追悼・山野實さん

前身の「佐渡の國鬼太鼓座」時代からの長きにわたり、鼓童を見守り続けてくださった山野實(やまの・みのる)さんが本年10月4日、90歳でご逝去されました。
ご冥福をお祈りするとともに、鼓童一同、感謝の思いをそれぞれに紡ぎました。(構成:本間康子)

「鼓童結褒賞」は、長年にわたり鼓童グループの活動全般に多大な貢献をしてくださった人或いは団体を対象とし、鼓童グループからの感謝の気持ちをお伝えするという趣旨の賞です。
鼓童結成30周年を記念して、2011年に創設しました。
記念すべき第1回の受賞者は山野實さん。皆が自身の名前を刺し、大井キヨ子が作品に仕上げた刺し子のタペストリーをお贈りしました。(東京・青山劇場のロビーで行った「鼓童結成30周年記念レセプション」にて)

新井和子

山野さんとの思い出はなんといっても90年代、新宿・シアターアプルでの連続公演。

山野さんはたくさんのチケットを売ってくださって、そのお客様の顔が全部わかっていて、毎日ロビーにたって、来てくださったお客様にご挨拶しては、鼓童の公演を楽しめたか心をつくしていらっしゃいました。大事な大太鼓の場面で、記録をお願いしたカメラマンのシャッター音が響いてしまった時には、それはもう厳しく叱られました。それでも、翌日にはまた声をかけてくださいます。私が子供ができて、現場を離れてからも、家族のことを気にかけてくださる心優しいお便りをたくさんいただきました。愛情溢れる山野さん。これからも鼓童を見守っていてくださいね。

1999年12月、シアターアプル公演の打ち上げにて。右から齊藤栄一、山野さん、藤本吉利、ハンチョウ(鼓童初代代表・故 河内敏夫)の母・河内寿美子様、風間正文(当時 舞台監督)、山口幹文。山野さんの胸ポケットからのぞいているのは「大入袋」。

見留知弘

山野さんとの出会いは、
1988年 第1回のアース・セレブレーションでした。

私は太鼓教室に参加していて、どこで聞きつけたのか、
私を見つけて、「うち」に入りたいんだって? って話しかけられ、
お話ししたのが最初の出会いでした。
その時には、てっきり鼓童の方だと思っていました。(笑)

その年の12月、今は無き新宿のシアターアプルにて、
連続公演が行われている時に、私も毎日通って挟み込みと、
パンフレットをお客様にお渡しするお手伝いをしに通っていまして、
同じく山野さんも毎日いらっしゃり、お客様をお出迎えしていました。

そして翌年に研修生になって、まだそんなに月日が経っていない頃、
突然研修所に山野さんがやって来られて、驚いた記憶があります。
のちに山野さんは、鼓童の人ではないと知りました!(笑)

メンバーになってからは、公演会場や、海外ツアーへの出国、帰国時には、
必ず成田空港に出迎えてくださり、写真を撮るのが恒例でした。
鬼太鼓座の頃や、鼓童の初期には、山野さんが記録してくださった写真は、
大切な宝物をたくさん残してくださいました。

そして恒例の握手! 斜め下から手を差し出してくる仕草は、山野さんの証!
いつも刺子の半纏を着て、どこにでも現れるのが山野さん!
演奏について、感想を伝えてくださり、最後には頑張れよ!の一言。

それが当たり前だった風景が、数年前からみられなくなり、
訃報の知らせを聞き、思いを寄せていました。
今までたくさんの思い出をいただき、有難うございました。
これからも、そらのうえから、見守ってください!

 

山中津久美

「やあ!元気?」
と手のひらをこっちに向け上に上げて軽く挨拶する。
そんな光景が先ず目に浮かぶ。
今でも振り返ったらそこに立っていそうな感覚。

全国各地の鼓童公演にひょっこり現れて、
「じゃあ!またな。」
と来た時と同じ仕草で帰っていく。

▶▶▶いくつなの?歳??
フットワークの軽さから、いつも年齢を考えていた。

佇まいはありのまま。
山野さんらしいと思えることがほとんどだ。
ハンチング帽にズボンとTシャツ(冬はトレーナー)に、
刺し子をあしらった半纏を着たファッションが定番。
いつも手にはカメラと巾着袋を持っていた。

さてさて・・・ブログを書く段階になって、
山野さんとの思い出を、遠い記憶の彼方から呼び起こす。
なかなかその光景が少ない。

「なにやってんだよ。」
とお叱りの声が天から届きそうだ。

古いパソコンで「山野さん」と検索したら、
結褒賞の時の資料が出てきた。
ほかには鼓童公演招待者の名前一覧など。
そうかコミュニケーションツールは電話と手紙のみ。
なにかの手掛かりがほしくても、PCにはほとんどない。

一番には鼓童メンバーのことが大好きで、
鼓童を古くから応援してきた方だ。
鼓童に入ると「この方はだれ?」と思わされるが、
鼓童メンバーになったら「山野さ〜ん。」と声を掛け、
誰もが不思議がらず受け入れる。

鼓童ファンとも、いつも誰かと仲良くなっている。
ネットワークの軽さとつながりの深さは超一流。
お便りは欠かしたことがないほど筆マメで、
丸文字のかわいらしい字が印象的。
断片的な記憶でも、
山野さんらしい思い出に浸っている。

2011年「結褒賞」贈呈へのお礼状

洲﨑拓郎

「元気か?」と、すこし半身に構えられ、握手の手を差し伸べてくださる山野さん。いまも鮮明に目に浮かびます。

36年前当時、鼓童の拠点であった真野町から、北へ車で1時間以上も離れた研修所へ、ひょっこり現れて写真を撮って下さいました。

海外ツアーの出国や帰国時には、いつも空港で温かく見送り、迎えてくださいました。太鼓打ちから音響スタッフに仕事を変えて、たどたどしく現場で仕込みをしていたとき、お昼に深川めしをご馳走してくださいました。

毎年のように新人が加わり、また離れていくメンバーやスタッフがいる鼓童を、すこし離れたところからずっと見守ってくださいました。山野さんの目には、そんな変わっていく鼓童が、どんな風に写っていたんでしょう。応援し、叱ってくださいました。きっと今も、どこからか温かく、すこしもどかしい思いもされながら、変わらず見つめてくださっているような気がします。

もう握手させていただくことは叶いませんが、「元気です!」と答え続けられるよう、こちらで頑張り続けていきたいと思います。

菅野敦司

山野さんとの初めての出会いは、いつだったのかはっきりと記憶にありません。

それだけ、外部の方でありながら鼓童の空気に馴染んでいる、そんな存在だったのだと思います。

山野さんからは鬼太鼓座との出会いや、私が鼓童に入る以前のグループの話や人脈について伺うことができたのは、本当に貴重な時間でした。

各地の公演会場にひょこっと現れ、その土地の人たちと鼓童との縁を、特技の筆まめさで繋いでくださり、その人の輪は、今も鼓童の財産となっています。

そして、個人的にも人との縁を大切にすることを、厳しく教えていただきました。

本当にありがとうございました。

山野さんとも親しく、長年鼓童の唄の指導をしていただいた岡田京子先生と(中央右)。
岡田先生が2018年に鼓童結褒賞の受賞者となり、贈呈式を文京シビックホールの楽屋で行った。
菅野敦司(左)、青木孝夫(右)

齊藤栄一

いつ、どこで、どんなタイミングで自己紹介したのか全く覚えていない。

けれど山野さんはいつもそこに居てくれた。

会うといつも右手を差し出し「元気か?」と言ってギュッと握手。

国鉄全線制覇するんだと青春18きっぷを使って各駅停車に乗って、遠く離れた公演地の楽屋にフワッと現れたり、海外ツアー出発の成田には必ず見送りに。

そして当然のごとく帰国時の到着ゲートにて「お疲れさま。ギュッ」と握手。

本当にあれやこれやと数えきれないほど沢山お世話になってしまったけど、一番ありがたかったのは、「しっかりやれよ!」「油断しちゃだめだぞ!」などと、常に叱咤激励して頂いたこと。

鼓童に対して大切な「お叱り」を下さり、強く熱く優しく応援して頂き見守って下さったこと。本当にありがとうございました。

 

本間康子

山野さんとの思い出はたくさんありますが、1986年から1999年まで、私は毎年年末に新宿・歌舞伎町のシアターアプルで行っていた「十二月公演」のチケット係を務めていました。その時がもっとも濃いおつきあいをさせていただいていたかもしれません。

新宿コマ劇場の地下にあったシアターアプルは、客席数600ほどの小劇場で、鼓童は毎年10日間の連続公演を行っていました。「鼓童を聴かないと年が暮れない」とベートーベンの「第九」のように楽しみにしてくださる方がいるような、年末恒例の一大イベントでした。

山野さんから毎日のように届くチケットの予約連絡は、手書きのファクスでした。
イラストが添えてあったり、山野さんの独特な丸文字が踊っている楽しいものでしたが、時々「ここ、なんて書いてある?」と数人で解読にあたることもありました。
ハガキや封書をくださる時には、珍しい切手が何枚か貼り合わせてあり、その切手を見るのが楽しみでした。

季節と手紙の内容に合わせて。「梅と桜」

連続公演の期間中、劇場に来られない日はなかったのではないでしょうか。
山野さんを「鼓童の社長さん」だと思い込んでいたお客様もおられました。
劇場に到着した山野さんは、客席案内のスタッフの方々や受付の机に立つ私に、ほぼ必ずと言ってよいほど「ボンタンアメ」の箱をポケットから取り出して、少しいたずらげな表情をして1粒づつくれました。不思議によく覚えています。

千秋楽の日にはミーティングの時間から入られて、舞台上に集まったメンバーの集合写真を撮るのが恒例行事にもなっていました。

その後、2006年から2013年にかけて、鼓童結成25周年を機に、山野さんが撮りためた鼓童のスナップ写真を機関誌で紹介する「山野さんのアルバム拝見」という不定期連載の担当になり、千葉市の山野さんのご自宅に何度か伺わせていただきました。

部屋の壁一面に並ぶアルバムには、写真はもちろんですが、公演のチケットや列車の切符、旅先で入ったお店の割り箸袋というようなものが丁寧に貼られていました。山野さんご自身も「昔のことでもう忘れちゃったよ」と言いながら、アルバムを開くと当時のことがだんだん蘇ってきて、私も一緒に追体験させていただく。そんな楽しい時間でした。
山野さんから聞かせていただいた数々のエピソードは、2011年に出版した『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』を編集する際の、大きな助けとなりました。

山野さん、本当にありがとうございました。
今ごろは天国で、沢山のお知り合いの皆様との再会を喜ばれていることでしょう。どうぞ皆様によろしくお伝えください。

2006年、山野さんのご自宅のアルバムの前で。

メラニー・テイラー

2007年に鼓童のスタッフになって、事務所でもツアー現場でも山野さんのお名前をよく聞きました。よく鼓童に電話や素敵な字の手書きFAXが送られてきて、鼓童の公演の口コミ宣伝とチケットの手配をされていて、パワフルな応援に感動しました。プレイヤーとスタッフの名前を一人一人覚えて、みんなのことを見守っていました。

劇場やECで会うたびに、ニュージーランド(NZ)へヨットで行ったときの話、鼓童の昔の話や大切な方についての話をたくさん聞かせてくださいました。NZまでのヨットの旅について、フォトアルバムを作ってプレゼントしていただきました。あまりにも印象に残った人生最大の冒険で、NZが大好きになったそうです。私の母国についてよく二人で話が盛り上がって、私の両親まで気にかけて頂きました。

山野さんが乗船された「海王丸」の帆布。小さく切ってコースターとしてプレゼントしてくださった。

2013年に佐渡と日本を離れてもずっと、コロナのパンデミックの発生まで来日するときは毎回山野さんに会いに行きました。「また会えましたね」 と毎回嬉しく挨拶していました。そして「また会いましょう」と 手を振って別れました。

山野さんに「頼むよ」「がんばれよ」 とよく言われてきました。成田空港の送り迎えもたくさんの手紙と写真、話も、一生忘れません。鼓童の親友で最強のサポーターの山野さんと、たくさんのカフェタイムを過ごせたのは嬉しい限りです。

山野さんのエピソードと写真が載っている鼓童の本『いのちもやして、たたけよ。』を、丁寧に大切に英訳し続けます。

ご冥福をお祈り申し上げます。