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Tag ‘永六輔’

追悼 永 六輔さん③/ありがとう、永さん。鼓童メンバーからのメッセージ


ありがとう、永さん。
鼓童メンバーからのメッセージ

2013年12月「小島千絵子トーク&ライブ『紅の寿』」にて(写真:宮川舞子)

2013年12月「小島千絵子トーク&ライブ『紅の寿』」にて(写真:宮川舞子)

永さんが亡くなった。

でも…永さんは消えない。

永さんの大きなエネルギーが、ゆったりと拍動しながら近くにある。

「バカ。ちゃんとできたって、しょうがないんです‼」
「夢見る乙女はやめて。現実の明日に、つながってんの? これ。」
「ハッハッハッハッ(大笑)」(私の落ち度に対して)

あー、いっぱい怒られた。怖かった。でも、嬉しかった。そして、、、、、私を絶賛してくれたのも、永さんだった。

今、国や世界の様々な状況から不安に陥りそうになると、見えない永さんから「喝」が飛んでくる。

「何があっても、太鼓は世界平和の親善大使。それを忘れないで!」

叱咤激励をいただき続けた35年が、これからも私たちを育み養う糧となり続けることを想う。

永さん、いつまでも、ありがとうございます。

藤本容子

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2000年7月「佐渡あたりでバチあたり」のリハーサルにて(写真:吉田励)

2000年7月「佐渡あたりでバチあたり」のリハーサルにて(写真:吉田励)

「鼓童の太鼓は聴いてるだけで疲れる」「音に遊び心を感じない」「あのタイミングであれはないだろう!」「なんでお前たちは…」

永さんからは、ためになるお話を伺ったと云うよりも、叱られた思い出の方が断然多い。でもそれは、次に会うまでの宿題を出すと云うことだったのだと思う。

「お前たちは、もっと大道芸を勉強しなさい。あの人たちは予期せぬ事態の連続の中で芸を行ってるんだ。」「観客の反応、アクシデント、自分のミスでさえ瞬時に小銭に変えるんだ!」 その後訪れたエジンバラフェスティバル。僕は劇場公演そっちのけで大道芸だけを観て回った。それも同じ人を最低三回追って。

勿論そんな程度の経験で身に付くものではないけれど、交流学校公演やワークショップなど、参加者の反応やその場で起きたことを取り入れて、舞台を進行する意識が生まれて来たと思います。まぁまだ宿題を提出するレベルではありませんけど。

それはそうと、遠慮なく叱って下さった方が居なくなって寂しいと云うより、この先を思うと途方にくれていると云った気持ちですよ、永さん。

齊藤栄一
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2003年10月「永六輔さんコンサート『鼓童大慶寺を鳴らす』」にて(写真:田中文太郎)

2003年10月「永六輔さんコンサート『鼓童大慶寺を鳴らす』」にて(写真:田中文太郎)

今、私がここに在るのは、永さんのおかげです。

私がまだ何者でもなく、何かを探し混沌としていた頃、愛読していた『話の特集』の中の永さんのエッセイに「鬼太鼓座の若者」の文字を見つけました。間もなく篠田正浩監督のドキュメンタリー映画「佐渡ノ國鬼太鼓座」と実演のステージを観て、若い鬼たちの中に飛び込みました。永さんは広告塔として佐渡と若者を繋いでいました。

鼓童になってしばらく、たった一人の女性として踊りを担っていた孤独な心持ちの頃、やはり同じ雑誌に鼓童の評と共に私への文がありました。「単なる太鼓のいろどりから、踊りの場面を獲得し、さらに太鼓に負けていない、舞台を引き締めている。鼓童はこの財産を大切にして欲しい」その言葉に励まされてまた上を向いて歩き出すことが出来ました。

その後も女性三人のユニット「花結」を立ち上げた時からその趣旨や表現を面白がって頂き、時々にご指導の機会を頂きました。少数派への愛に満ちて厳しく優しいまなざしに、伸び伸びと学び成長できたのも永さんのおかげです。

永さんが旅立たれた後、私達の中に永さんのいのちは引き継がれ、地球をまた旅して参ります。永さんを思い、感謝の手を合わせます。

小島千絵子
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追悼 永 六輔さん①
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10962.html

追悼 永 六輔さん②/永さんからの伝言
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10963.html


追悼 永 六輔さん②/永さんからの伝言


2007年の月刊「鼓童」新年号に、永さんのインタビュー記事を掲載しました。その中から、寄せてくださった言葉を抜粋して紹介させていただきます。いただいた時から10年経った今の私たちが、あらためて胸に刻まなくてはいけない言葉の数々です。

永さんからの伝言

鼓童公演をご覧いただいたあとにくださったお手紙。

ほめ言葉なんていくら集めても何の役にも立たないですよ。アンテナを研ぎ澄まして悪口を集めないとだめですよ。

だって鼓童は、ただ叩いているだけなんだもん。始めは叩いている行為に感動して「鼓童っていいね〜。すごいね〜」って皆言うけれど、その後は何が残るか。圧倒するのはね、若ければ叩き方しだいで誰だってできることですよ。

リーダーとしての意識があるんだったら、全国の太鼓をやっている人に、「太鼓とは本来どういうものか」っていう問い直しをしないと。

八丈太鼓なんて習ってできることじゃないでしょ。太鼓が「あ、歌ってる」「あ、語っている」っていう聴こえ方がするんですよ。これは習ってできるものじゃありませんよって、そういうことを伝えるのも大事なことじゃない? そういう考え方ができるようになると、太鼓に向かう姿勢が謙虚になるでしょ。太鼓の音をどういう感性で受け止めるかっていうこともね。

「打ち手は同時に語り手で…」っていったけど、太鼓で語ればいいの。それは絶対に伝わるものだと思う。

楽しさってこういうもんですよ、ということを、太鼓を通して、どれだけ他のものにつなげられるか。僕はそれを作りたくて佐渡に通ったんです。

鼓童はとってもブレーンの作り方が下手なんだよな。だから遠慮するじゃない、こちらも。お互い遠慮しない関係でいることができれば、いろんな人も呼べるでしょ。そして、呼んだ人からいろんな芸を絞り取らなきゃ。僕も絞り取られたって記憶ないもの。それはとっても損なことだよ。

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皆、年とっていくんです。老化とか年をとっていくことの怖さっていうのは年をとらないと分からないんですよ。爺さんばっかりのグループも作っていくことをしないと、みんな無理がいくよ。無理がいく仕事なんだもん、叩くってことは。大きな太鼓なんか持ち歩けないからね。
小皿叩いても鼓童でなきゃ。

これからの宿題とすれば、芸能集団としての鼓童と、それから最初からやろうといっていた学校づくり、民芸・工芸を含めたものづくり。今、やりつつあるじゃないですか。それが、もう少し形にならないかなって思うんですよね。舞台とは別でいいんですよ。今までを振り返って、何が足りなかったのか、だめだったのかっていうマイナス面を全部ピックアップして、直すんじゃなくて、マイナスをそのまま魅力にするっていう発想でね。

追悼 永 六輔さん①
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10962.html

追悼 永 六輔さん③/ありがとう、永さん。鼓童メンバーからのメッセージ
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10964.html


追悼 永 六輔さん①


追悼 永 六輔さん

2003年鼓童村にて(写真:田中文太郎)

2003年鼓童村にて(写真:田中文太郎)

放送文化のひとつの時代を創り、多くの方々に影響を与えてこられた永六輔さんがお亡くなりになりました。鬼太鼓座・鼓童の出自に関わり、長年にわたり私たちに厳しくも温かく叱咤激励してくださいました。心からご冥福をお祈りするとともに、その言葉の数々をあらためて胸に刻みたいと思います。

佐渡、宮本常一先生、鬼太鼓座、鼓童
鬼太鼓座、鼓童の始まり

永さんとの出逢いは45年前、鬼太鼓座を始めるきっかけとなる、人を集めるところからになります。

1970年、当時パーソナリティーを務めていたラジオの深夜番組で、鼓童の前身「佐渡の國鬼太鼓座」が誕生するきっかけとなった「おんでこ座夏期学校」開催を呼びかけたのが、永さんでした。永さんのお話によれば、詩人の谷川俊太郎さんから「佐渡で島興しをやろうとしている若者がいる」という連絡があり、田耕氏が谷川さんの紹介状を持ってTBSへ来社。ちょうど「パック・イン・ミュージック」というラジオ番組をやっている頃で、その話がそのまま放送で流れた、という、このグループの生まれるところからの関わりです。実はそれ以前から、宮本常一先生と本間雅彦先生のつながりで佐渡へのご縁はつながっていました。

永六輔さんと宮本先生

宮本常一(みやもとつねいち=1907〜1981)/「旅する民俗学者」と呼ばれ、ひたすら歩いて日本中の民俗や民具を調査した、日本を代表する民俗学者。農村や離島の振興に尽力され、また「職人(日本海)大学構想」を提唱するお一人として「佐渡の國鬼太鼓座」誕生に関わられた、鼓童にとって大変縁の深い方。

永さんは戦後、日本の歴史観が大幅に変わる中で歴史を学ぼうと志します。なかでも、一番身近にあった民俗学を宮本先生に学びました。

20歳の頃、テレビ開局を機に、放送業界へ進もうとする永さんに、宮本先生が贈った言葉は「放送の仕事は電波の仕事。電波は山や海を越え、どこまでも行く。我々は今まで歩いて日本中を調べてきた。君は電波を発信して日本を調べなさい。だけど、一つだけ約束してほしい。電波を出すだけではなく、届いている電波の先へ行ってほしい。どういう風に情報が受け止められているかを調べて、スタジオに持ち帰って話をしなさい」というこの言葉を支えとして活動されていらっしゃいました。

宮本先生への思い

永さんが、鼓童と接するときにいつも心を配られていたのは宮本先生ならどう思うか、ということだったように思います。

「鼓童と一緒に仕事をする時に僕が一番したかったのは、宮本先生のやり方なんです。歯食いしばって、何かするんじゃなくて、できることだけしていればいいんだから。あるものを大事にして、そこでできることだけでそれで満足しなくちゃいけないと。もっとよくしようとか、もっと豪華にしようとか、それは宮本さんのやり方じゃないの。宮本さんはそんなこと全然考えない。時間の流れの方が大切なんだ。だから、今回は衣裳にしても鼓童にあるもので、それを如何に工夫して生かすか、という発想でやりました。(中略)宮本さんは、あくまで日本の国の中の人で、世代的にもそういう時代の人だから、海はあるんだけれど、世界は見えてこないんですよ。だけど、それを受け継いだ鼓童の世代は、佐渡だけじゃない日本だけじゃない、アジア、世界って言う展望の中で、世界中の太鼓の叩き手に、宮本さんの考え方を伝えていくことだと思うんですね。」(一九九六年「永六輔の『鼓童で遊ぼう』」のインタビューより)

宮本常一(みやもとつねいち=1907〜1981)/「旅する民俗学者」と呼ばれ、ひたすら歩いて日本中の民俗や民具を調査した、日本を代表する民俗学者。農村や離島の振興に尽力され、また「職人(日本海)大学構想」を提唱するお一人として「佐渡の國鬼太鼓座」誕生に関わられた、鼓童にとって大変縁の深い方。

永六輔さんと本間先生

2000年5月柿野浦の研修所にて 本間雅彦先生もご一緒に(写真:吉田励)

2000年5月柿野浦の研修所にて 本間雅彦先生もご一緒に(写真:吉田励)

永さんは宮本先生のつながりで、本間雅彦先生と知り合います。中でも、一緒に活動をされていた小沢昭一さんが、日本の放浪芸を追求していくなかで目をつけ、一度は完全に亡びたといわれていた佐渡の芸能のひとつである「春駒」の収集を、本間先生がしてくださったことを後々まで語っていらっしゃいます。

2010年6月に、永さんがラジオの仕事で佐渡にいらしたのですが、ちょうどその日が、本間先生の告別式でした。お手紙の中で、その日に佐渡にいられたことに胸を熱くした、と書いていらっしゃいます。

本間雅彦(ほんままさひこ=1917〜2010)/1959年、九学会調査で佐渡を訪れた民俗学者・宮本常一氏と出会い、その人格・研究姿勢に大きな影響を受けた。佐渡の國鬼太鼓座〜鼓童の佐渡で一番の支援者であり理解者。「てずから工房」主宰。佐渡島内の各町村の郷土史や民族研究など執筆多数。

本間雅彦(ほんままさひこ=1917〜2010)1959年、九学会調査で佐渡を訪れた民俗学者・宮本常一氏と出会い、その人格・研究姿勢に大きな影響を受けた。佐渡の國鬼太鼓座〜鼓童の佐渡で一番の支援者であり理解者。「てずから工房」主宰。佐渡島内の各町村の郷土史や民族研究など執筆多数。

鼓童への思い

「僕は、鬼太鼓座初期の舞台から立ち会っているわけだけど、ファンであって、クリエイターではない。応援団かと言われると、応援団でもない。つまり鬼太鼓座が10年、鼓童が25年あるとして、じゃあ、あなたは何をしていたのですか? と言われると、これといって何にもないんですよ。鼓童がこうなるといいなと思う願望はあります。ささやかながら、そういう手伝い方はしてはいるんですけどね。」

鼓童の30周年の記念誌「いのちもやして、たたけよ。」に本間先生と鼓童のあるべき姿を語った、と書いてくださっています。

もっと歌え、舞え、踊れ。
もっと語れ、弾け、遊べ。

追悼 永 六輔さん/青木孝夫

鼓童には遊びがたらん! 圧倒する太鼓は若ければ叩き方次第で誰だってできる。もっと太鼓で歌え、語れ!

衣装にしても、画一的で個がみえない。もっと自由に!

君たちは批判という声にうたれ弱い。もっと強くなれ!

大きい太いバチでなくてもいいだろう。バチでなく手を叩いてほしい

もっと子どもやお年寄りに楽しんでもらえる芸を身につけなさい。

1980年代から、私は永さんにお会いするたびに、このようなお説教を浴びせられ続けました。当時は若さゆえ、その言葉の意味が理解できずによく落ち込んでいました。しかし、2003年、坂東玉三郎さん演出の舞台をご覧いただいた時に、和紙に書かれた棟方志功の版画絵と永さんの直筆のメーセージは嬉しかった。

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「僕の待っていた鼓童に近づきつつあります。声を・・と 三十年! ありがとう 玉三郎さん」

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「人間自分で変えられない時は変えてもらえればいいのです。まだまだ変われます。」

現在、玉三郎さんにご指導を仰ぐ中で、永さんのこの言葉の意味と通ずることがたくさんあります。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをおもく、おもいことをおもしろく」。この、井上ひさし氏の言葉も永さんから教えてもらいました。

いつも愛情深く、厳しい叱咤激励をいただいた言葉のひとつひとつを胸に刻み、まだまだ先は長いと思いますが、永さんに褒めてもらえる鼓童に変わっていけるように自由に「遊びたい」と思います。

ありがとうございました。
合掌

鼓童グループを代表して
青木孝夫

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2003年11月 「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル」をご覧いただいた後に寄せてくださったお手紙。

追悼 永 六輔さん②/永さんからの伝言
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10963.html

追悼 永 六輔さん③/ありがとう、永さん。鼓童メンバーからのメッセージ
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10964.html


息づく思い/船橋裕一郎


息づく思い

鼓童村の中庭

いかがお過ごしでしょうか。2ヶ月におよぶツアーを終え、今月はサントリーホール、ECと続きます。

さて、鼓童にとっても大きな存在であった冨田勲氏、永六輔氏のお二方がお亡くなりになりました。私自身は、お二方との接点はごく僅かでしたが、鼓童グループに与えて頂いたもの、精神は計り知れず、それらは今後もグループのなかで息づいていくものだと思っております。

冨田さんとの集合写真(2008年鼓童村稽古期間に撮影)

冨田さんとの集合写真(2008年鼓童村稽古期間に撮影)

数年前、小さな会場での公演の際、幕があがると最前列にニコニコと笑顔で座っておられたのが、冨田勲さんでした。公演後、気さくにお話をして頂き、鼓童村でのレコーディングの思い出を楽しそうに語られていました。また、1945年の三河地震で被災され、戦時統制の最中で救援もほぼなく、その後も広く報道されなかったことなど、とどまることなくお話されていたことを思い出します。昨年末、佐渡の鼓童村滞在中に出来た『宇宙の歌』をこの夏に再演することが決まった際には、大変喜んで下さり、前回からの改善点までご指示くださいました。音を通してその思いや音楽性の素晴らしさを再認識しております。

永六輔さん(2003年鼓童村にて)Photo: Buntaro Tanaka

永六輔さん(2003年鼓童村にて)

私が研修生時代に『鼓童で遊ぼう』というタイトルの公演で司会をして頂いたのが永六輔さんでした。リハーサルもそこそこに研修生をも舞台に上げ、鼓童のメンバーも名だたるゲストの皆様も慌ただしく舞台を駆け回り、最終的には客席も巻き込んでそれは楽しい舞台を作り上げてくださったことを覚えています。佐渡にも我々の公演会場にも常に足を運んで下さいました。旅をしていると、鼓童にいなければ決して足を運ばなかったであろうと思う土地に赴きますが、その土地に行って初めて分かる事が多くあると感じます。それは電波の届くところへ赴き、そのことを東京のラジオで伝えなさいという宮本常一先生のお言葉を実践され、その事を私達へ伝えてくださった証しだと思い、ツアーへの思いを改めて思い返しております。

お二方に共通して感じるのは、自分で見て触れたものを信じるという強い信念と、社会に対しては鋭く、人に対しては深い愛情に満ちた眼差しでした。

最後に永さんから鼓童に頂いたお手紙を紹介させて頂きます。

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君達の【太鼓】はそこにあるだけで充分に鑑賞に耐える工藝品であり、美術品なのだ。
だから、君達もそこにいるだけで【存在感を示せる人間】であってほしい。
その上で太鼓と向き合うと君達は中途半端な人間であるよりは純粋に”童”であることに
徹することでしか、対応出来ないことに気づく、その時君達は鼓童なのだ。

永六輔

心よりご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

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