山野實さんへ、感謝を込めて/藤本容子
「佐渡の國鬼太鼓座」時代から「鼓童」の歴史をたどる中で、グループとしてまた個人として、どれほどの愛情と応援をいただいてきたことか、山野さんは言葉に尽くすことのできない私たちの恩人です。
個人としては、自分が一番にその恩恵を受けた者と思っている私ですが、きっと、他にもそう思うメンバーがいっぱいいることと思います。
山野さんと初めて出会ったのは、1976年「佐渡の國鬼太鼓座」東京事務所でした。東京事務所は、創設者・田耕氏の仕事場であり、旅の途中のメンバーの宿泊場でした。初めての「佐渡の國鬼太鼓座」海外ツアーを前にして、その期間、留守番のアルバイトをしないかと田さんに誘われて事務所に通うことになりました。その中で、東京のあちこちを車で回りながら仕事をされていた山野さんが、ちょくちょく立ち寄られて、次第に親しみが増していったのでした。
1976年12月15日、私は、山野さんと母に見送られて、上野駅から佐渡へと旅立ちました。「容子さんは、3ヶ月持たないでしょう(笑)」と山野さんに言われ、それから毎月、「まだ帰ってこないの?」との電話が繰り返されました。ついに私が怒ってそれは終わりましたが、そんな憎まれっ子を演じながら、きっと私の元気を確認して母に伝えてくれていたのだと思います。本当に、それからも様々に案じ続け、手を差し伸べ続けてくれた山野さんでした。
私の声のワークショップ「Voice Circle」を始めることができたのも、それを続ける道筋ができたのも山野さんのおかげです。また、唄で悩んでどん底のとき「1人の人が私の歌を愛してくださるなら、私はこれからも歌い続けてゆくことができる」との思いが生まれ、立ち直らせてくれたのも山野さんでした。
「花結」やソロ活動で海外に行く時には、長年収集されていた切手、と大入り袋をたくさん持たせてくださって、そこには山野さん自身の、会うこともない現地の方々への、「この子等を招いてくださってありがとう」のお礼の気持ちが込められていたのではないかと、今にして思う私です。
山野さんは、日本の東西南北いたるところ、数えきれないほどの公演会場に足を運んでくださいましたが、それは佐渡についても同じで、ある時、山野さんと一緒に数えたところ、来島回数はなんと100回を超えていました。奥様もお嬢さんも、鼓童を応援してくださっていたのですが、それにしても、この時は本当にご家族のことが心配になりました。
奥様とお嬢さんには、感謝でいっぱいです。
山野さんの、長きにわたる全身全霊の励ましを受けて、鼓童は幸せ者でした。
私が最後にお会いしたのは2019年11月。コロナ感染が始まってからは、お会いできないままになってしまいました。
今年8月、ご無沙汰のお詫びと、長年の感謝を表したいと思い、山野さんが大好きだった吉利・容子の「貝殻節」が、鼓童の若者たちとの合唱となって収録されたCD「鼓童撰集II 」。そして、2022年アースセレブレーションでの吉利と2人の「貝殻節」演奏のDVDを合わせて、ご自宅に送らせていただきました。まさか、それが最後になるとは思ってもいませんでした。
山野さん、本当に、ご無沙汰ごめんなさい。せめてこの「貝殻節」が、吉利と私だけでなく鼓童の感謝の声として、山野さんの魂に届き、その響きが山野さんの冥土の土産となって、あの世への道すがらを慰めるものとなりましたように。
山野さん、これまで、本当にありがとうございました。山野さんとの語りきれないいっぱいの思い出を、人生の励みとしてまいります。これからは、空からの光の中に、山野さんの応援メッセージをみつけてゆきますね。またいつの世にか、きっとどこかで親しく出会うことを、楽しみにしています。きっとです!
感謝⭐️合掌。
山野實(やまのみのる)さん
鼓童の前身の「佐渡の國鬼太鼓座」の草創期に、マラソンが縁で出会う。
以来、佐渡はもとより公演先などに神出鬼没に現れて、鼓童を見守り続けてくださいました。2024年10月4日、90歳でご逝去。