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石塚充インタビュー by ジョニ・ウェルズ
ジョニ・ウェルズ氏が、石塚充にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。
石塚充インタビュー by ジョニ・ウェルズ
鼓童村にて(写真:ジョニ・ウェルズ)
石塚充の父親は太鼓界で先駆的存在である助六太鼓の結成メンバー、兄と妹はプロの太鼓奏者、弟は太鼓職人の見習いである。充は5歳の時に舞台デビュー。しかし、鼓童研修所2年生のとき、太鼓についてそれまでに学んできたことを全て忘れ、ゼロからのスタートを切ることを決意した。
石塚充は、1979年8月6日に東京で太鼓の世界に生まれた。4歳のとき、両親が子どもを育てるのに良い環境だろうと考え、埼玉の山の中腹に一家で引っ越した。父と兄はプロの長唄のの囃子方の打楽器奏者だ。母は太鼓奏者で、弟は東京で太鼓づくりの修行をしている。そして、妹は横浜で太鼓を教えている。
一番古い記憶は、父の部屋から聞こえてくる鼓の音だ。充が初めて舞台で太鼓を演奏したのは5歳のとき。小学生の時は父親が指導していた地元の太鼓グループに参加していたが、当初は親やまわりの大人のすすめではじめただけで、特別自分がやりたいとか、楽しいという気持ちはなかった。
充が中学生になり、学校の民族芸能クラブに入ってその心境が変わった。そこでは、三宅や屋台囃子、鬼剣舞などを稽古した。これまでと違う環境で太鼓を演奏することで自立心が生まれ、太鼓を心から楽しむようになった。中学、高校時代はほぼ毎日太鼓を打っていた。学校の太鼓部だけではなく、家に帰ってからも兄や友達と一緒に太鼓に興じていた。まさに、太鼓漬けの日々を送っていた。音楽の好みは幅広く、学校でアコースティックギターのライブをすることもあった。
父や兄の姿を見て来た自分にとって、太鼓や舞台の世界へ飛び込むことは自然な選択だった。高校2年か3年の時、他の鼓童メンバーと同様、東京の新宿にあったシアターアプルで鼓童の舞台を初めて観た。
屋台囃子(石塚充は前列左)
鼓童の舞台やそのグループの背景は、太鼓という人生を選んだ自分にとって、挑むべき道であると感じた。そして、充は鼓童について調べはじめた。鼓童の研修プログラムに応募することを決意したが、その年の応募期限は過ぎてしまっていた。そのため、他の太鼓関係の仕事を探した。父親の知り合いがフリーの太鼓奏者として活動していたので、付いて回り、裏方として、また演奏者として1年間を過ごした。時々報酬も得た。今振り返ってみると、一年間旅をして良かったと思っている。高校を出てすぐ何も知らないまま鼓童に入るよりも、人生についての視野が広がった。
充は研修所に入ったとき、徹底的な鍛錬を求めていた。厳しさと痛みを予想していたし、もしかしたらそれを望んでさえいたかもしれない。しかし、本物のプロとして舞台に立てるようになるための、世界中の人々にメッセージを伝えられるようになるためのトレーニングと稽古は想像以上に厳しかった。一年目は、できる限り一所懸命に取り組んだ。体力とスタミナを付けるためにトレーニングをし、テクニックを磨き、音楽の曲想をよりよく伝え、演奏でニュアンスを付けられるように稽古に励んだ。そして、プロの舞台人として、また、人として何よりも大切なこと、精神的に強くなるために必要な厳しいトレーニングにも堪えて努力しつづけた。その時まで充は、ただ楽しくて、自分の楽しみのために演奏していた。しかし、それまでのやり方を続けていれば、自分の能力に対して本当に成功できるという自信を持てないと感じた。
それを克服して本当に良い演奏者、“プロ”になるために、そのときまでの自分を全て捨ててしまわなければならない。ゼロからのスタート。二年生の一年間は、そのような意気込みで研修に取り組んだ。
その瞬間から、研修所での経験は全く変わった。きついと思っていた稽古は面白く感じるようになり、自分の太鼓が大幅に上達したと感じた。そして、鼓童の準メンバーとして認められ、すぐに交流学校公演ツアーに参加した。佐渡の辺鄙な場所で凍えながらも汗を流した2年半の後、再び観客の前で太鼓を演奏し、聴いてもらうことは、とても気持ちが良かった。
鼓童メンバーとしての14年間に、充は、手首を使う桶胴太鼓よりも、体全体を使って演奏する平胴太鼓のような大きな太鼓を得意とするようになった。鬼剣舞のような踊りや佐渡の鬼太鼓も好きだし、何曲か作曲もしている。その内最もよく演奏されるのが、「あじゃら」と「また明日」の2曲だ。また、26歳の時から、「鼓童ワン・アース・ツアー」、「鼓童12月公演」、「アース・セレブレーション」等、沢山の舞台の演出を担当してきた。そして、「アマテラス」では坂東玉三郎氏のもと、音楽監督を務めた。
(写真:宮川舞子(左)、岡本隆史(中央・右))
芸術監督・坂東玉三郎氏との作品作りについては、充は、生み出される作品そのものだけではなく、むしろ作品の作り方がこれまでと異なると言う。玉三郎氏は太鼓奏者ではなく、また作曲者でもない立場で、観客としての視点から作品を見ている。そして、決して「こんな音をください」とは言わない。それよりも、「このようにしたら、もっと気持ち良い音になりますよ」という言い方をする。芸術監督は歌舞伎俳優なので、舞台上での感覚や気持ちをどのように表現するかということに関心がある。特別難しい曲を演奏した後に、玉三郎氏は、「こう動きなさい、ああ動きなさい」とは言わず、「今こんな気持ちだったら、その時に自分が自然と気持ちよいと思えるように動きなさい」と言う。それはテクニックの問題ではなく、どのように感情を表現するのか、ということだ。
また、玉三郎氏は鼓童にとって新しいことに挑戦すること、今まで誰も舞台に乗せようと思ったことがないアイディアに対し、抵抗がない。しかし、このように自由がある反面、新しい作品を創造する責任は大きくなっている。玉三郎氏の演出のもと、鼓童は従来の「鼓童ワン・アース・ツアー」を主体とした公演から、「アマテラス」、「伝説」、「神秘」、「永遠」など、作品の幅を広げてきた。そして、これからまだまだ生まれる予定だ。
また、充が何度も出演している「打男」という公演もある。打男のアイデアは、何もない、装飾もない舞台に全くシンプルな衣装、太鼓以外の楽器はほぼ使わないというもので、観客はまるでプライベートな太鼓セッションに聞き耳をたてているような感じがする。ひたすらに太鼓を打って打って打ちまくりその喜びを伝える舞台で、90分の後には観客は演奏者と一緒に走っていたかのような疲労感を感じるに違いない。それは心地よい疲労感だ。充は、「打男」という作品に関わって以来、通常の鼓童公演を難しいと感じなくなった。
演奏者として、充は自分の周りの人々の期待にきちんと応えることを楽しみにしている。そして、演出では、玉三郎氏から学んだことを少しでも舞台上で実践できるようになることを望んでいる。
Photos: Takashi Okamoto
石塚充は、「鼓童ワン・アース・ツアー2015〜永遠」ツアーに参加中。6月10日(水)から15日(金)まで、浅草公会堂での鼓童「打男DADAN2015」公演にも出演いたしました。
「永遠」6〜7月、9〜10月国内ツアー
http://www.kodo.or.jp/news/20150606oet_ja.html
【6〜7月】新潟・神奈川・埼玉・群馬・千葉・大阪・長野・京都・愛媛・広島
【9〜10月】千葉・茨城・宮城・山形・岩手・秋田・静岡・愛知・兵庫・鳥取・山口・福岡・鹿児島
ジョニ・ウェルズ(Johnny Wales)
1953年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学卒業(学士号取得)。1975年に初めて日本を旅行、その際、鼓童の前身である「佐渡の國 鬼太鼓座」に出会う。また文弥人形の師匠である浜田守太郎氏にも出会う。1976年カナダに帰国、鬼太鼓座の初めてのカナダツアーの制作を担当。1977~78年、佐渡に住み文弥人形を学ぶ。それ以来、鬼太鼓座、そして鼓童の仕事にたびたび関わりながら、文弥人形の指導、通訳、翻訳、また舞台照明の仕事に従事。その後、文弥人形の指導、活動をしながら木彫師として鼓童の舞台で使用する面を作成。1987年には The Kodo Beat(英文ニュースレター、2011年春に終刊)の最初の編集者として活躍。写真家、イラストレーター、そして Kodo eNews(英文電子ニュースレター、2013年12月に終刊)やブログ作成にも関わる。現在、ジョニ・ウェルズはフリーランス・イラストレータ、アニメーター、木彫師、人形遣い、そして作家としての肩書を持つ。カナダでは7冊の児童向け作品の挿絵を描き、その中の一冊『Gruntle Piggle Takes Off』(Viking Childrens Books出版)において、1996年、カナダの文学作品賞であるThe Governor General’s Awardの候補となる。1995年より、読売新聞にて、東京についてのイラストによるコラムを連載。現在、佐渡にて妻・智恵子と秋田犬のKyla (カイラ)とともに暮らす。Website: www.johnny-wales.com (英語・日本語)
船橋裕一郎インタビュー by ジョニ・ウェルズ
ジョニ・ウェルズ氏が、船橋裕一郎にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。
船橋裕一郎インタビュー by ジョニ・ウェルズ
船橋裕一郎(写真:ジョニ・ウェルズ)
船橋裕一郎は、1974年5月9日に、サラリーマンの父と病院勤務の母の間に生まれる。神奈川県南部の二宮町出身。6歳上の姉がいる。子供の頃は周囲の盛り上げ役で、サッカーと野球に興じる日々を送っていた。その当時はコマ回しが一大ブームで、コマ回しにも夢中になった。裕一郎が生まれたのは第二次ベビーブームの終わり頃で、どこも子供で溢れかえっていた。小学校には1,000人以上の児童が通っていたため、友達と遊ぶには事欠かなかった。
中学校ではバレーボール部に入部。以来、高校に上がるまでバレーボールに明け暮れる日々を送った。高校は近所にあったものの生徒数が非常に多く、知らない顔に囲まれてどこか浮いているような感じだったと言う。アメリカン・フットボールと茶道という全く異なることを習いながら、遺跡発掘のアルバイトにも通い、とても物憂い3年間をやり過ごした。その後、京都造形芸術大学へと進む。大学では考古学と発掘物の保存を学んだ。発掘を楽しみ、水中考古学にも興味を持ち始めた。スキューバダイビングの免許取得のための準備をしていた時、人生の岐路に差し掛かる。太鼓が人生に登場したのだ。
ある日友人に誘われ、大学に新しく出来た太鼓クラブに顔を出すようになった。10人ぐらいの男女が1週間に数度の活動を始め、「和太鼓悳」というグループ名を背中に入れた法被を作るまでになった。京都の和太鼓奏者から指導を受け、ついには地域のイベントに出演できるほどになった。裕一郎曰く、「当時の私は技術を情熱でカバーしていました。」
大学2年のある日、裕一郎は鼓童のコンサートを観る。「これは一体何だ?!」。鼓童の演奏は見せ方も音も全く違った。鼓童のスタイルはシンプルで真っすぐで、余分な物を削ぎ落としたものだった。そして卒業後、プロの太鼓奏者を目指し鼓童に入ることを考えはじめた。第10回目のアース・セレブレーションを観に佐渡へ渡ったことがあり、全く知らない世界に飛び込むわけではなかった。鼓童と佐渡はとても楽しいように見えた。しかし、それは8月のこと。鼓童の研修生に応募することを決め、次に佐渡へ渡ったのは1月のある日。吹雪の中、荒れる海を渡った。冬の雷を目の当たりにしたのはその時が初めてだった。研修所への入所試験は上手く行き、合格。両親の応援を受けて佐渡へやってきた。
研修所での2年間は、人生を変える経験だったと振り返る。稽古と生活スタイルはとても厳しいものだったが、辞めようと思うことはなかった。一番辛かったのは、遠く京都にいる彼女(現在の妻)と離ればなれになっていることだった。
そして研修所の2年生の時、数人の先輩プレイヤーが佐渡南東部の柿野浦にある研修所に来た。初めて間近で彼等の演奏を聴いたことはいつまでも忘れられない。自分が出す音とは、音量だけではなく質も全く異なり、自分にはそんな音を出すことは無理ではないかと痛感した。この時、今まで太鼓について学んできた全てのことを忘れ、もう一度ゼロからスタートを切ることを決意した。
稽古以外にも、研修生は多種多様な活動に取り組む。農作業、茶道、狂言、様々な物作り。本当に沢山の科目が詰め込まれているので、太鼓の稽古にもっと時間を使えたら良いのに、と思うほどだった。
2年間の研修所生活の後、新しいミレニアムの最初の年に、鼓童への入団を認められた。他の準団員らと共に春の学校交流公演ツアーに参加した。裕一郎は今日まで、研修所で共に過ごした仲間との強い絆を感じている。その後14年間に渡り太鼓や歌、踊りを担当してきた。またアース・セレブレーションの城山コンサートの演出も何度か担当した。
裕一郎は現在、鼓童ワン・アース・ツアーの最新作「永遠」に深く関わっている。坂東玉三郎氏の演出による舞台は「アマテラス」には出演していたが、「伝説」と「神秘」の公演時には学校交流公演ツアーに回っていた。
「伝説」は、鼓童がこれまでに積み重ねてきたものを土台に、新しい作品を織り交ぜたものだった。「神秘」は島根県・石見神楽の蛇舞に取り組む等、日本の伝統的な芸術モチーフを含んでいた。
しかし「永遠」は全てが新しい。演奏される曲の一つ一つがこの舞台のために作られたものだ。1年前に舞台の創作が始まる時、玉三郎氏は作曲や舞台のアイデアを練る際に心に留めておいてほしいことを書き示した。例えば、「季節」、「朝日」等についてである。それから演奏者達は作曲に励み、玉三郎氏に披露した。「永遠」は、玉三郎氏が選んだアイデアを使いながら徐々に形になり始めた。
Photos: Takashi Okamoto
玉三郎氏は折に触れて小さな音の重要性を説く。速度と密度が増して減ること、初めに戻りまた繰り返すことを好む。それは大きな輪の中の人生のようであり、時間そのもののようでもある。裕一郎は初めはよく分からなかったが、今ではプレイヤー達は皆「永遠」の感覚を掴みはじめていると言う。鼓童の舞台は、これまで演目の集合体を一つの作品として仕上げるものだったが、玉三郎氏は舞台を一つの創作と見ている。これまでは一つの曲が静けさから爆発的な盛り上がりまでを網羅していたが、玉三郎氏との舞台づくりでは、それぞれの曲は、一つの大きな絵の一部になっている。ある曲がある一定まで進んだら、終わりに向けてボルテージが上がることなく、そのまま終わることもある。そして次の曲はさらに盛り上がる、というような感じだ。
演奏者達は、一つ一つの曲のために感情をコントロールして抑制することを稽古しなければならない。裕一郎はそれはとても難しいと思うが、反面とても自由であるとも感じている。古くからの鼓童ファンも、鼓童が挑戦し、新しい太鼓芸能を切り開いていることを理解してくれることを願っている。
裕一郎は、鼓童の従来の演目を繰り返し演奏することも好きだが、成長したいとも強く思っている。新しい方向性に向かうことに喜びを見出しているが、不安な要素もある。公演日まで1、2か月しかないのに、まだ舞台が完成していないのだ(2014年秋現在)。玉三郎氏は「大丈夫!何とかなりますよ!」と言うが、曲はどれも技術的にとても難しく、全て一から学ばなければならない。裕一郎は不安であることを隠さない。
インタビューにて(写真:ジョニ・ウェルズ)
裕一郎は定期的に舞台に立つ団員の中で、最も年輩になったことを自覚している。太鼓芸能集団鼓童の副代表として、団員を管理し舞台をやり遂げることへの責任も強く意識している。どうすればこのグループをより良くできるのか。どうすれば団員として、また観客から見て楽しいグループになるのか。一人一人が自分の力を最大限に発揮するにはどうしたら良いのか。不惑を迎え、裕一郎は先輩プレイヤーと若いプレイヤー達、鼓童の偉大な歴史とまだ見ぬ心躍るような未来とを繋ぐ責任を感じている。
(インタビューは2014年秋に実施)
稽古・舞台写真:岡本隆史
「永遠」6〜7月、9〜10月国内ツアー
http://www.kodo.or.jp/news/20150606oet_ja.html
▼船橋の母校公演!京都造形芸術大学内・春秋座「永遠」公演
7月11日 http://www.kodo.or.jp/oet/20150711a_ja.html
7月12日 http://www.kodo.or.jp/oet/20150712a_ja.html
【問】京都芸術劇場チケットセンター Tel. 075-791-8240
ジョニ・ウェルズ(Johnny Wales)
1953年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学卒業(学士号取得)。1975年に初めて日本を旅行、その際、鼓童の前身である「佐渡の國 鬼太鼓座」に出会う。また文弥人形の師匠である浜田守太郎氏にも出会う。1976年カナダに帰国、鬼太鼓座の初めてのカナダツアーの制作を担当。1977~78年、佐渡に住み文弥人形を学ぶ。それ以来、鬼太鼓座、そして鼓童の仕事にたびたび関わりながら、文弥人形の指導、通訳、翻訳、また舞台照明の仕事に従事。その後、文弥人形の指導、活動をしながら木彫師として鼓童の舞台で使用する面を作成。1987年には The Kodo Beat(英文ニュースレター、2011年春に終刊)の最初の編集者として活躍。写真家、イラストレーター、そして Kodo eNews(英文電子ニュースレター、2013年12月に終刊)やブログ作成にも関わる。現在、ジョニ・ウェルズはフリーランス・イラストレータ、アニメーター、木彫師、人形遣い、そして作家としての肩書を持つ。カナダでは7冊の児童向け作品の挿絵を描き、その中の一冊『Gruntle Piggle Takes Off』(Viking Childrens Books出版)において、1996年、カナダの文学作品賞であるThe Governor General’s Awardの候補となる。1995年より、読売新聞にて、東京についてのイラストによるコラムを連載。現在、佐渡にて妻・智恵子と秋田犬のKyla (カイラ)とともに暮らす。Website: www.johnny-wales.com (英語・日本語)
山口幹文インタビュー by ジョニ・ウェルズ
ジョニ・ウェルズ氏が、山口幹文にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。
山口幹文インタビュー(Johnny Wales)
山口幹文 インタビューにて(写真:ジョニ・ウェルズ)
1954年茨城県生まれ。5歳の時、東京へ引っ越す。高校と大学でクラシック音楽(作曲、チェロ等)を学んだ。作曲や編曲の他、笛をはじめ、箏、三味線、胡弓等の和楽器以外にも、フルート、チェロ、ピアノも演奏する。
「クラシック音楽を学んでいた頃、同級生、そして先生までもが日本の伝統音楽をやや軽視する傾向にありました。ドイツやイタリアの音楽と比べて、まだ“本物”ではないと考えられていたんです。そこで、何かがおかしいなと思いはじめた。日本人なのに、日本文化にもっと敬意を持たなくて良いんだろうか。それから、能や歌舞伎の公演に足を運び、三味線、箏の演奏や声明も観るようになりました。それを聞いていると、自然にすとんと入ってきた。それで、西洋音楽をやるよりも、邦楽の方が自分を表現できるんじゃないかと考えはじめ、18歳の時に近所の三味線と箏の先生の所へ通いはじめました。とても早く上達できてびっくりして、西洋音楽ではない、自分にとって自然な道に進みたいと思いました。」
「同時に、都会での生活にうんざりしていて、田舎で音楽に関わりながら生活できたら良いなと思っていた。ある日、車でラジオを聞いていたら、宇崎竜童さんが、佐渡島で“佐渡の國鬼太鼓座”と一緒に音楽を作ってきて楽しかったって興奮気味に話していたんです。『太鼓が凄くて』と言っていて、太鼓か…..と思っていたら、『箏と三味線も良かったよね』と続いた。その話しに魅了され、すぐに鬼太鼓座のレコードを2枚買いました。それで人生が変わりましたね。箏と三味線を習っていたから、もしかしたら自分も何かできるかもしれないと思いました。鬼太鼓座の厳しいトレーニングについて聞いていたので、自転車を買いました。自転車で佐渡まで行けば、体が鍛えられるだろうと思ったんです。アルバイトを辞めて、銀行口座のお金を全部引き出して3ヶ月の旅に出ました。」
「1980年11月の半ばに佐渡に辿り着きました。その頃の鬼太鼓座は、真野湾を見下ろす古い校舎にありました。連絡せずに行ったものだから、『事前に連絡しなさい』って怒られたけれど歓迎してくれて、明け方に一緒に走ったり、炊事や掃除を手伝ったり、トレーニングを見学したりして3日間一緒に過ごしました。そこで1月には佐渡に引っ越すこと決めて、一度東京に戻りました。その頃は入団試験も研修制度もなく、やる気さえあれば誰でも入座できました。もし今だったらとても入れなかったと思います(笑)。」
「当時はちょうど鬼太鼓座が田耕(でん・たがやす)さんとの分裂騒ぎの最中で、グループとして揺れている時期でした。一旦東京に戻った時に田さんと会って、1週間ほど東京事務所でお手伝いをしていました。鬼太鼓座の人から、田さんはひげは好みではないと聞いたので、気を利かして剃っちゃったんですが、『ひげを生やせ。笛を吹け』と田さんに言われました。何でひげと笛なのかと妙な気持ちになりましたが、まあ、この一言でぼくの運命が決まったことになります。年が明けて佐渡に渡り、皆がツアーに出掛けている間、6か月間留守番をしながら笛の稽古をしていました。それから間もなく一緒にツアーに行くことになり、以来演出にも携わるようになって、35年以上そんな生活を続けてきました。」
内田依利インタビュー by ジョニ・ウェルズ
ジョニ・ウェルズが氏が、「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」と坂東玉三郎氏との作品作りについて、内田依利にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さんにお届けします。
内田依利(うちだえり)は愛知県生まれ。鼓童メンバーの正式なメンバーとなって5年目。太鼓以外にも、唄、篠笛、踊りを担当。「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」では出演だけでなく、作曲も担当しています。
内田依利インタビュー by ジョニ・ウェルズ
「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」は、坂東玉三郎さんを鼓童の音楽監督にお迎えしてからの第二作目です。今回、鼓童メンバーが作った曲のほとんどが新曲です。私にとって、玉三郎さんの第一作目「伝説」と、この第二作目の「神秘」の一番の違いは、女性メンバーがこれまで以上に活躍しているという点です。今までの鼓童の公演では、屋台囃子と大太鼓に向かって盛り上がっていって、お客様は男性奏者の強い印象を持ってお帰りになると思います。でも、「神秘」では女性奏者の印象も同じくらい残るかと思います。作品作りの始めの段階では皆で色んなことを試してみましたが、そのうちのいくつかは、演目として成り立つのかな、という不安もありました。この作品では、いつもに増して演劇的な要素があります。
「神秘」の演目のうち、二曲を私が作りました。「晴れわたる」という笛と太鼓を主体とした曲と、第二部の一曲目、「Chit Chat」という曲です。「Chit Chat」では、いわゆる「女子会」での女の子達のおしゃべりの様子を表現していて、第二部は、女性奏者が演奏しながら一緒に笑い合っているシーンから幕が開きます。
一年前、玉三郎さんが私達に「神秘」をテーマにした曲を考えてアイデアを出すように言われました。私はそれまで作曲なんてしたことがなかったのですが、どうにかこうにか幾つかの曲を作って提出してみました。どうなるかは神のみぞ知る、です。でも、そうしたら何と使って頂けることになりました!それを機に、これからもっと作曲したいなぁと思うようになりました。作曲をする過程で、何かを創り出し、自分を表現するためには考え過ぎてはいけない、ということを発見しました。でも、もっと良いものを創るためには、沢山勉強しなきゃいけないなと思っています。
藤本容子インタビュー by ジョニ・ウェルズ
「CDとコンサートのお知らせ」
3月にソロCD第二弾「やまず めぐるも ~よろこび悲しみ とけるままに~」をリリースした藤本容子。9月20日(土)と23日(火・祝)には、佐渡で「やまず めぐるも」と題した公演も行います。このCDにかける思いを、ジョニ・ウェルズ氏が藤本容子にインタビューを行い、英語ブログに掲載しました。このブログを和訳したものを元に、藤本容子がさらに言葉を加え、皆さんにお届けいたします。
(和訳・編集:鼓童広報部)
藤本容子インタビュー by ジョニ・ウェルズ
はじめ、このCDは、とても個人的な実母への思いから、制作のきっかけが生まれました。そして、内容を考える過程で、その初めの思いに加えて、「生命のご縁」への思いが、深く混じり合って行きました。
遠い昔から今日まで、人間の生命は、脈々と続く一筋の道のように思います。その道筋は上昇しつつ螺旋を描いて、様々なところで、もう終わってしまったと思っていたご縁が、また別の形で復活したり、結びついたご縁が、また新たな結びつきを産んだりしながら、より豊かに光と影を織り込んで行きます。
終わりの無いサイクルの中で、生まれ変わり続ける人間の生命とご縁は、まさに神秘の曼荼羅。「その曼荼羅の光芒の一辺でも、見て聴くことのできる形にできたら」という思いが、このCDになりました。
タイトル「やまず めぐるも」は、その思いをもとに、収録曲「風車」の歌詞から選んだものです。
このCDの芯になった、「マルティーナの子守唄」のことを、お話ししましょう。史実をもとにした、イタリア映画「やがて来る者へ」(原題:L’umo che verra)のエンディング・テーマです。平穏な山里が、一変して殺戮の現場となり、8歳の少女マルティーナと生まれたばかりの弟が生き残ります。彼女は、一年前に生まれたばかりの弟が自分の腕の中で無くなり、そのショックで口がきけなくなっています。しかし、家族を殺され、この世にただ二人残されて、弟を腕に抱いた彼女の「この子は死なせない!」という声なき魂の叫びは、これまでの守られる側から守る側へ、彼女を一夜にして変身させるのです。
あらゆる努力と智慧に尽したすえに、日だまりの中、ぼう然と弟を抱きながら(たぶん無意識に)歌うシーンで映画は終わります。
幼く、無力の極みにあるマルティーナが、懸命に健気に、自分のことを横に置いて弟の生命を守ろうとしている姿に、私は、人類の生命の歴史も見たような気がしました。弱く無力な人々による連綿たる多くの貢献があったからこそ、今、人類はこの地上に生き延びているのではないかと思いました。これは悲劇であり、同時に、か弱いけれども偉大な希望の物語だと思いました。
何度も繰り返してうたを聴き、それが身体に入ったとき、彼女の目にみえるものを言葉に写して、詩を作り、歌い始めました。
永遠、励まし、無邪気、愛、あこがれ、歓喜、友情… 7曲が納められたこのCDから、皆さんに、人間の心の万華鏡のようなきらめきを感じていただけたら幸せです。
CDを作る直前で、久しぶりに会った友人から、私の引きがちな性格に対して、とても厳しい励ましの言葉をもらったことがあります。自分の弱い現実に向かい合った時でした。そのときの気づきと「心機一転」が、このCDの内容に大きく結びつきました。
感謝しつつ、抽象画家であるその友人の絵を、ぜひCDジャケットに使わせていただこうと、お宅を訪ねたときのこと。沢山の素晴らしい絵の魅力に引き込まれて見入っていると、「CDのタイトルは?」と聞かれました。「『やまず めぐるも』ってしようかなあと思っているんだけど」と言うと、「ちょっと待ってて!!」と別の部屋に入ってゆき、小さなガラス絵を持ってきました。冬の午後の柔らかい光を通しながら、その絵の、なんという美しさだったことでしょう!
彼女の「これは、私の一番好きな作品なの。タイトルは『めぐる いのち』!」その一言で決まり! でした。
「この世に、偶然は無い」って本当だなあ。
CDの音楽は、木村俊介さんにお願いしました。鼓童として「アマテラス」の音楽や、千絵子の「ゆきあい」の舞台音楽、また、EC最終日夜の「宵のゆんづる」も俊介さんの作曲です。私も、ソロコンサートでお世話になったり、その他同じステージを踏むチャンスをいただいてきています。今回は、木村さんが笛などの演奏を始め、音楽監修を務めてくださり、その他、津軽三味線、和太鼓、13弦と17弦の箏、ワールドミュージックのパーカッション、そしてヴァイオリンの演奏で、私のうたを生かしてくださいました。素敵なCDができました。木村さん、演奏陣のみなさんに感謝です!
このCDは、サンニャ・プロジェクトと音大工の共同制作です。今後、容子はサンニャ・プロジェクトの名で、ソロの活動をして行きます。この名前はサンスクリット語でスーニャ。チベットの言葉で「空(くう)」を意味します。名前との出会いについては、いつかまたの機会にお話しいたしましょう。
前田剛史インタビュー by ジョニ・ウェルズ
長年鼓童の活動に関わってきたジョニ・ウェルズ氏が、アース・セレブレーション・城山コンサート2日目「大地の祭」の演出を担当する前田剛史のインタビューを行いました。佐渡弁を自由自在に操るジョニ・ウェルズ氏の日本語によるインタビューは、英語のブログに掲載されています。その一部を和訳して、皆さんにお届けします。
(和訳・編集:鼓童広報部)
前田剛史インタビュー by ジョニ・ウェルズ
前田剛史(以下剛史)は1986年8月28日、兵庫県生まれ。山を駆け回ったり川で魚釣りをしたりと、自然豊かな環境で育ち、サッカーや音楽に夢中の少年時代を過ごしました。11歳になると、地域の子供の太鼓グループ「はたっこ太鼓」に参加、太鼓や笛、踊り、唄等を学びました。将来の夢は「太鼓演奏者になること」。両親はそんな剛史を全面的サポートしました。 高校生になってからは琴や三味線も習うようになり、和楽器の世界に魅了されていきました。
剛史は中学生の時、初めて鼓童の音楽をCDで耳にしました。そして、鼓童の神戸での公演を観に行き、生で鼓童の響きを体感。その時、鼓童の舞台を目指すことを決意しました。「鼓童のメンバーが、舞台でとても輝いていました。」と彼は話します。
高校3年生の時に鼓童文化財団研修所の研修生に応募。1月の雪で覆われた佐渡での面接試験を経て、4月から晴れて研修生となりました。2年間の研修期間を経て、準メンバーとして合格。初ツアーで訪れたのは、剛史の故郷の近く、初めて鼓童を見た神戸。鼓童の半纏姿に身を包んで鼓童の一員として演奏する姿を見てもらうことで、剛史は何年もの間応援し続けてくれた同級生や両親に感謝の気持ちを伝えることができました。
佐渡に来て10年、剛史は太鼓だけではなく、笛、唄、踊り等、舞台で幅広く活躍するようになりました。作曲、演出も手掛けるようになり、今年は交流学校公演の演出を担当しています。
交流学校公演では「和の文化」の素晴らしさを伝えることを念頭にプログラムを練り上げました。鼓童のメンバーの太鼓演奏を聞いた子供たちが、「僕もやりたい」「私もやりたい」 と思ってもらうことを、剛史は願っています。
またここ数年、他のミュージシャンとのコラボレーションにも積極的に参加しています。今年4月には、阿木燿子氏プロデュース・宇崎竜童氏音楽監督の「FLAMENCO 曽根崎心中」に参加。Arte y Soleraのフラメンコの作品で、様々なジャンルのミュージシャンと共演しました。
今年は交流学校公演に続き、アース・セレブレーション・城山コンサート2日目の「大地の祭」でも、演出を担当しています。これは屋外で開催されるコンサートで、特設舞台が桜の木に囲まれた芝生の上に設営されます。観客と出演者が一体となって作り上げる、普段の舞台とは異なった特別な空間。剛史は、太鼓の楽しさと力強さを表現したいと考えています。
「演奏することを心から楽しんでいる」と剛史。太鼓のリズムをやフレーズの一つ一つをきちんと打ち、日々成長できるよう稽古に励んでいます。
剛史が鼓童で作った曲の一つ「夜道」は、昨年12月より始まった「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」で演奏されています。この曲を聞いた人が、その人の持つ故郷、自然の中の情景を思い出せるように、そんな思いで作った曲です。
鼓童は「グループ」として活動を行っています。剛史は鼓童の外で活動した時(今年はフラメンコ作品に参加した時)、鼓童で演奏している時とは異なる感覚を抱きました。別々に活動しているミュージシャンが、一つの作品のために「グループ」となる…その時の新鮮な気持ち。そして、良い作品を作ろうと他のメンバーと積極的に交流を深めることで、様々なことを発見。そして、彼自身の演奏者としての責任を強く感じたのでした。他のミュージシャンとのコラボレーションの経験は、鼓童のメンバーとしてさらなるステップアップのために、貴重な経験となったのです。
鼓童の舞台以外での経験を経て、心身ともひとまわり大きくなった前田剛史。この夏のアース・セレブレーションでの剛史のパフォーマンス、そして演出にご期待下さい!
※ジョニ・ウェルズ氏によるインタビュのー記事は、英語ブログで全文をご覧いただけます↓
http://kodo.or.jp/blog_en/tag/johnny-wales
アース・セレブレーション2014:8月22~24日開催(新潟・佐渡)