ヨーロッパツアーを終えて

2022年3月29日、エストニア、タリン。ウクライナから避難された方々を対象とした特別公演のフィナーレ。

洲﨑拓郎

ヨーロッパツアー班が帰国いたしました。

多くの方々を公演会場にお迎えでき、喜んで頂けたことは本当に嬉しいことでした。改めて、ご来場いただいたお客様と公演実現に尽力いただいた関係者の皆様へ心より感謝申し上げます。

今回はパンデミックの中で多くの困難と向き合い、公演が中止になるなど私たちも直接的に大きな影響を受けました。エストニアでは、ウクライナから避難して来られた方々に向けた公演を行い、戦争により住む場所や家族を奪われた多くの方々を、間近に感じることとなりました。

ツアーキャストは、みな心を揺さぶられて帰ってきました。彼らの思いを改めて皆様にお伝えしたいと思います。また、それを鼓童の思いとして深め、私たちに出来る事を考え続けてまいります。

株式会社北前船 代表取締役社長
洲﨑拓郎

 

池永レオ遼太郎

先日、2ヶ月のヨーロッパツアーを終え、無事に帰国致しました。

ツアー途中で全公演を打ち切り、急遽帰国した2年前のヨーロッパツアーも印象的でしたが、パンデミックと戦争の最中に巡った今回のツアーは、私たち一人ひとりの魂を揺るがす経験となりました。

毎公演沢山のお客様に迎えて頂き、行く先々で「来てくれてありがとう」という言葉を頂きました。

パンデミックが始まって以来、日頃から自分たちの存在意義などについて葛藤していた私たちにとっては、何よりの報いの言葉でした。

太鼓を通じて、私たちに何ができるか。

この事と向き合う事が、40年以上も前から世界を旅してきた鼓童で太鼓を叩く者としての大切な使命である事を再認識したツアーでした。

鼓童
池永レオ遼太郎

宮本常一先生からの手紙、そして「ひとつの地球」/洲﨑拓郎

鼓童が目指す「ひとつの地球」について考えています。

長い歴史の中で、人は自分自身や家族、誇りを守りたいと思い、より良い暮らしを求め、新しいことに挑戦し、自然を理解しようと努めてきました。同時に、それらが隣人に侵されるのではないかと恐れ、また押し入って略奪し、争い続けてもきました。

何千万、何億という人々のそうした動機に基づく、国家間の綱引き、そして悲劇的な紛争。毎日メディアで伝えられる一つ一つの出来事に対し、理屈や言葉で向き合おうとすると、無力感にさいなまれます。それはたいてい今に始まったことではなく、何十年、何百年、時に何千年も前から、地域や記憶に凝り固まっているものに突き動かされているからです。

先日、1975年に宮本常一先生から、鼓童の前身である佐渡の國 鬼太鼓座の団員に宛てた手紙が見つかりました。フランス、パリのピエールカルダン劇場で連続公演を終えた当時のメンバーが投函した手紙に対し、お返事としていただいたものです。

 

そこには、以下のように綴られていました。

世の中が便利になりすぎて、佐渡もパリーもあまり距離がなくなりました。ただわれわれにはまだ大きな距離感があり、感覚の上でも隔絶したものがあります。いま一番大切なことは、そうした民族間の隔絶感をなくすることだと思います。

〜中略〜

戦争をなくするためにはどれだけの手続きと努力が必要なのかを考え続けています。皆さんが太鼓を叩いているのもおなじ希望を持ってのことと思います。

「民族間の隔絶感」は、47年を経た今になっても、残念ながらなくなっていません。交通や情報の流通が進化しただけでは変わっていかない、「感覚の隔絶」をどうするか。

何千万、何億という人々には、国家の枠組みとは別に、それぞれに日常と暮らしがあります。声高に聞こえてこない、ささやかで、理屈や言葉にならない喜びや、時に悲しみ。そうしたものは民族の違いや国境に左右されず、脈々と続いてきました。

それらが祭りや芸能、音楽で横に繋がり、そうして笑顔や喜びが、凝り固まった恐れをすこしずつ溶かしてくれないだろうか。そうすれば、地球がすこしずつひとつになっていくのではないだろうか、と考えます。

1984年の開始以来38年目を迎えた「ワン・アース・ツアー」、2月〜3月に欧州9カ国を巡ったこの旅は、さまざまな困難に遭いながらも、多くの方々に支えられ、本日千穐楽を迎えることができました。心から感謝するとともに、このツアーも「ひとつの地球」に、ほんの僅かでも近づく一歩になっていれば、と願わずにはいられません。

わたしたちは、太鼓の響きが生み出す「共感共同体」を作る活動が、47年前に宮本先生から頂いた手紙に対する、ひとつの答えになり得ると信じています。疫病や紛争に対し、恐れに囚われず、笑顔を交わし合うことが出来る人間の心を信じ、太鼓と芸能を楽しみ、これからも活動を続けてまいります。

宮本常一
民俗学者、農村指導者。最初期の鬼太鼓座の活動に大きな思想的影響を与え、その知識や発想は現在に至っても、鼓童の活動の根底に脈々と受け継がれています。

写真:Radoslaw Kazmierczak

鼓童へのご支援をお願い申し上げます。

 

 

鼓童×リサイクル/本間康子

鼓童では、自分たちのできる範囲でリサイクルに取り組んでいます。
以前からやっているのは、普段の食事から出る生ゴミの堆肥化や、使用済みの割り箸やカンナ屑をとっておいて薪ストーブの焚きつけにすることなどです。

薪ストーブの薪は、鼓童村周辺の森の木を間伐して、一年以上かけて乾燥させたものを使っています。春の作業は、鼓童村にいる皆で行う「村民行事」となっています。

2018年の村民行事の様子(撮影:西田太郎)

鼓童村・食堂の薪ストーブ

リサイクル募金「きしゃぽん」

 

 

 

 

 

 

 

リサイクルというと、鼓童を応援してくださっている皆様には「きしゃぽん」がおなじみかもしれません。
古本などを送っていただくと、研修生の稽古用のバチ材の購入支援につながるというものです。ご支援くださっている皆様、本当にありがとうございます。
鼓童で購読している雑誌なども、たまってくると「きしゃぽん」に送っています。

昨年末から「リサイクル募金」と名称が変わり、お送りいただける物の対象範囲が広がりました。
リサイクル募金「きしゃぽん」

 

自分たちができるリサイクルとして、昨年からは新たに、使い捨てコンタクトレンズの空ケースや、使い捨てカイロのリサイクル活動への協力を始めました。

コンタクトレンズケースのリサイクル

鼓童内でどのくらいの人がコンタクトを使っているか、聞き取りから始めたところ、かなりの人数の使用者がいることもわかり、鼓童村や研修所に回収箱を置いてみることにしました。
ツアー先で回収箱を見かけて気になっていたというメンバーがいました。渡辺ちひろです。
そこで呼びかけは、ちひろにお願いしました。

忙しい朝の時間にコンタクトの容器を捨てず、リサイクルへ回すのは、“ちょっと手間だな〜“と感じる方もいると思います。
正直、私自身もそう思っていました
でもここ数日、コンタクト容器をゴミ箱に捨てないってだけで、環境のために何か出来ている気がして、朝からちょっぴり気分が上がっています。なんだかいい感じです。
今世界が抱えている海洋プラスチックごみ問題
この微力な行動が将来に繋がり、何かが変わっていくかも知れません。
少しでも興味のある方がいらっしゃいましたら、無理をしない程度にご協力を頂ければ嬉しいです。

と、呼びかけてくれました。
回収できた量は1年間で約3.8キロ。1個1グラム強で、約3700個集まりました。

使い捨てコンタクトレンズの空ケースリサイクル
アイシティecoプロジェクト

 

使い捨てカイロのリサイクル

クラウドファンディングサイト「Readyfor」で「使用済み使い捨てカイロを使い、地球の水質浄化を目指したい!」というプロジェクトを見かけたのがきっかけで、鼓童内に協力を呼びかけました。
昨年は冬の期間に野外での撮影などが多かったこともあって、短期間でカイロが300個ほど集まり、早々にお届けすることができました。
今年も回収しますと宣言したところ、すでに昨年を超える量(約15キロ・400個弱)が集まっています。

2021年2月、雪の清水寺にて(撮影:米谷友宏)

Go Green Group

これらの活動を通して、何か新しいことを始めてみようとする時、さっと動いて協力してくれる人達が周囲にいるのは、心強いものだと感じることができました。
「SDGs」というと身構えてしまうところがありますが、鼓童村から出るゴミを少し減らすことができたかな、ちょっと環境にいいことができたかなという気持ちで、気負わずに取り組んでいければと思います。

 

赤嶺隆さんを偲んで/本間康子

私たちの大切な仲間である赤嶺隆さんが3月18日に亡くなって、早いもので5月5日で四十九日を迎えました。

赤嶺さんが鼓童と出会ったのは1984年。鼓童が初めての「ワン・アース・ツアー」でロンドンに行った時でした。
公演会場で、赤嶺さんの存在に気づいたのはハンチョウ(河内敏夫)でした。「一番前の席で目を爛々と輝かせて観に来てくれた日本人がいた。」と言っていたそうです。

赤嶺さん自身はこう語っています。
「初めて鼓童の舞台を見たとき、太鼓の音が私の身体の一番深い部分にどしーんと落ちてくるようでした。その感覚は、異国にいた私のアイデンティティを大きく揺さぶりました。吉利さんがステージに現れて打ち始めると、観客は一気に引き込まれました。『大太鼓』が終わっても、あまりの感動で拍手ができないほどでした」(『いのちもやして、たたけよ。-鼓童三〇年の軌跡-』より)

また、当時鼓童のメンバーでツアーに参加していた富田和明さんが、コベントガーデンで目を閉じて三味線を弾いていて、弾き終わって目を開けた時、そこに赤嶺さんがいたそうです。

1984年・ロンドンにて(撮影:富田和明氏)

鼓童が好きで、鼓童で働きたいという思いが募り、公演後にハンチョウに会うと、第一声は「いつから(仕事)始められる?」だったとか。

赤嶺さんは、1986年1月に佐渡にやってきました。

1986年・北田野浦研修所にて(撮影:富田和明氏)

海外公演の交渉等はハンチョウがひとりで切り盛りしており、赤嶺さんの加入により強化が図れると期待がふくらんだのも束の間、1987年の元日、ハンチョウは旅行先のフィリピンで遊泳中に不慮の事故に遭い、戻らぬ人となってしまいました。

絶望的な悲しみを抱える一方で、アメリカツアー出発の日が迫っていました。
葬儀はツアー出発の前日にハンチョウの実家のある東京で営まれ、赤嶺さんは初の海外ツアーマネージャーを、鼓童存亡のかかる危機的状況の中で務めることとなりました。

1987年のワン・アース・ツアー(撮影:2点とも富田和明氏)

以来、事情により鼓童スタッフの立場を離れることになる2008年まで、国内外の公演でツアーマネージャーを務めるかたわら、ワークショップのスタッフや、アース・セレブレーションでの海外ゲストアテンドなど、様々な場面で活躍。

1995年・北米ツアーにて(撮影:狩野泰一氏)

2010年からは海外公演アドバイザーとして、主に海外における鼓童の公演活動をサポートしてくれました。
赤嶺さんが変わらずにやってきてくれたことは、ひとえに「人と人をつなぐ」ということでした。

この機会に、赤嶺さんがかつて鼓童の機関誌に寄せた文章を読み返しました。
そこには、彼の人柄そのもの、そして鼓童への深い愛情があふれていました。
世界各地で多くの方々とのご縁を丁寧に紡いできた赤嶺さん。
機関誌「月刊鼓童」バックナンバーより文章の一部を抜粋し、その一端をご紹介させていただきます。
 

「タンパの子ども達」 1988年6月号より

大人が失いかけた感受性をもう一度見直してみる、確認する機会を与えてもらいました。 

フロリダ州タンパでの公演期間中、小学校の生徒達が鼓童の舞台を見るために劇場に足をはこんでくれたのですが、入って来る子供達を見ていてふと気がついたのは、ごく自然にグループに同化した体の不自由な子供達がいたのです。特に障害を持った子供を優先的に劇場に入れる訳でもなく、かといって遅れて最後にやってくる訳でもない。仲間の子供達と手をつないで入ってくるんですね。体の不自由な人に対して変な先入観もなければ偏見を持っていない。普通にワイワイおしゃべりしながらお互いを助け合っているのがごくあたりまえのようです。

公演後、目の不自由な少女が一人、本当に細い小さな腕で、小さな胸の中に太鼓を抱き込んで、太鼓の皮に頬ずりをするんです。少しだけあっけにとられたりもしたのですが、彼女のしぐさが、けなげで可愛くもあり、また大胆で生き生きとした姿に見えました。彼女にとって切実な欲求の対象となる。“触れる”。そして“確かめる”。という意識を素直に表現したことに共感もしました。またうつむいたまま照れくさそうな笑みを浮かべた少年が、手を差し伸べ握手を求めてきたんです。彼の感動は理屈じゃなくて、キラキラと輝いた感受性そのもののような気がしました。

弱者の中に人間の良質な部分がないとどうしていえるのか、というようなことを考えさせてくれたのが、タンパの子ども達でした。

1992年・北米ツアー中に行われたワークショップにて(撮影:狩野泰一氏)

海外鼓童塾もまた楽し-鼓童塾・北アイルランド編 1991年12月号より

イギリスで開催されたジャパンフェスティバルの要請に応え、鼓童塾を開いてきました。

とくにロンドンから来た人達は、ものすごい期待感を持ってくれていたわけですが、その楽しみにしてくれる気持ちと、こちらの気持ちがピッタりかみあうことができたんですね。それでなんかこう、安心感の中でを落ち着けてすすめることができたんです。終わった後も、みんなで「楽しかった」と佐渡にファックスを送ってくれたり、体験後の反響を見ると、参加した方にとっても思った以上に充実したものであったようで、僕らも喜んでいるんです。

何が……というと、「人とまじわれる」ということだと思うんです。やっぱり、公演の場合は、舞台と客席とはどうしても一線を引かれた世界ですよね。声をかけたりはできないじゃないですか。ワークショップの場合は直接コミュニケーションができる。それが楽しいですよね。フィーリングが通じるということは、ほんとに気持ちの良いことです。それが一番大きかったですね。

1991年・鼓童塾-北アイルランド篇

違う部屋で、アイルランドの伝統的な太鼓を使ったワークショップもやっていたんです。「ボーラン」という太鼓と「ランバー」という太鼓です。この二つの太鼓は、かたやカトリックかたやプロテスタントという宗教的な背景をもっているんです。宗教紛争は、今もイギリスの大きな問題ですよね。「一緒に演奏したりすることもあるんですか?」ときくと、「NEVER。絶対やらない」と強い調子で断言するんです。「ありえない」って。

ところが……、その後で参加者の交流会があって、出演者が集められた。当然と言えば当然、彼らは始め、見るからにお互いを牽制し合って、隅と隅に遠く離れていました。けれども、僕らが無邪気にいろんなことを質問したりするうちに、両方が段々近寄ってきて….。最終的には、僕らも入って「絶対にありえない」といっていた演奏まで一緒にしてしまったわけなんです。

後からきくと、これは「歴史的な出来事」なんだそうです。

僕らが、変に気を回して緊張していたら、こうはならなかったでしょうね。単純に音楽に対する興味をぶつけたから、自然に一緒になれたんじゃないかと思います。

大きい太鼓がランバー(奥)小さい太鼓がボーラン(手前)。和太鼓も加わり「歴史的」なセッション

それぞれの鼓童塾 1998年10月号より

世代も環境もさまざまな参加者が、太鼓を叩くという一つの目的のために日本中、いや世界中から集まって来ます。いろんな人達に出会えるのも鼓童塾の魅力の一つですね。 

また、研修生にとっても鼓童塾は、得難い機会になっていると思います。なんの機会かというと、まごごろを修練する場とでもいいましょうか。料理一つとっても、参加者の皆さんにおいしく食べてもらうために心をこめてつくる。何かを聞かれたり頼まれたりしたら精一杯対応する。常に、心をこめること、感謝することを一生懸命考える時間なんですね。鼓童塾というのは、そのことに意識を向けるまたとない機会なんです。(談)

 

フリートーク 2008年6月号より

いま、沖縄にいます。
沖縄には時間がいっぱいあります。もちろん錯覚でしかありません。が、私の皮膚の中にあるウチナァンチュのDNAも、これを大いに良しとし、喜んでおります。時間があると、私の思いは鼓童と佐渡を駆け巡ります。その時、ふと思うことは、鼓童が佐渡が、私の精神をやすらがせ、生きるための元気と勇気をあたえてくれ、いえば、私のアイデンティにもなっているという気がするのです。鼓童、佐渡、沖縄、この三つの要素の中に自分が自分である由縁というものを発見することができました。

鼓童を通して忘れ得ぬ出会いというものに恵まれました。これらの出会いや出来事の一つ一つが私の血の中に流れております。鼓童での二二年間は幸福でありました。延々と私事を述べてきましたが、最後の一言です。鼓童は、私の宝であり、誇りであります。

それでは、みなさん、またあう日まで。

2011年、沖縄を訪問した洲﨑拓郎・純子夫妻とともに

 

吉田励さんを偲んで/本間康子

吉田励さんは、鼓童の大変古くからの、大切な友人です。

私が吉田さんと初めてお会いしたのは、研修生となった1985年の夏。ポスタービジュアルの撮影のため、吉田さんが大小(当時の本拠地)に来られた時だったと思います。
12月、そのポスターの公演に自分が出演できることになり、数あるポスターの中でも思い出深い1枚となりました。

One Earth Tour ポスター(1985年)

その前年、1984年に半年かけて10ヶ国を巡った、最初の「One Earth Tour」のポスターも、吉田さんの撮影です。
羽茂の素浜海岸に沈む夕日が今日は良さそうだということになり、「そらいけーっ!」と大急ぎで向かって撮影したそうです。

One Earth Tour ポスター(1984年)
シルエットは藤本吉利

吉田励さんは1951年(昭和26年)山梨県甲府市生まれ。二十歳の頃から佐渡へ折々通ってくるようになり、ついには移り住み、佐渡の方と結婚されました。

吉田さん(旧姓は石原さんでした)との最初の出会いは、前身の鬼太鼓座時代に遡るとのこと。
宿根木の博物館で収蔵品の記録撮影のアルバイトをしていた吉田さんが、加藤泰監督の映画「ざ・鬼太鼓座」撮影の際、スチール写真を担当されたことがきっかけでした。
写真は、写真集『佐渡島』などで知られる写真家・富山治夫氏(1935-2016)に師事していました。

1985年「西馬音内」撮影(写真:富田和明氏)

当時の鬼太鼓座のメンバーと吉田さんは、ほぼ同世代。
佐渡島内には友達づきあいをするような人はほとんどおらず、自由に生きている吉田さんの姿がとても新鮮で、皆が惹きつけられたと言います。

独身時代には、ツアーのバスドライバーをお願いしたり、海外ツアーに同行された事もありました。鼓童の生みの親の一人である本間雅彦先生の「てづから工房」の一員でもあり、旅先で運転の合間に刺し子などをする姿を見て、後に続く人が何人も出ました。大井キヨ子もその一人です。

雑誌『銀花』で刺し子が紹介された

1985年 旅先にて(写真:富田和明氏)

1982年 アメリカツアー(写真:富田和明氏)

吉田さんは、機関誌『鼓童』に「とことこむしのいっぷく」というタイトルで、佐渡の暮らしを写真と文章で綴る連載コーナーをもっていました。
(「とことこ虫」とは佐渡弁でカブトムシの幼虫のこと)

編集担当となった藤本容子がぜひにと依頼し、1981年秋の季刊「鼓童」第3号から1982冬第7号まで、月刊になってからも1984年5月号からも2ヶ月に1回のペースで1992年12月号(100号)まで、46回続いた長期連載でした。

機関誌『鼓童』連載「とことこむしのいっぷく」

研修生になることが決まって、鼓童から機関誌が届き、そこで見た「とことこむしのいっぷく」に綴られていた佐渡の生活風習は、横浜育ちで佐渡をまったく知らなかった私にとって「佐渡の原風景」となりました。

宮本常一先生のことを敬愛していた吉田さん。
「観光とは、そこに生活している人々が、生き生きと光り輝いている姿を目撃するということだ」との宮本先生の言葉を大切にされていました。

カメラマンだけでなく、アウトドアの遊び(スキューバーダイビングや水上スキーや登山など)や家具製作、家の改築、設備工事など、多種多様な趣味を満喫されていたそうです。
いつも肩の力が抜けているというか、自然体。笑顔の吉田さんしか思い出せません。

EC1994 吉田励氏(写真:坂口正光氏)

鼓童の本拠地が小木に移ってからも、アース・セレブレーションなどの公演や、財団設立などの大切な行事、そして新年の集合写真と、本当に様々な場面で私たちを撮影してくださいました。

EC2003(写真:吉田励氏)

鼓童文化財団設立行事(写真:吉田励氏)

2013年 鼓童グループ 新年の集合写真(写真:吉田励氏)

 

2020年5月5日深夜、吉田さんは彼岸へと旅立って行かれました。

ご冥福をお祈りするとともに、私たちに残してくださった、素晴らしい写真や言葉の数々に深く感謝申し上げます。

吉田さん、本当にありがとうございました。

 

1982年 吉田励氏(写真:富田和明氏)