山田敬蔵さんを偲んで/藤本吉利

4月2日に山田敬蔵さんが92歳で亡くなられたと知った。

秋田魁新報に掲載されていたこのお写真は、何歳の時の写真だろうか。私が敬蔵さんのお顔を思い浮かべるとしたら、まさにこの通りのお顔である。誠実で爽やかで、とっても親しみ深いお人柄だった。

(写真:秋田魁新報 https://www.sakigake.jp/news/photo/20200423AK0023/1/

私は、山田さんのことを尊敬と親しみを込めて、敬蔵さんと呼ばせていただいていた。敬蔵さんとの出会いは、「佐渡の國 鬼太鼓座」の初期、1974年であったと思う。当時、私たちは体力と精神力を鍛えるために42.195kmのフルマラソンを行なっていて、アメリカのボストンマラソに参加することを目指していた。それで、力試しとレースを経験するために、毎年2月に行われている青梅マラソン(30km)に73年と74年の2回参加した。この青梅マラソンでの出会いがきっかけとなり、佐渡にマラソン指導に来ていただくようになった。

(先頭を走る敬蔵さん)

敬蔵さんは1952年ヘルシンキオリンピックのマラソン代表選手で、53年ボストンマラソンで優勝されている名ランナーだった。

(写真:なんでも鑑定団お宝情報局2 http://blog.livedoor.jp/otakarajoho/archives/21381055.html

そして、1975年4月、私たちは敬蔵さんと共にボストンマラソンを走り、海外デビューした。この時、敬蔵さんは47歳、私は24歳だった。ボストンマラソンに参加するということで、田さんにスカウトされて座員になった若い元ランナー(鎌田豊数くん、太田厚生くん、風間正文くん)も走ったが、その中で一番先にゴールしたのは敬蔵さんだった。タイムは敬蔵さんもランナー組も2時間30分〜35分であったと記憶する。私のタイムは2時間50分55秒であった。その時の優勝者は、ボストン出身のビル・ロジャース選手で2時間9分55秒だった。

(この写真は1975年ボストンマラソンに出場する時の、ボストンでのトレーニングの様子。「佐渡の國 鬼太鼓座」パンフレットより)

鼓童になってからも、新宿シアターアップル劇場での公演には、毎年観に来てくださり、その後も東京での公演を観に来ていただいていた。吉利くんへと言って、ご祝儀をいただいたこともあった。

佐渡へは、1997年に鼓童研修所マラソン(42.195km)を行なった時に来てくださり、研修生と共に走ってくださった。私も奮起して参加したが、30kmぐらいから脚が棒のようになって、ひたすら歩いてゴールしたか、途中で棄権して車に乗せてもらったのか、思い出せない。

敬蔵さんとの思い出で、こんなこともありました。鼓童の公演ツアー中に、宿泊したホテルで偶然お会いして、翌朝まだ夜が明けない暗い中、敬蔵さんと二人でランニングをしました。その時、敬蔵さんは出会う人に走りながら「オーース」と、ドスの利いた声で挨拶をされるのです。私は走ることに人生をかけられている敬蔵さんの迫力というか、魂の入った声に圧倒され、感動してしまいました。

(写真:読売新聞オンラインhttps://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20200423-OYT1T50275/

敬蔵さんは一線を退かれた後も、市民ランナーとして国内外のレースへの出場を2009年まで続けられ、同年81歳でマラソンからの引退を表明されました。生涯で約340回のフルマラソンを走られたとのこと。本当に偉大な方だと改めて思います。

敬蔵さん、ご指導いただき、そして鼓童を応援していただき、本当に有難うございました。天国では尊敬されていた金栗四三先生や多くの走友の方々と楽しく語り合い、また「オーース」と挨拶をしながら楽しく走り続けてください。あっ、引退を表明されたんでしたね。どうぞ、ごゆっくり、ご自由に!ご冥福をお祈りいたします。

2020年4月29日
藤本吉利

(左から、吉利、ハンチョウ、山田敬蔵さん、ライリー・リーさん、山野實さん/写真提供:山野實さん)