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鼓童の歴史 青木社長が語る35年/文・伊達なつめ


鼓童の歴史 青木社長(株式会社北前船)が語る35年

文●伊達なつめ

美しく厳しい自然に囲まれ、民俗芸能の宝庫である佐渡で文化のあり方を学び、地方から日本と世界を見つめ直す──。1981年にベルリンでデビューを飾った鼓童は、’60~’70年代の大学紛争を経た若者たちが、理想郷を求めて結成した佐渡の國鬼太鼓座が、その前身。大自然の中で生かされているという自覚を保ち、佐渡に活動拠点を定める基本理念と、プロフェッショナルの音楽芸能集団として、高度な芸術性の追求に努める新たなミッション。両輪の充実を目指して歩んできた鼓童の35年間を、青木社長が振り返る。

Photo: Takashi Okamoto

宮本常一先生(※民俗学者で鬼太鼓座設立時のアドバイザーでもあった)が力説されていた『地方から発信できる力を持つ』ことを可能にし、地域に根付くためには、会社組織にしてみんなが生活できる最低限の基盤を調えなければならない。そのために奔走したのが、初期の鼓童でした。豊かな自然と芸能文化が残っている環境が大事だと思い、佐渡にこだわりましたが、当時のメンバーみんなが、単純に佐渡が好きだった、という面も多分にありましたね。

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琉球舞踊の佐藤太圭子先生と鼓童・初期のメンバー

現実的な問題として、たとえ佐渡でも、周囲に民家があると太鼓を叩く音が騒音になってしまうので防音設備が必要ですが、1986年に現在の鼓童村がある場所(佐渡南西部の小木金田新田)を確保できて、まわりに何もないという、夢にまで見た環境を実現できました。

ただ、当時はこの「鼓童村構想」にみんなの意識が傾き過ぎていたところがあり、創造活動に集中したかった創立メンバーの林英哲さんは、一年で鼓童から去って行かれました。鬼太鼓座を始めた当初から集まっていたのは必ずしも芸能に興味のある若者ではなかったので、こうしたギャップが生じたんでしょうね。私個人は、英哲さんの演奏に感銘を受けて佐渡にやって来た口なので、この時は「もう鼓童は駄目かな」とほんとうに思いましたし、他のメンバーも、同じ気持ちだったかもしれません。その後太鼓も一度すべてなくなって8ヶ月活動を休止しましたが、1984年にはワン・アース・ツアーを開始し、1986年にはサントリーホールのこけら落としに参加させていただけるまでになりました。

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しかし、鼓童村建設が具体化した矢先の1987年には、構想を主導していた代表の河内敏夫が、事故で急逝しました。資金調達もすべて彼がしていたので、最初はその年の海外ツアーの費用を捻出するのにも想像を絶するくらい四苦八苦しましたが、掲げた理想を実現するために、いろいろな方に協力していただきながら、なんとか困難を乗り切ってきました。

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やっと運営も軌道に乗り、1993年には念願だった高い天井と、舞台と同じ広さの空間がある稽古場ができました。鼓童の活動も順調だった1999年頃、理屈ではうまく説明できないんですが、私の中に「このままでは鼓童は続かなくなる」という危機感が芽生え始めました。すでにいろいろなプロの太鼓グループが出現していて、鼓童がやってきたことは、みなさん大体できてしまっている。これからはプロの太鼓芸能集団として表現を深め幅を広げて他と差別化していかないと、淘汰されてしまうと感じたのです。

とはいえ、それを自分たちだけでやることには限界がある。どんな組織でも同じだと思いますが、20年もやってくると、組織の形とやり方が固定されてきて、新しいことに挑戦しにくくなってしまいます。そうなったら外から違う風を入れて固まったものを壊さないと、組織自体が駄目になってしまう。

そう思って、メンバーの意見を確認することもまったくせず(笑)、独断で玉三郎さんに鼓童との共演をお願いしに行きました。玉三郎さんは「最初から共演は難しいが、演出なら」とお引き受けくださって、2000年から佐渡の稽古場にお越しいただくようになりました。

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鼓童のメンバーにとっては、今までとはまったく異なる体験となり、戸惑いも大きかったようですが、玉三郎さんはそれを感じながらも、根気よく関わってくださいました。その時準団員だったのが、いま代表になっている船橋裕一郎や、石塚充の世代です。現在では、玉三郎さんが何かひとこと言うだけで、みんなすぐに理解するので、稽古は実にスムースに運んでいます。2012年からは芸術監督をお願いし、作品だけでなく、メンバーの体調管理から研修所の整備に至るまで、全体にわたる指導をしていただくようになっています。

Photo: Eri Uchida

振り返ってみると、35年間もよくやってこられたな、というのが実感ですが、自分たちの生きている時代だけで終わろうとしていたら、ここまでは来ていなかったと思っています。私には、太鼓芸能文化を、能や狂言や歌舞伎と同じように、何百年も引き継がれ、世界中の人々に楽しんでいただける芸能に引き上げたい、という夢があるんです。とても自分が生きている間にかなうことではありませんが、今やっておくべきことはあるはずです。玉三郎さんに指導をお願いしていることもそのひとつで、この貴重な時間にさまざまなことを学んでおくことが、10年後、20年後、30年後…100年後くらいに、必ず活かされると信じています。

これからも、生きている間にやらなければならないことを、精いっぱいやっていくつもりです。鼓童のメンバーたちも勉強を重ねて、もっともっと自身の表現を磨いてほしいと思っています。

ー鼓童創立35周年記念コンサートパンフレットより

 


追悼 永 六輔さん①


追悼 永 六輔さん

2003年鼓童村にて(写真:田中文太郎)

2003年鼓童村にて(写真:田中文太郎)

放送文化のひとつの時代を創り、多くの方々に影響を与えてこられた永六輔さんがお亡くなりになりました。鬼太鼓座・鼓童の出自に関わり、長年にわたり私たちに厳しくも温かく叱咤激励してくださいました。心からご冥福をお祈りするとともに、その言葉の数々をあらためて胸に刻みたいと思います。

佐渡、宮本常一先生、鬼太鼓座、鼓童
鬼太鼓座、鼓童の始まり

永さんとの出逢いは45年前、鬼太鼓座を始めるきっかけとなる、人を集めるところからになります。

1970年、当時パーソナリティーを務めていたラジオの深夜番組で、鼓童の前身「佐渡の國鬼太鼓座」が誕生するきっかけとなった「おんでこ座夏期学校」開催を呼びかけたのが、永さんでした。永さんのお話によれば、詩人の谷川俊太郎さんから「佐渡で島興しをやろうとしている若者がいる」という連絡があり、田耕氏が谷川さんの紹介状を持ってTBSへ来社。ちょうど「パック・イン・ミュージック」というラジオ番組をやっている頃で、その話がそのまま放送で流れた、という、このグループの生まれるところからの関わりです。実はそれ以前から、宮本常一先生と本間雅彦先生のつながりで佐渡へのご縁はつながっていました。

永六輔さんと宮本先生

宮本常一(みやもとつねいち=1907〜1981)/「旅する民俗学者」と呼ばれ、ひたすら歩いて日本中の民俗や民具を調査した、日本を代表する民俗学者。農村や離島の振興に尽力され、また「職人(日本海)大学構想」を提唱するお一人として「佐渡の國鬼太鼓座」誕生に関わられた、鼓童にとって大変縁の深い方。

永さんは戦後、日本の歴史観が大幅に変わる中で歴史を学ぼうと志します。なかでも、一番身近にあった民俗学を宮本先生に学びました。

20歳の頃、テレビ開局を機に、放送業界へ進もうとする永さんに、宮本先生が贈った言葉は「放送の仕事は電波の仕事。電波は山や海を越え、どこまでも行く。我々は今まで歩いて日本中を調べてきた。君は電波を発信して日本を調べなさい。だけど、一つだけ約束してほしい。電波を出すだけではなく、届いている電波の先へ行ってほしい。どういう風に情報が受け止められているかを調べて、スタジオに持ち帰って話をしなさい」というこの言葉を支えとして活動されていらっしゃいました。

宮本先生への思い

永さんが、鼓童と接するときにいつも心を配られていたのは宮本先生ならどう思うか、ということだったように思います。

「鼓童と一緒に仕事をする時に僕が一番したかったのは、宮本先生のやり方なんです。歯食いしばって、何かするんじゃなくて、できることだけしていればいいんだから。あるものを大事にして、そこでできることだけでそれで満足しなくちゃいけないと。もっとよくしようとか、もっと豪華にしようとか、それは宮本さんのやり方じゃないの。宮本さんはそんなこと全然考えない。時間の流れの方が大切なんだ。だから、今回は衣裳にしても鼓童にあるもので、それを如何に工夫して生かすか、という発想でやりました。(中略)宮本さんは、あくまで日本の国の中の人で、世代的にもそういう時代の人だから、海はあるんだけれど、世界は見えてこないんですよ。だけど、それを受け継いだ鼓童の世代は、佐渡だけじゃない日本だけじゃない、アジア、世界って言う展望の中で、世界中の太鼓の叩き手に、宮本さんの考え方を伝えていくことだと思うんですね。」(一九九六年「永六輔の『鼓童で遊ぼう』」のインタビューより)

宮本常一(みやもとつねいち=1907〜1981)/「旅する民俗学者」と呼ばれ、ひたすら歩いて日本中の民俗や民具を調査した、日本を代表する民俗学者。農村や離島の振興に尽力され、また「職人(日本海)大学構想」を提唱するお一人として「佐渡の國鬼太鼓座」誕生に関わられた、鼓童にとって大変縁の深い方。

永六輔さんと本間先生

2000年5月柿野浦の研修所にて 本間雅彦先生もご一緒に(写真:吉田励)

2000年5月柿野浦の研修所にて 本間雅彦先生もご一緒に(写真:吉田励)

永さんは宮本先生のつながりで、本間雅彦先生と知り合います。中でも、一緒に活動をされていた小沢昭一さんが、日本の放浪芸を追求していくなかで目をつけ、一度は完全に亡びたといわれていた佐渡の芸能のひとつである「春駒」の収集を、本間先生がしてくださったことを後々まで語っていらっしゃいます。

2010年6月に、永さんがラジオの仕事で佐渡にいらしたのですが、ちょうどその日が、本間先生の告別式でした。お手紙の中で、その日に佐渡にいられたことに胸を熱くした、と書いていらっしゃいます。

本間雅彦(ほんままさひこ=1917〜2010)/1959年、九学会調査で佐渡を訪れた民俗学者・宮本常一氏と出会い、その人格・研究姿勢に大きな影響を受けた。佐渡の國鬼太鼓座〜鼓童の佐渡で一番の支援者であり理解者。「てずから工房」主宰。佐渡島内の各町村の郷土史や民族研究など執筆多数。

本間雅彦(ほんままさひこ=1917〜2010)1959年、九学会調査で佐渡を訪れた民俗学者・宮本常一氏と出会い、その人格・研究姿勢に大きな影響を受けた。佐渡の國鬼太鼓座〜鼓童の佐渡で一番の支援者であり理解者。「てずから工房」主宰。佐渡島内の各町村の郷土史や民族研究など執筆多数。

鼓童への思い

「僕は、鬼太鼓座初期の舞台から立ち会っているわけだけど、ファンであって、クリエイターではない。応援団かと言われると、応援団でもない。つまり鬼太鼓座が10年、鼓童が25年あるとして、じゃあ、あなたは何をしていたのですか? と言われると、これといって何にもないんですよ。鼓童がこうなるといいなと思う願望はあります。ささやかながら、そういう手伝い方はしてはいるんですけどね。」

鼓童の30周年の記念誌「いのちもやして、たたけよ。」に本間先生と鼓童のあるべき姿を語った、と書いてくださっています。

もっと歌え、舞え、踊れ。
もっと語れ、弾け、遊べ。

追悼 永 六輔さん/青木孝夫

鼓童には遊びがたらん! 圧倒する太鼓は若ければ叩き方次第で誰だってできる。もっと太鼓で歌え、語れ!

衣装にしても、画一的で個がみえない。もっと自由に!

君たちは批判という声にうたれ弱い。もっと強くなれ!

大きい太いバチでなくてもいいだろう。バチでなく手を叩いてほしい

もっと子どもやお年寄りに楽しんでもらえる芸を身につけなさい。

1980年代から、私は永さんにお会いするたびに、このようなお説教を浴びせられ続けました。当時は若さゆえ、その言葉の意味が理解できずによく落ち込んでいました。しかし、2003年、坂東玉三郎さん演出の舞台をご覧いただいた時に、和紙に書かれた棟方志功の版画絵と永さんの直筆のメーセージは嬉しかった。

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「僕の待っていた鼓童に近づきつつあります。声を・・と 三十年! ありがとう 玉三郎さん」

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「人間自分で変えられない時は変えてもらえればいいのです。まだまだ変われます。」

現在、玉三郎さんにご指導を仰ぐ中で、永さんのこの言葉の意味と通ずることがたくさんあります。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをおもく、おもいことをおもしろく」。この、井上ひさし氏の言葉も永さんから教えてもらいました。

いつも愛情深く、厳しい叱咤激励をいただいた言葉のひとつひとつを胸に刻み、まだまだ先は長いと思いますが、永さんに褒めてもらえる鼓童に変わっていけるように自由に「遊びたい」と思います。

ありがとうございました。
合掌

鼓童グループを代表して
青木孝夫

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2003年11月 「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル」をご覧いただいた後に寄せてくださったお手紙。

追悼 永 六輔さん②/永さんからの伝言
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10963.html

追悼 永 六輔さん③/ありがとう、永さん。鼓童メンバーからのメッセージ
http://www.kodo.or.jp/blog/kikanshi/20160918_10964.html


加藤泰監督作『ざ・鬼太鼓座』ベネチア国際クラシック部門での上映決定


加藤泰監督作『ざ・鬼太鼓座』ベネチア国際クラシック部門での上映決定

今年のヴェネチア映画祭(8/31~9/10)クラシック部門で、「ざ・鬼太鼓座」が選ばれ、上映されることになりました。世界から20本選ばれたうち、日本の作品は「七人の侍」と本作の2本になります。(『ざ・鬼太鼓座』は鼓童の前身「佐渡の國 鬼太鼓座」時代の1979年ごろに撮影された映画)

http://www.labiennale.org/en/cinema/news/22-07.html

WEB「シネマズ」より

WEB「シネマズ」より

加藤泰監督生誕100年を記念する快挙です。また、日本国内ではジャパンプレミアとして東京フィルメックス(11/19~11/27)での上映も決まりました。今後、各地で上映されるようです。

シネマズ|加藤泰監督作『ざ・鬼太鼓座』ベネチア国際クラシック部門での上映決定
https://cinema.ne.jp/news/ondekoza2016072717/

◆ウィキペディア「鬼太鼓座」より

ボストンマラソン完走後、そのまま舞台に上がり三尺八寸の大太鼓演奏でデビューをかざった鬼太鼓座はボストンの地元マスコミに大きく取り上げられ、以降、 日本国内外の公演も順調に進んでいったが、その後リーダーの田耕とメンバーとの間で意見やポリシーの相違が次第に表面化した。そして、その亀裂が決定的になったのは、映画『ざ・鬼太鼓座』の制作である。田耕は当時の鬼太鼓座を記録に残したいと映画制作を発案、自ら資金を調達しほぼ独断で企画を進め、松竹、朝日放送の協力を取り付け、3年の歳月をかけて映画を完成させる。しかし、実際に完成した映画は田耕の構想していた物とは全く異なった物であり、映画の内容を巡って、田耕は制作サイドと激しく対立し、結果的にこの映画はお蔵入りとなる(2014年現在、上映会などでの上映を除いて一般公開はされず、ソフト化もされていない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/鬼太鼓座

◆MovieWalker「ざ・鬼太鼓座」より

恋人吉三郎に会いたいがために火の見櫓の太鼓を叩き続けるお七/春になり、一斉に咲き誇った菜の花の中をお七は、津軽三味線のりズムにのりながら花嫁衣裳で 駆けめぐる。お七の新たな青春の始まり/七つの締大鼓にバチを落とすタクミ、ヨシカズ、カツジ、エイテツ、ハンチョウ、ヨシアキ、マサフミ。中大鼓が鳴り、締大鼓が後を追う。若者たちの歓喜の雄叫び/朝焼けの光の中を若者たちは鬼となって、実りを、収穫を求めて踊り跳ぶ。大太鼓の前に、六尺褌を締めて立 つエイテツとヨシアキが力をこめて叩き出した。しなる腕、踊るバチ、震える鼓、輝く瞳、したたる汗、豪快なりズムが響き渡る/祭は終った。刈入れの終えた 田園で藁を焼く煙が立ちのぼると佐渡に再び冬がくる。ミツルを先頭に五人の乙女たちはいつまでも踊り続ける。

http://movie.walkerplus.com/mv28067/

◆「ざ・鬼太鼓座」については「いのちもやして、たたけよ。」p.61に掲載

鼓童結成30周年記念出版「いのちもやして、たたけよ。– 鼓童30年の軌跡 –」
http://www.kodo.or.jp/news/20110607book_ja.html


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