏でる気どった技巧ではない。無条件に高鳴る。太古から、南北・東西を問わず、全身をぶつけて響かせてきた夢。
岡本太郎1984年(鼓童写真集より)

「伝統とは創造である」
「世界的であると同時にローカルな新しい伝統」という岡本太郎さんの言葉には勇気づけられました。それは人間としての誇りや自覚を持って、たくましく息づき、「くらし・まなび・つくる」という生命感あふれる場所にこそ、第一級の芸術や芸能が伝統として存在するという啓示でもあると思えたからです。
また、『岡本太郎と太陽の塔』という本にあった重松清氏による下記の文章は、鼓童グループの未来に向けたメッセージのようにも思え、心に残っています。

・・・「過去」をさかのぼる旅は、「始まり」に向かう旅でもある。・・・かつて「未来」だったものが「過去」になり、始まったものが終わっていく連鎖――けれど、生命はまた新たな「始まり」を迎え、新たな「未来」に向かうのだと、教えてくれた。・・・岡本太郎が、新しい時代の「始まり」を生きる次の世代、その次の世代、さらにその次の世代へ託したメッセージだったのではないか。
「未来」とは「過去」を忘れて始まるものではない、そして一つの時代の「未来」は、やがて過去になり、次の「未来」へとバトンを渡していくのだと…
重松清(文面抜粋)

【ONE EARTH TOURのスタートと国内公演営業活動】
1984年に「ONE EARTH TOUR(ワン・アース・ツアー)」と命名されたツアーがスタートしました。海外を半年間もかけて回るツアーでした。しかし、公演がすべて決まっていたわけではありませんでした。これはハンチョウ主導のもとで、いくつか決まっている公演地を起点に海外を移動しながら公演をブッキングしていくという大胆不敵な旅でありました。

撮影:吉田励氏

私はこの期間も国内公演の営業活動のため全国を行脚していました。各学校の芸術鑑賞のご担当の先生をご紹介いただいたり、飛び込みで学校営業をしていたこともあります。また各地域の方々に「実行委員会」を組織していただき、主催公演をお願いしたりしていました。この組織づくりをお願いするにあたり、実行委員会の方々のお家に宿泊させていただき、お酒を飲み交わしながらご支援をお願いしたことも多々ありました。
しかし、この頃はまだあまり「鼓童」のことは知られていない時代でした。電話営業でも「鼓童の青木です」といっても相手からは「はぁ?こんどうさん?」というような返答を度々されていました。地方公演の営業をしながら、もっと「鼓童」の存在を広く知ってもらう必要性を強く感じていました。
東京や大阪、名古屋などの大都市で鼓童の連続公演を模索し始めたのもこの頃でした。とはいえ、東京都内ではそんな簡単に長期で劇場は押さえられないし、主催をしてもらうことはできません。
私はいくつか700人前後の中劇場をあたって交渉しましたが、どの劇場のご担当者も「え?太鼓?うちの劇場はそういうのはやらないよ」というなかなか厳しい反応でした。そんな中、新宿コマ劇場の地下にあった新宿シアターアプルのご担当の方になんとか興味を持っていただくことができ、1984年に初めて8回連続公演が実現し、翌年には12回連続公演と続き、以後1999年頃まで、年末の新宿シアターアプル公演が毎年の恒例となりました。
新宿駅前や劇場前にあるシアターアプル専用の広告大看板に職人の方による手描きの「鼓童公演ビジュアル絵画」が毎年描かれ、鼓童の存在を知らない人でも「なんか面白そうだな」と目に留まり、劇場に足を運んでくれるお客様もたくさんおられました。東京での連続公演には入場者数以上にこのような効果もあったと思っています。

新宿駅前のシアターアプルの広告看板(撮影:山野實氏)

この頃はまだ携帯電話やEメールなどが存在していなかった時代なので、国内ブッキング状況や相談事項などは海外のホテルへの固定電話や手紙、ファクスなどでハンチョウと連絡をとりあっていました。今では考えられない通信環境でした。

1987年〜1989年 激動の時代

【1987年1月 河内敏夫(ハンチョウ)との別れ】

私にとって、林英哲氏の鼓童退座に続いて困窮を極めた出来事はハンチョウの突然の訃報でした。
1986年12月の大阪。その年の最終公演の終了後、打ち上げを終えた後、ハンチョウは手を振って「ちょっと年末年始に海外に行ってくる。それではまた来年」と言って別れたのが最後になってしまいました。
私はこの時、結婚後に生まれた子どもがまだ1歳10ヶ月の頃でした。
家族と自宅でのんびり正月を過ごしていたところに、電話が鳴り響きました。とても辛い電話でした。茫然自失とはこの時のような心境のことなのだと思います。目の前が・・・本当に真っ暗闇になりました。側で無邪気に遊んでいる子どもを見つめながら、何をどうすればいいのか、まったくわからぬまま長い間、時間が止まってしまった感じでした。
この後、どんな行動をとったのか、何をしたのか、正直ほとんど覚えていません。
とにかく、ハンチョウ亡き後、お葬式を終え、予定していたアメリカツアーに向けてなんとか鼓童メンバーたちを送り出しました。そして、ハンチョウが残していった企画段階のアース・セレブレーションの内容や鼓童村の構想図や文面を見つめながら、「いまやるべきことはなんだ、いまできることはなんだ」と必死で考えました。しかし、この壮大な夢を実現するための現実(資金)の問題に直面し、葛藤し、悩み続けました。
鬼太鼓座の創設者の田耕氏をはじめ、ほとんどの方々から「ハンチョウ亡き後、鼓童は続かないだろう」という声を多く聞きました。
私はこの声(噂)が言葉で言い表せないほど、本当に悔しかった。この悔しさと使命がこの時の大きな原動力になった気がします。

長嶋茂雄が好きで「巨人軍は永久に不滅です」という引退セレモニーの言葉にあやかって「鼓童は永久に不滅だ!」と気持ちを奮い立たせて「やるしかない」「前に進むしかない」と恐れずに立ち向かっていったことを思い出します。

2020年に、鼓童が東京ドームで開催された読売巨人軍の試合での応援演奏に関わっているご縁がなんとも嬉しい。

アース・セレブレーションは1年延期せざるを得ませんでしたが、「鼓童スペシャルー追悼 河内敏夫」公演を佐渡・東京・大阪でプロデュースしました。佐渡は城山公園を初めて使用し、アース・セレブレーションの会場としての可能性を感じることができました。

城山公園での「鼓童スペシャル-追悼 河内敏夫」公演(撮影:吉田励氏)

1988年には1年遅れでハンチョウの残していった企画書を菅野敦司らと現実化するために練り直し、1回目から6回目までのアース・セレブレーションの総進行を務めました。この最初の6年間は大雨、台風、雷というお天気の神様が毎年降りかかり、その自然界の様々な対応に苦慮することばかりでしたが、いろんな経験をさせていただいたおかげで、アース・セレブレーションも成長し、今も多くの方々のご支援をいただく中で継続させていただいております。


【1988年 ソニーレコードとの専属契約と太鼓音楽の著作権】
とにかく、鼓童の太鼓音楽をなんとかCDにできないものかといろんなレコード会社に営業のために奔走したのはこの頃です。
世界展開のネットワークを通じて、世界中の各レコード店にポップス・ロックのアーティストたちと並んで「KODO」という名札のあるCD陳列スペースをつくり、販売できるようになることが私の夢でもありました。
この夢は1988年のソニーレコードとの専属契約で実現することができました。

海外出張のときには、必ずタワーレコードやヴァージンレコードなどの店舗に立ち寄り、陳列状況をチェックしていました。ロンドンの大手レコード店で鼓童の衣装を展示して、宣伝してもらったこともあります。LIVE会場では確実にCDは売れますが、「鼓童」を体感していない多くの方々にもCDを通じて、鼓童を知ってもらいたかったのです。

ロンドン・タワーレコードでの「衣装を使ったディスプレイ」(撮影:狩野泰一氏)

その第一弾が「UBU-SUNA」です。このタイトルは現名誉団員の山口幹文の発案でした。

実はこの時代、太鼓グループが作曲する太鼓音楽には、著作権なるものがまだ確立していませんでした。
そこで翌年1989年に著作権管理をするために有限会社音大工(おとだいく)を設立し、このCD「UBU-SUNA」から鼓童メンバーが作曲した太鼓音楽の収録楽曲における著作権登録をJASRACと手続き交渉を開始しました。

1988年にSMJI(Sony Music Japan International)と専属実演家契約を取り交わしてから20年後、インターネット配信時代により、音楽業界は急激な変動期と混迷期を迎えていました。各国のCDショップも激減し、閉店しているところが多くなりました。

コロナ禍の社会の中で、これから鼓童の「音源」市場をどのように開拓していくべきか、現在のインターネット配信時代に風穴をあけ、鼓童の真価を発揮するチャンスでもあります。鼓童の独自性、多様性を広く、多くの人たちに届けていき、そして新たな活動の収入源になるようなアイディアと打開策が必要な時代になっています。
いつの時代にも、夢を信じて粘りつよく行動していけば、打開策は必ず見つかると信じています。

 

【鼓童創立40周年「来し方行く末」】その2:1990年〜2000年/青木孝夫

━2021年、鼓童は創立40周年を迎えます━

鼓童創立40周年記念公演企画