山野實さんを偲んで/青木孝夫

1982年、大井良明・キヨ子の結婚披露宴にて。 発起人として挨拶する青木孝夫。(山野さんのアルバムより)

私が鬼太鼓座東京事務所でお手伝いをしていた1978年頃、当時の鬼太鼓座メンバーたちと皇居外苑をランニングしたことがあります。オリンピックのマラソン選手だった山田敬三さんや山野實さんも一緒でした。

これが私と山野さんとの最初の出会いだったかもしれません。しかし、マラソンが苦手だった私は・・・この時のこと、ほとんど覚えていないのです。

この頃から山野さんはいつも当時の鬼太鼓座、そして現在の鼓童のことを愛情深く応援してくれていました。
1979年頃から鬼太鼓座のスタッフのお手伝いをさせてもらってからは、世間知らずで青二才な私の仕事の対応などについて、いつも厳しい叱咤激励をいただいておりました。絶えず鼓童グループの未来を気にかけ、お客様目線での厳しいご指摘を多々いただき続けておりました。それから数十年、私は山野さんに褒められたことはあまりなかったような気がします。

しかし、思い返すと2度ほど、山野さんに褒められて、嬉しかったことがあります。

一つ目は、2006年鼓童結成25周年記念『アマテラス』公演で坂東玉三郎さんとの共演作を実現できた時でした。
「よく頑張ったな。大変だったろう。これご褒美だよ。少しゆっくり休んで世界一周の旅でも行ってきなさい」とピースボートの世界一周の旅のパンレットが入っていた封筒を手渡されたことがあります。
残念ながら、パンフレットを眺めて夢心地の気分にさせていただいただけでしたが・・・(笑)  

とても 嬉しかった。

二つ目は、2010年の『うぶすな』公演をご覧いただいた後のお手紙です。

お元気ですか?

今年の鼓童は勿論、沢山のコンサート、演劇などを見聴きましたが ”うぶすな公演” がやはり一番心に残っています。来年の公演を楽しみにしています。もうスケジュールは決まってます? 周辺の友人、知人から心待ちしていますの声が沢山寄せられています。

寒くなりました ご自愛、ご活躍を! 11/8 山野實

・・・とても勇気づけられました。

2011年は鼓童結成30周年の年でした。この30周年を記念して「鼓童結褒賞(ゆいほうしょう)」というものを創設しました。この賞は長年にわたり鼓童グループの活動全般に多大な貢献をしてくださった人或いは団体を対象とし、鼓童グループからの感謝の気持ちをお伝えするという趣旨の賞です。鼓童メンバーからの推薦により授賞者を選定し、感謝状と、鼓童グループ全員で力を一つに合わせて制作した記念品をお贈りさせていただくことになりました。その記念すべき第一回目の授賞者は山野實さんに受けていただき、鼓童グループからの感謝の思いをお伝えさせていただくことができました。

皆が名前を色々の糸で刺して、大井キヨ子が作品に仕上げた「刺し子のタペストリー」を鼓童結褒賞の記念品として贈呈。

それともう一つこの年に「鼓童30周年 鼓童佐渡一周駅伝」というものを開催しました。鼓童メンバー全員がタスキをつなぎ、(「佐渡一周」とまではいきませんでしたが)南佐渡を一周するという企画でした。もちろん、この記念すべき駅伝には山野さんにもご参加いただきました。

 

そして、この年の11月に、下記のお手紙をいただきました。

1981年鼓童結成当時のこと、そして30周年、いつも鼓童グループのことを心配して下さっていた山野さんの思いが綴られているので、そのままお伝えさせていただきます。

寒い日を如何お過ごしですか?
年末とかは さぞお忙しいことでしょう。

先日は素晴らしい記念品をいただき、心から嬉しく感激しました。
ありがとうございました。

それにしても30周年、長いような短いような不思議な感覚であの会場にいました。

1981年ヨーロッパに出発するハンチョウと鼓童メンバーを空港で見送った折、ハンチョウが私達は全力で頑張ってくるから佐渡で留守を守る者たちをよろしくお願いしますと緊張した顔で話をされたことが忘れることは出来ず現在に至っています。
古い日誌によれば空港で見送ったのが8/31、その3日後に「佐渡でお祝いの何か!をやりましょう」と電話のあったことが記録されています。
当時は“お祝い”といっても“走る”ことしかなく、9/14 鼓童発足記念マラソンとなりました。フルマラソンとなりキヨ子と私だけが走ることになり、玄関前に太鼓を置き、スタート。ゆっくり走ろうと決め、別々のコースを走りました。今後、鼓童はどうなっていくのか、どうすればいいのか、など私なりに考えることが多々あり、途中何度も休み、海、山を眺めながら想いをヨーロッパツアー組の将来と佐渡に残っている者達を案じていました。

山野さんのアルバムより。食堂の黒板に書かれたランニングタイム。 (キヨ子の走ったコースはおそらく50km以上)

それから30年。先日の駅伝、歩きながら、今までのこと、これからのことなど考えていました。

鼓童メンバーにとって今回の駅伝は・・・・一本のタスキを受けたら全力で自分の受持区間を走り、次のランナーへつなぐという単純な行動だが、仕事も舞台も同じ大切なことを、間違いなく、次の世代につなぐということと思います。あの日走ったことの意味がいつか有意義なことだったと気づいてくれることを心から願って雨の中を歩いていました。

鼓童のみなさんの結束と活躍を期待しています。そして、少しでもご協力すべく努力をしたいと思っています。

又いつか、ご自愛を 11/22 山野實

1981年8月31日、ベルリンへ出発するメンバーを成田空港で見送り。その後100冊を優に超えることになる、山野さんの「鼓童のアルバム」の第1冊目の最初のページに貼られています。
左から(敬称略)近藤克次、河内敏夫、山口経生、山野美樹子(山野さんのお嬢さん)、風間正文、富田和明。

 

山野さんのアルバムより。フルマラソン後の写真と、鼓童から贈られた「完走賞」。
日付や数字もカレンダーなどから切り抜いてきたり、工夫がこらされていました。

 

私の記録では山野さんからいただいた2014年8月27日付のお手紙が最後になってしまいました。

先日古い写真を整理していたら、こんな写真が・・・・

有楽町駅ホームから写したもの・・・

このシーンを知っている人はおそらくもういないのではないかな。

今の人達がこの写真を見たら・・???でしょうね。

この写真は有楽町の読売ホールでの『佐渡の国 鬼太鼓座 東京公演』のものでした。1981年4月24日から28日まで6回公演でした。

この公演が「佐渡の国鬼太鼓座」としての最後の東京公演だったかもしれません。

山野さんの収集記録には、すでに私の脳裏から消え失せてしまった大切な思い出が蘇ってくることがしばしばありました。

山野さん 長い間、本当にありがとうございました。

 

山野實(やまのみのる)さん

鼓童の前身の「佐渡の國鬼太鼓座」の草創期に、マラソンが縁で出会う。
以来、佐渡はもとより公演先などに神出鬼没に現れて、鼓童を見守り続けてくださいました。2024年10月4日、90歳でご逝去。