赤嶺隆さんへのメッセージ

今年3月18日にイギリス在住のスタッフ、赤嶺隆さんが亡くなられました。
赤嶺さんを知る方々、そして同時代を過ごした仲間からメッセージをお寄せいただきました。その一部を、鼓童のメンバーやスタッフのメッセージとともにご紹介させていただきます。

メンバー篇

藤本吉利

赤嶺ちゃんとの思い出〜忘れられないこと

(その1)1987年1月1日、鼓童代表だったハンチョウ(河内敏夫)が事故で亡くなり、東京での葬儀後すぐに北米公演ツアーに旅立った。赤嶺ちゃん、初めてのツアーマネージャーだった。その時、私はツアーの代表責任者になった。とても辛い旅であった。ツアーの途中に彼が私に鼓童をやめたいと言ってきた。私はその時なんと話したかは忘れたが、頑張ってもらいたいというようなことを話したんだと思う。彼がいなければ、このツアーは成立しなかったと思います。

(その2)2000年10月、小澤征爾さんを通してのご依頼で、ボストンシンフォニーホール100周年記念コンサートに私は赤嶺ちゃんと2人だけボストンへ。平胴大太鼓も空輸して、ふんどし姿で大太鼓の演奏をした。これも、彼がいてくれたから出来たこと、忘れられないです。

(その3)1995年、私と容子は鼓童村の近くに我が家を建て、10年間住まわしてもらっていた椿尾の茅葺き屋根の古い家から引越しをした。その時、赤嶺ちゃんに引越し作業の手伝いを頼んだら、快く引き受けてくれて、私と2人して大荷物を運んでくれました。

本当にありがとう。赤嶺ちゃん。いつでもどこでも、本当に心優しいジェントルマンでした。

1987年のワン・アース・ツアー(撮影:富田和明氏)

小島千絵子

シマンチュの 深い情け、熱き思いを持ち イギリス紳士の ウィットと礼儀正しいナイトぶり
丁寧で優しい口調で、人の道理を説いて、幾多の困難なツアーの先頭に立ち、私達を守って導いてくれた人
尽きない思い出。
ありがとう赤嶺ちゃん❣️

(撮影:太田順一氏)

小平一誠

海外ツアーの時や、鼓童村にいらした際にお会いした時、いつも嬉しい気持ちになりました。
穏やかな口調の中にある熱い思い。と同時に、太陽のようなあたたかさ。忘れません。
もっと、一緒にツアーをまわりたかった。もっと沢山お話しを聞きたかった。これからも思いを胸に、太鼓の音を、鼓童の音を、世界中へ届けて参ります。見守っていて下さい!

楽屋でモニターを見つめる赤嶺さん(撮影:西田太郎)

 

石塚充

赤嶺さんからは、鼓童の一員としての心構えも、舞台に立つ者としての覚悟や気概も、社会人としてのマナーも、人間として大切なことや愛情も、ありとあらゆるすべてのことを教えていただきました。
新人の頃から本当にたくさんの言葉をかけていただき、今でもその言葉に背中を押されて頑張れることがたくさんあります。

「僕が本当に素晴らしいなと感じる舞台人は皆、まず人の言葉をきちんと聞ける人なんだよ」
「どんな時でも必ずお客様は待っていますから。それを忘れないで下さいね」
「もっと行けるぞ、怯むな!行けっ!充!!」

いつでも僕たち演奏者のことをいちばんに考えてくれていて、旅先でなにかトラブルがあれば僕たちのために、いつでも烈火のように怒って下さっていた赤嶺さん。
誰よりもお客様のことを大切に思っていて、僕らが少しでも努力を怠ればいつでも厳しい言葉で背中を押して下さっていた赤嶺さん。
若者ににたらふく食べさせるのが大好きで、いつも「僕はこれもこれも全部ひと口だけ食べたいんだよ」と言ってたくさんの料理を注文して下さって、僕たちが食べるところをニコニコ眺めていた赤嶺さん。

僕たちもっともっとがんばります。
いただいたたくさんの言葉と愛情と厳しさは、一生忘れません。

2006年ヨーロッパツアー(撮影:西田太郎)

富田和明さん(1989年までメンバー)

コベントガーデンの石畳の上で正座をして、目を閉じて三味線を弾いていた時、雨粒が頬を叩いて弾くのを止めました。
片付けて建物の下に移動すると、声を掛けてくれましたね。

1984年4月15日、日曜のお昼過ぎ‥‥‥
それが赤嶺くんでした。

それからアパートへ行って、紅茶を頂きながら鼓童がどれくらい好きなのかという話を聞きました。

そんな赤嶺くんが鼓童に入って、旅をしながら楽しい時間をたくさん一緒に過ごしたこと、忘れることができません。
赤嶺くんは、僕がどんな僕になろうと、いつもやさしく包み込んでくれましたね。

本当に、ありがとう。

コベントガーデンで三味線を弾く富田和明さん(写真提供:富田和明氏)

富田さんが初めて会った日の赤嶺さん(撮影:富田和明氏)

 

スタッフ篇

青木孝夫(株式会社北前船 取締役会長)

1984年〜1985年頃のロンドン公演時に「公演会場の一番前の席で目を爛々と輝かせて観に来てくれた日本人がいた。」と、のちのち、鼓童初代代表の河内敏夫(愛称:ハンチョウ)が言っていたことを思い出します。 この日本人とは、当時ロンドンに留学していた英語力堪能な沖縄浦添出身の赤嶺隆さんでした。

このご縁により、ハンチョウがひとりで切り盛りしていた海外公演の交渉等は1986 年より赤嶺さんが制作スタッフに加わってくれて、海外公演の強化を図ることができるようになりました。 さらに、1987年1月のハンチョウの急逝により、海外公演に向けての交渉ごとは赤嶺さんの提案や助言なくしては成り立ちませんでした。

そうして、鼓童を応援してくれている方々との誠意を尽くした人脈づくりやエージェントとの丁寧な交渉ごとなど、愛情深く、コツコツと信頼関係を築いてくれたおかげで 鼓童グループは海外公演ツアーを定着できるようになりました。 それは赤嶺さんの多大なる功績の賜物です。

本当に心から感謝しています。

『コロナ禍』という甚大な試練を乗り越えていくために、 この赤嶺さんの功績(チカラ)を糧にして 鼓童グループが新たな生命力を甦らせていく姿を・・・ 空の上から・・・見届けてもらいたいと・・・心から願っています。

2015年3月のニューヨークでの、僧太鼓の皆さんなど長年の友人と共に撮った写真が、赤嶺さんと私が一緒に写っている最後の1枚になってしまいました。
Akamine san arigatou!!!
A lot of people look up to you forever.

2015年ニューヨークにて。赤嶺さんと青木(右から2人目)

秋元阿実(鼓童文化財団)

2019年春、赤嶺さんと出会ったのは深浦学舎のキッチンでした。

私がオーストラリアから佐渡に移住し、同じ時期イギリスから佐渡に赤嶺さんがいらしていた時でした。
海外から来ている鼓童スタッフ3人がキッチンに集まり、パンが焼けるのを待ちながらコーヒー片手に今まで鼓童のツアーを回ってきた冒険のような素敵な日々について話してくださる時間が朝の日課でした。
2020年、赤嶺さんが私に語ってくれた夢の一つ、ブルージュ(ベルギー)での鼓童と南アフリカの方たちとの共演が実現。目を輝かせ、背中からでも興奮が感じられました。
ツアー中、夜のバーでビール片手に夢の続きを語る姿はまるで佐渡の深浦学舎で経験したあの時の日々のようで、その熱量はキッチンに居たときと何も変わらず、実際に体験できた事は私の中で最も幸せな思い出です。

赤嶺さんが鼓童や私たちに残した功績はこれからも色々なシーンで私たちの力となり、魅了し続けてくれることでしょう。

2020年ヨーロッパツアー。ブルージュでのリハーサル(撮影:秋元阿実)

新井和子(株式会社北前船)

赤嶺さんとの思い出は98年の欧州ツアーと99年の北米ツアーを一緒にまわったことです。
「This is a present for you!」などといって、子供にTシャツをあげちゃったりするので、「数があわなくなるから、ちゃんと報告してください!」など、文句をいったりしながら、大変だったツアーを一緒に旅できたことは私の財産になっています。

赤嶺さんは、会場のクルーや照明さんといった舞台の裏方さんたちに好かれる鼓童メンバーを誇りに思っていました。
自分たちで黙々と準備をして、常に謙虚で、舞台に対して真剣で、そういう人たちの集まりである「鼓童」が大好きでいてくれたのだと思います。

とても著名な方との共演で赤嶺さんと吉利さんとでご挨拶にいった時の話をしてくれたことがありました。
「ご挨拶が終わって、こちらを向いていないその方の背中に向かって、吉利さんは深々と礼をしたんだよ」と。
その話をしてくれた時、赤嶺さんは涙ぐんでいました。

赤嶺さんが好きでいてくれた「鼓童」、大事だと思ってくれていたこと。
なくさぬようにがんばっていきますので、これからも一緒にいてくださいね。

1998年ヨーロッパツアー。野外フェスティバルの会場にて(撮影:今海一樹)

梅垣晶子(株式会社北前船)

赤嶺さんとは、ご病気の宣告される前日まで、毎日のようにスカイプミーティングをしていました。中国や中東、南アフリカなど、鼓童が足を踏み入れてから日が浅い国々をどのように開拓するかということから、これまでの海外公演のお話、最近見た映画や読んだ本など、よもやま話を含め、世界の変遷の中で、鼓童が何を出来るか、ということを赤嶺さんはいつも考えていました。そして、そんな話をするときの赤嶺さんの目は、いつも子供のようにキラキラ輝いていて、真の童だなぁ、と思っていました。

そんな赤嶺さんが急に逝ってしまい、その存在の大きさを思い知らされる日々が今も続いています。残念ながらもう直接、お話することは出来ないですが、赤嶺さんの言葉は今も私の中で生きている、と感じることが多々あります。

何かの選択や判断に迷ったときに、ふと赤嶺さんの言葉が蘇ってきたり、見えなくてもぽんと背中を押してくれたり、そっと進むべきみちを示してくれたり、、、。
赤嶺さん、お話できなくてとっても寂しいですが、これからも、ずっと見守っていて下さいね。

2019年4月、香港にて、現地のエージェントのCKさんと。(撮影:梅垣晶子)

本間康子(鼓童文化財団)

半年違いで鼓童に入り「ほぼ同期」の赤嶺さん。
共に旅したのは国内ツアーが多かったですが、海外のツアーも何度か一緒に回りました。
1996年にキューバとドミニカに特別編成で行った時のことです。
そのツアーでは日本からの移民の方々にお会いする機会がありましたが、なかでも沖縄出身の方と出会った時の赤嶺さんの表情には、格別の思いが込められているように感じました。
そんな中、赤嶺さんから撮ってほしいと頼まれた一枚がこのツーショットです。

(撮影:本間康子)

キューバの旧市街でのデモンストレーション(撮影:赤嶺隆氏)

石原泰彦(鼓童文化財団)

私が、研修所の仕事に携わるようになって25年。道に迷いそうになった時、赤嶺さんはいつも大事な言葉を渡してくださいました。

(赤嶺さんは、直接の研修所のご担当ではありませんでしたが、鼓童塾や映画鑑賞の時間など、折に触れて研修生に向かい合ってくださいました。)

研修所の担当になってまだ日が浅い頃、周りから「鬼軍曹になれ」と言われ、研修生に厳しく向かい合った結果、どんどん距離ができていった時。思い悩む私に赤嶺さんが私にくださったのは、「信念」という言葉でした。そこに信念があるか。そう自らに問いかけながら、研修生に向かい合い続けています。

また、ある時期研修所が乱れ、このままでは稽古もできないと先が見えずにいた時。今度は「水に流す」という言葉をくださいました。前に進むために「ゆるす」ということ。「ただひとつ、方法があるとしたら」と言って、この言葉をくださいました。当時の私には受け止めきれない言葉でしたが、今、もう一度その言葉をかみしめています。

赤嶺さん。これからもいただいた言葉を胸に、鼓童の太鼓の響きを繋いでまいります。空の上でその響きを聞きながら、どうかあの熱く穏やかな目で私たちを見守っていてください。

(撮影:西田太郎)

洲﨑拓郎(株式会社北前船 代表取締役社長)

1997年に舞台を降り、音響の勉強を始めてすぐの翌年、ヨーロッパで2ヶ月ほど学びながら鼓童の野外公演音響のオペレートをする機会を頂きました。右も左も判らない私を、赤嶺さんは応援し続けて下さいました。そしてその後、様々な新しい挑戦にご一緒させて頂きました。 赤嶺さんのお陰で、得がたい多くの体験ができました。赤嶺さんの粘り腰の挑戦魂、人のご縁を大切にする姿勢を学びました。そしていつも「ちばりよ〜」と励ましていただきました。

一緒に取り組ませて頂いた最後の挑戦は、南アフリカの方々とのコラボレーション。2020年にベルギーでの共演は実現しましたが、アース・セレブレーションへの招聘は新型コロナ禍の影響を受け、まだ実現できていません。宿題を預かったと感じています。いつか必ず実現させましょう。 赤嶺さんから最後に頂いたメールも「ちばりよ〜」で結ばれていました。いつか空の上で再会できたときに、いつものように冗談を言い合いながら「頑張りましたよ」と報告出来ることを楽しみにしています。

2020年ベルギー、ブルージュのホテルにて(撮影:洲﨑拓郎)

 

島崎信(鼓童文化財団 特別顧問)

たかしが逝った。赤嶺隆君が亡くなった。
あまりにも突然に。あまりにも急に。
あまりにも足早に。どうしてそんなに先を急いだのだろう。
失なったことは大きく、悔しい、残念だ。
私にとって大切な友の一人だった。

沖縄に居を移して、お父上の介護の為に鼓童を辞めると聞いて、私は「全体会議」の皆の前で、ごく自然と思いの丈が声となった。 「鼓童は君が辞めるといっても手放さない。沖縄に住んでいても君との縁は細い一本の糸ででも結び続けていたい。そして、いづれは又鼓童にもどって来てもらいたい。」これは私の心からの願いだった。
後日、君は鼓童に戻って来てくれた。私は嬉しかった。

君とは佐渡の鼓童村や宿根木だけではなく、沖縄でも、ロンドンでも、エジンバラでも、そして東京でも実り多い時間を共にすることが出来て幸せだった。 鼓童の海外での活動の根底を組立て支えてくれた努力に、何も報いることが出来なかったことは残念だった。

大切な友人を失ったが、私の心の中には、温厚で、控え目で、細やかな気配りを、にこやかな笑顔でみせてくれている、赤嶺隆君がいつも居てくれるのは嬉しいことだ。

2004年新年の集合写真。赤嶺さんの3人後ろが島崎信氏(撮影:田中文太郎氏)

 

熊田勝博さん(照明家)

海外公演のCueシートの翻訳を、お願いした時のことです。
きっかけの最後に  …〈間〉(間合いの間です) と書いたところ

『そのまま〈MA〉と訳しておきました。』

『日本の、鼓童の、〈間〉というものが、どういう事なのか、どんな表現なのか  オペレーター自身の気持ち、理解が大切なので… 〈MA〉と言う表記で、分かって欲しい。』(大体こんな事でした) との事でした。

〈間〉については丁寧に説明し理解してもらった様でした。
その後(照明スタッフの)レオ・ジャンクスやマーティンとは
Give〈MA〉
No〈MA〉
で理解し合えました。
表には見えてこない伝えると言うことの、彼の仕事への想いのひとつでは、と思って書いて見ました。 みんなが知らなくても良いとは思いますが、誰かが知って居ても良いのではないでしょうか。 言葉足らずの所は、ご容赦下さい。

赤嶺くんの事、永い間ともに過ごした時間を思うと寂しくも有り残念です。

2001年ヨーロッパツアー。左から2人目が熊田勝博氏(撮影:西田太郎)

平沼仁一さん(1991年までスタッフ)

思い出すのは台風のアース・セレブレーション。雨がポツリポツリ降り出した夜に二人で軽トラに乗って港に行った。すでに前も見えないほどの豪雨。ヘッドライト頼りに借りたスピーカーをなんとか守りたいと車を降り「急げ!」とブルーシートで包もうとした。

二人とも風と雨で四苦八苦していると、最初に笑い出したのが君だった。見上げるとワハハと大声で大笑いしながら風に煽られるブルーシートを君は掴んでいる。

呆れるほどの大雨、手に負えない強風、バサバサと音を立てそのまま飛び立とうするブルーシート、必死に作業をしようとする互いの姿に僕もつられて笑ってしまった。それでもなんとか覆った。ずぶ濡れの帰りの車の中、相変わらず僕らはずっと笑っていた。

「クローズアップでは悲劇でも、ロングショットでは喜劇だ」と言ったのはチャップリンだったな、今まで、あのときほど大笑いしたことはなかった。

あっという間に六十を過ぎたが、一番思い出すのは二十代から三十代前半の佐渡の日々だ、楽しかったなあ。

アカミネ、いろいろとありがとう。

2010年文京シビックホールにて。左から菅野敦司、平沼仁一さん、赤嶺隆さん(撮影:洲﨑拓郎)

 

菅野敦司(鼓童文化財団 専務理事)

赤嶺くんとはハンチョウ(初代鼓童代表・河内敏夫)が、1987年元旦に急逝した危機的状況の中、お互い手探りで草創期の鼓童の海外公演を乗り切って行った言わば、「同志」である。特に、ハンチョウが掲げた「ワン・アース(一つの地球)」という旗印の下、東西冷戦、同時多発テロなど、国境を超えて移動することが困難な状況を乗り越えてツアーを続け、それまでに訪問できなかった地域の人々へ、太鼓の音を届ける作業に一緒に情熱を注ぐことができたことを、何より誇りに思っている。

その赤嶺くんが亡くなる直前まで手がけ、取り組んでいた二つのプロジェクトがある。

一つは、南アフリカの「ヴォイシズ・オブ・サウスアフリカ」のアース・セレブレーションへの招聘と鼓童の南アフリカの公演の実現。もう一つは、彼の故郷沖縄のアーティストの、ブルージュ・フェスティバル(ベルギー)で開かれる、平和と命を祈る「REMEMBER(記憶)」コンサートへの派遣である。どちらにも共通するのが、異文化の遭遇は、多様な価値観の対立ではなく、共存を生み出すことへの信念とその実現に向けた強い意志である。私は今、関係者と連絡を取り合う中、その人たちの言葉を通して、プロジェクトの実現に向けた彼の思いが生き続けていることを確信し、その炎を灯し続けることが、私たち「鼓童」の使命だと考えている。

2020年ロンドン。鼓童が長年お世話になっているマーク・ロス氏への感謝状と記念品の贈呈式にて

赤嶺隆さんを偲んで/本間康子

私たちの大切な仲間である赤嶺隆さんが3月18日に亡くなって、早いもので5月5日で四十九日を迎えました。

赤嶺さんが鼓童と出会ったのは1984年。鼓童が初めての「ワン・アース・ツアー」でロンドンに行った時でした。
公演会場で、赤嶺さんの存在に気づいたのはハンチョウ(河内敏夫)でした。「一番前の席で目を爛々と輝かせて観に来てくれた日本人がいた。」と言っていたそうです。

赤嶺さん自身はこう語っています。
「初めて鼓童の舞台を見たとき、太鼓の音が私の身体の一番深い部分にどしーんと落ちてくるようでした。その感覚は、異国にいた私のアイデンティティを大きく揺さぶりました。吉利さんがステージに現れて打ち始めると、観客は一気に引き込まれました。『大太鼓』が終わっても、あまりの感動で拍手ができないほどでした」(『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』より)

また、当時鼓童のメンバーでツアーに参加していた富田和明さんが、コベントガーデンで目を閉じて三味線を弾いていて、弾き終わって目を開けた時、そこに赤嶺さんがいたそうです。

1984年・ロンドンにて(撮影:富田和明氏)

鼓童が好きで、鼓童で働きたいという思いが募り、公演後にハンチョウに会うと、第一声は「いつから(仕事)始められる?」だったとか。

赤嶺さんは、1986年1月に佐渡にやってきました。

1986年・北田野浦研修所にて(撮影:富田和明氏)

海外公演の交渉等はハンチョウがひとりで切り盛りしており、赤嶺さんの加入により強化が図れると期待がふくらんだのも束の間、1987年の元日、ハンチョウは旅行先のフィリピンで遊泳中に不慮の事故に遭い、戻らぬ人となってしまいました。

絶望的な悲しみを抱える一方で、アメリカツアー出発の日が迫っていました。
葬儀はツアー出発の前日にハンチョウの実家のある東京で営まれ、赤嶺さんは初の海外ツアーマネージャーを、鼓童存亡のかかる危機的状況の中で務めることとなりました。

1987年のワン・アース・ツアー(撮影:2点とも富田和明氏)

以来、事情により鼓童スタッフの立場を離れることになる2008年まで、国内外の公演でツアーマネージャーを務めるかたわら、ワークショップのスタッフや、アース・セレブレーションでの海外ゲストアテンドなど、様々な場面で活躍。

1995年・北米ツアーにて(撮影:狩野泰一氏)

2010年からは海外公演アドバイザーとして、主に海外における鼓童の公演活動をサポートしてくれました。
赤嶺さんが変わらずにやってきてくれたことは、ひとえに「人と人をつなぐ」ということでした。

この機会に、赤嶺さんがかつて鼓童の機関誌に寄せた文章を読み返しました。
そこには、彼の人柄そのもの、そして鼓童への深い愛情があふれていました。
世界各地で多くの方々とのご縁を丁寧に紡いできた赤嶺さん。
機関誌「月刊鼓童」バックナンバーより文章の一部を抜粋し、その一端をご紹介させていただきます。
 

「タンパの子ども達」 1988年6月号より

大人が失いかけた感受性をもう一度見直してみる、確認する機会を与えてもらいました。 

フロリダ州タンパでの公演期間中、小学校の生徒達が鼓童の舞台を見るために劇場に足をはこんでくれたのですが、入って来る子供達を見ていてふと気がついたのは、ごく自然にグループに同化した体の不自由な子供達がいたのです。特に障害を持った子供を優先的に劇場に入れる訳でもなく、かといって遅れて最後にやってくる訳でもない。仲間の子供達と手をつないで入ってくるんですね。体の不自由な人に対して変な先入観もなければ偏見を持っていない。普通にワイワイおしゃべりしながらお互いを助け合っているのがごくあたりまえのようです。

公演後、目の不自由な少女が一人、本当に細い小さな腕で、小さな胸の中に太鼓を抱き込んで、太鼓の皮に頬ずりをするんです。少しだけあっけにとられたりもしたのですが、彼女のしぐさが、けなげで可愛くもあり、また大胆で生き生きとした姿に見えました。彼女にとって切実な欲求の対象となる。“触れる”。そして“確かめる”。という意識を素直に表現したことに共感もしました。またうつむいたまま照れくさそうな笑みを浮かべた少年が、手を差し伸べ握手を求めてきたんです。彼の感動は理屈じゃなくて、キラキラと輝いた感受性そのもののような気がしました。

弱者の中に人間の良質な部分がないとどうしていえるのか、というようなことを考えさせてくれたのが、タンパの子ども達でした。

1992年・北米ツアー中に行われたワークショップにて(撮影:狩野泰一氏)

海外鼓童塾もまた楽し-鼓童塾・北アイルランド編 1991年12月号より

イギリスで開催されたジャパンフェスティバルの要請に応え、鼓童塾を開いてきました。

とくにロンドンから来た人達は、ものすごい期待感を持ってくれていたわけですが、その楽しみにしてくれる気持ちと、こちらの気持ちがピッタりかみあうことができたんですね。それでなんかこう、安心感の中でを落ち着けてすすめることができたんです。終わった後も、みんなで「楽しかった」と佐渡にファックスを送ってくれたり、体験後の反響を見ると、参加した方にとっても思った以上に充実したものであったようで、僕らも喜んでいるんです。

何が……というと、「人とまじわれる」ということだと思うんです。やっぱり、公演の場合は、舞台と客席とはどうしても一線を引かれた世界ですよね。声をかけたりはできないじゃないですか。ワークショップの場合は直接コミュニケーションができる。それが楽しいですよね。フィーリングが通じるということは、ほんとに気持ちの良いことです。それが一番大きかったですね。

1991年・鼓童塾-北アイルランド篇

違う部屋で、アイルランドの伝統的な太鼓を使ったワークショップもやっていたんです。「ボーラン」という太鼓と「ランバー」という太鼓です。この二つの太鼓は、かたやカトリックかたやプロテスタントという宗教的な背景をもっているんです。宗教紛争は、今もイギリスの大きな問題ですよね。「一緒に演奏したりすることもあるんですか?」ときくと、「NEVER。絶対やらない」と強い調子で断言するんです。「ありえない」って。

ところが……、その後で参加者の交流会があって、出演者が集められた。当然と言えば当然、彼らは始め、見るからにお互いを牽制し合って、隅と隅に遠く離れていました。けれども、僕らが無邪気にいろんなことを質問したりするうちに、両方が段々近寄ってきて….。最終的には、僕らも入って「絶対にありえない」といっていた演奏まで一緒にしてしまったわけなんです。

後からきくと、これは「歴史的な出来事」なんだそうです。

僕らが、変に気を回して緊張していたら、こうはならなかったでしょうね。単純に音楽に対する興味をぶつけたから、自然に一緒になれたんじゃないかと思います。

大きい太鼓がランバー(奥)小さい太鼓がボーラン(手前)。和太鼓も加わり「歴史的」なセッション

それぞれの鼓童塾 1998年10月号より

世代も環境もさまざまな参加者が、太鼓を叩くという一つの目的のために日本中、いや世界中から集まって来ます。いろんな人達に出会えるのも鼓童塾の魅力の一つですね。 

また、研修生にとっても鼓童塾は、得難い機会になっていると思います。なんの機会かというと、まごごろを修練する場とでもいいましょうか。料理一つとっても、参加者の皆さんにおいしく食べてもらうために心をこめてつくる。何かを聞かれたり頼まれたりしたら精一杯対応する。常に、心をこめること、感謝することを一生懸命考える時間なんですね。鼓童塾というのは、そのことに意識を向けるまたとない機会なんです。(談)

 

フリートーク 2008年6月号より

いま、沖縄にいます。
沖縄には時間がいっぱいあります。もちろん錯覚でしかありません。が、私の皮膚の中にあるウチナァンチュのDNAも、これを大いに良しとし、喜んでおります。時間があると、私の思いは鼓童と佐渡を駆け巡ります。その時、ふと思うことは、鼓童が佐渡が、私の精神をやすらがせ、生きるための元気と勇気をあたえてくれ、いえば、私のアイデンティにもなっているという気がするのです。鼓童、佐渡、沖縄、この三つの要素の中に自分が自分である由縁というものを発見することができました。

鼓童を通して忘れ得ぬ出会いというものに恵まれました。これらの出会いや出来事の一つ一つが私の血の中に流れております。鼓童での二二年間は幸福でありました。延々と私事を述べてきましたが、最後の一言です。鼓童は、私の宝であり、誇りであります。

それでは、みなさん、またあう日まで。

2011年、沖縄を訪問した洲﨑拓郎・純子夫妻とともに