赤嶺隆さんを偲んで/本間康子
私たちの大切な仲間である赤嶺隆さんが3月18日に亡くなって、早いもので5月5日で四十九日を迎えました。
赤嶺さんが鼓童と出会ったのは1984年。鼓童が初めての「ワン・アース・ツアー」でロンドンに行った時でした。
公演会場で、赤嶺さんの存在に気づいたのはハンチョウ(河内敏夫)でした。「一番前の席で目を爛々と輝かせて観に来てくれた日本人がいた。」と言っていたそうです。
赤嶺さん自身はこう語っています。
「初めて鼓童の舞台を見たとき、太鼓の音が私の身体の一番深い部分にどしーんと落ちてくるようでした。その感覚は、異国にいた私のアイデンティティを大きく揺さぶりました。吉利さんがステージに現れて打ち始めると、観客は一気に引き込まれました。『大太鼓』が終わっても、あまりの感動で拍手ができないほどでした」(『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』より)
また、当時鼓童のメンバーでツアーに参加していた富田和明さんが、コベントガーデンで目を閉じて三味線を弾いていて、弾き終わって目を開けた時、そこに赤嶺さんがいたそうです。
鼓童が好きで、鼓童で働きたいという思いが募り、公演後にハンチョウに会うと、第一声は「いつから(仕事)始められる?」だったとか。
赤嶺さんは、1986年1月に佐渡にやってきました。
海外公演の交渉等はハンチョウがひとりで切り盛りしており、赤嶺さんの加入により強化が図れると期待がふくらんだのも束の間、1987年の元日、ハンチョウは旅行先のフィリピンで遊泳中に不慮の事故に遭い、戻らぬ人となってしまいました。
絶望的な悲しみを抱える一方で、アメリカツアー出発の日が迫っていました。
葬儀はツアー出発の前日にハンチョウの実家のある東京で営まれ、赤嶺さんは初の海外ツアーマネージャーを、鼓童存亡のかかる危機的状況の中で務めることとなりました。
1987年のワン・アース・ツアー(撮影:2点とも富田和明氏)
以来、事情により鼓童スタッフの立場を離れることになる2008年まで、国内外の公演でツアーマネージャーを務めるかたわら、ワークショップのスタッフや、アース・セレブレーションでの海外ゲストアテンドなど、様々な場面で活躍。
2010年からは海外公演アドバイザーとして、主に海外における鼓童の公演活動をサポートしてくれました。
赤嶺さんが変わらずにやってきてくれたことは、ひとえに「人と人をつなぐ」ということでした。
この機会に、赤嶺さんがかつて鼓童の機関誌に寄せた文章を読み返しました。
そこには、彼の人柄そのもの、そして鼓童への深い愛情があふれていました。
世界各地で多くの方々とのご縁を丁寧に紡いできた赤嶺さん。
機関誌「月刊鼓童」バックナンバーより文章の一部を抜粋し、その一端をご紹介させていただきます。
「タンパの子ども達」 1988年6月号より
大人が失いかけた感受性をもう一度見直してみる、確認する機会を与えてもらいました。
フロリダ州タンパでの公演期間中、小学校の生徒達が鼓童の舞台を見るために劇場に足をはこんでくれたのですが、入って来る子供達を見ていてふと気がついたのは、ごく自然にグループに同化した体の不自由な子供達がいたのです。特に障害を持った子供を優先的に劇場に入れる訳でもなく、かといって遅れて最後にやってくる訳でもない。仲間の子供達と手をつないで入ってくるんですね。体の不自由な人に対して変な先入観もなければ偏見を持っていない。普通にワイワイおしゃべりしながらお互いを助け合っているのがごくあたりまえのようです。
公演後、目の不自由な少女が一人、本当に細い小さな腕で、小さな胸の中に太鼓を抱き込んで、太鼓の皮に頬ずりをするんです。少しだけあっけにとられたりもしたのですが、彼女のしぐさが、けなげで可愛くもあり、また大胆で生き生きとした姿に見えました。彼女にとって切実な欲求の対象となる。“触れる”。そして“確かめる”。という意識を素直に表現したことに共感もしました。またうつむいたまま照れくさそうな笑みを浮かべた少年が、手を差し伸べ握手を求めてきたんです。彼の感動は理屈じゃなくて、キラキラと輝いた感受性そのもののような気がしました。
弱者の中に人間の良質な部分がないとどうしていえるのか、というようなことを考えさせてくれたのが、タンパの子ども達でした。
海外鼓童塾もまた楽し-鼓童塾・北アイルランド編 1991年12月号より
イギリスで開催されたジャパンフェスティバルの要請に応え、鼓童塾を開いてきました。
とくにロンドンから来た人達は、ものすごい期待感を持ってくれていたわけですが、その楽しみにしてくれる気持ちと、こちらの気持ちがピッタりかみあうことができたんですね。それでなんかこう、安心感の中でを落ち着けてすすめることができたんです。終わった後も、みんなで「楽しかった」と佐渡にファックスを送ってくれたり、体験後の反響を見ると、参加した方にとっても思った以上に充実したものであったようで、僕らも喜んでいるんです。
何が……というと、「人とまじわれる」ということだと思うんです。やっぱり、公演の場合は、舞台と客席とはどうしても一線を引かれた世界ですよね。声をかけたりはできないじゃないですか。ワークショップの場合は直接コミュニケーションができる。それが楽しいですよね。フィーリングが通じるということは、ほんとに気持ちの良いことです。それが一番大きかったですね。
違う部屋で、アイルランドの伝統的な太鼓を使ったワークショップもやっていたんです。「ボーラン」という太鼓と「ランバー」という太鼓です。この二つの太鼓は、かたやカトリックかたやプロテスタントという宗教的な背景をもっているんです。宗教紛争は、今もイギリスの大きな問題ですよね。「一緒に演奏したりすることもあるんですか?」ときくと、「NEVER。絶対やらない」と強い調子で断言するんです。「ありえない」って。
ところが……、その後で参加者の交流会があって、出演者が集められた。当然と言えば当然、彼らは始め、見るからにお互いを牽制し合って、隅と隅に遠く離れていました。けれども、僕らが無邪気にいろんなことを質問したりするうちに、両方が段々近寄ってきて….。最終的には、僕らも入って「絶対にありえない」といっていた演奏まで一緒にしてしまったわけなんです。
後からきくと、これは「歴史的な出来事」なんだそうです。
僕らが、変に気を回して緊張していたら、こうはならなかったでしょうね。単純に音楽に対する興味をぶつけたから、自然に一緒になれたんじゃないかと思います。
それぞれの鼓童塾 1998年10月号より
世代も環境もさまざまな参加者が、太鼓を叩くという一つの目的のために日本中、いや世界中から集まって来ます。いろんな人達に出会えるのも鼓童塾の魅力の一つですね。
また、研修生にとっても鼓童塾は、得難い機会になっていると思います。なんの機会かというと、まごごろを修練する場とでもいいましょうか。料理一つとっても、参加者の皆さんにおいしく食べてもらうために心をこめてつくる。何かを聞かれたり頼まれたりしたら精一杯対応する。常に、心をこめること、感謝することを一生懸命考える時間なんですね。鼓童塾というのは、そのことに意識を向けるまたとない機会なんです。(談)
フリートーク 2008年6月号より
いま、沖縄にいます。
沖縄には時間がいっぱいあります。もちろん錯覚でしかありません。が、私の皮膚の中にあるウチナァンチュのDNAも、これを大いに良しとし、喜んでおります。時間があると、私の思いは鼓童と佐渡を駆け巡ります。その時、ふと思うことは、鼓童が佐渡が、私の精神をやすらがせ、生きるための元気と勇気をあたえてくれ、いえば、私のアイデンティにもなっているという気がするのです。鼓童、佐渡、沖縄、この三つの要素の中に自分が自分である由縁というものを発見することができました。
鼓童を通して忘れ得ぬ出会いというものに恵まれました。これらの出会いや出来事の一つ一つが私の血の中に流れております。鼓童での二二年間は幸福でありました。延々と私事を述べてきましたが、最後の一言です。鼓童は、私の宝であり、誇りであります。
それでは、みなさん、またあう日まで。