鼓童ブログ Kodo Blog

インタビュー

心の芯に「芸術的要素」を/坂東玉三郎氏インタビュー


坂東玉三郎氏インタビュー
心の芯に「芸術的要素」を

2016年8月 鼓童創立35周年記念コンサートパンフレットより
文◎伊達なつめ 写真◎岡本隆史

Photo: Takashi Okamoto

──芸術監督就任当初(2012年)は、「和太鼓にはバリエーションが多いわけではないから」と苦労されている様子でしたが、次々と新しい表現が生み出されていますね。

玉三郎 「今日まで出来るだけのことをしてきた」という感じです。正確には「ないもの」を出すというより「ある」ものをそのままではなく展開させて幅を広げる作業になったということでしょうか。『大太鼓』『屋台囃子』『三宅』といった、鼓童のレパートリーを代表する太鼓の曲を沢山聴いていて、今後の為にもさらに新曲があった方がいいのではないかと思い、新しい音楽的なものを模索してきました。私は全てを譜面で伝えていくわけではないので、はじめから「こういうものを創ってほしい」という設計図を示すことはしてきませんでした。鼓童のメンバーが出してきた音を「この音と、この楽器を組み合わせて」やってみては「あ、ぜんぜん合わなかった、こちらの方が良いなあ・・・」などと言いながら、現場で創ってきたのです。

Photo: Takashi Okamoto

その結果、徐々に新しい音が出て来たのでしょうか。それともうひとつは、これまでなかった新しい楽器の組み合わせや使い方、この楽器を加えたら、あるいはこの太鼓の音を前に出さずに、後ろに持って行ったら、どれだけ融合して聞こえるか、といったことを試してきました。

Photo: Takashi Okamoto

──ワン・アース・ツアー『混沌』(2015年初演)で登場した太鼓奏者によるドラム演奏など、実にユニークでした。

玉三郎 同じ打楽器でも、奏法も音の性質もすべてが異なるドラムを使ってみることで、その後元に戻った時に彼らの耳に聞こえる太鼓の音が違ってきたことが、とてもよかったと思っています。たとえば一度旅に出て戻ってくると、自分が住む場所の違った面が見えてくるでしょう。それと同じことを、彼らも感じられるようになってきたのです。

Photo: Takashi Okamoto

──「ちょっとドラムに挑戦にしてみた」という次元とは異なり、「プロの太鼓打ちがドラムを演奏するとこうなる」という新たな楽器の解釈を提示していました。

玉三郎 そこまでいかなければ、お客様に失礼ですから。もちろん今回はプロのドラマーのようには出来なくても、鼓童ができる範囲で、最善のものをお見せしなければなりません。そのために、ここに至るまで3年間かけて稽古してきたのです。

Photo: Takashi Okamoto

──新たに挑戦する楽器の習得に3年をかけ、来年初演の新作の稽古もすでに始まっている。時間の取り方にゆとりと計画性がありますね。

玉三郎 僕自身、俳優として舞台に立つようになってから認めてもらえるまでには、多くの年数がかかりましたし、中国の伝統演劇である昆劇に出演した際も、最低、5、6年は必要でした。フランスの太陽劇団(テアトル・ドゥ・ソレイユ)だって、ひとつの作品を創るのに稽古に2年間もかけているわけです。シルク・ドゥ・ソレイユだって、きっとそうでしょう。本来作品創りというのはそういうものなんです。

──プロの演奏家でありながら、別のジャンルの音楽に挑む姿勢もユニークです。たとえて言えば、チェロの演奏家が胡弓を弾くようなものですよね。

玉三郎 クラシックのチェロの専門家は、人前では胡弓の演奏はしないでしょうけれど、鼓童はとにかく余裕があればやれるところはやってしまわなければならないのです。「やれないでしょう・・・」と言わないで「やれるでしょ?」って最初に言ってしまうんです・・・(笑)。そうするとみんな、だんだん出来るようになっていくんです。そもそも『三宅』(伊豆七島の三宅島)だって『屋台囃子』(埼玉県秩父市)だって、地方の芸能として演奏されているものを、舞台用にアレンジしてきたわけですから。鼓童はそうやって、あらゆる音を自分たちの音色にしてきたのです。ですから今後も、そういうことをして行かなければなりません。

Photo: Takashi Okamoto

──来年初演の新作『幽玄』は、『アマテラス』に次ぐ玉三郎さんと鼓童との共演第2作目、能の世界を鼓童の音色で表現しようという新たな挑戦ですね。

玉三郎 先年打ち手のみんなに、今後はどんなものをやりたいの?・・・と聞いてみたら「日本のものをやりたい」というのです。それじゃあそうしましょう・・・ということになりました。ただ「日本ものはとても難しいよ・・・」とだけは言いました。どこかで古典の専門家の目に触れるでしょうし、様式も技術も、どこまで掴めるかはわからないにしても、「やるんだ」「突き抜けたい」という思い込みだけでは出来ませんからね。お客様にお見せ出来るだけの、練り込む時間がないといけないでしょうね。お能の様式そのものは使えないですから、自分たちが使ってきた楽器で、能や歌舞伎の囃子方では使わない楽器で、稽古をしていかなければなりません。同じ楽器を使ってしまえば、専門家の方が素晴らしいに決まっているわけですから、自分たちの楽器を使って、表現できるように稽古しています。

Photo: Takashi Okamoto

──締太鼓ひとつとっても、能や歌舞伎の大太鼓と似ているようで違うし、違うけど似ているという…

玉三郎 音色が不思議な感じですよね。めずらしさも、新しさも必要ですし、稽古をしていると想像もつかないところにいくんです。それに『幽玄』というからには、謡も入った方がいいかなと思って、ここ5年間くらいやっている発声練習を、謡に活かせるように稽古しています。毎日練習して行けば、確実に声が出て来ますし「なんでもできちゃう」というわけではないですけれど、出来ることはきちんと学んでいきたいと思っています。

──能と歌舞伎と鼓童、と聞いて、アイリッシュダンスと類似点があるタップダンスやフラメンコと競演する『リバーダンス』の一場面を思い出しましたが、そうした広がりも期待できそうですね。

玉三郎 タンゴが酒場のコミュニケーションから生まれてきて、後に芸術的なものに発達したのと同じだと思います。ただ、神社やお寺に集まって演奏するのと、劇場で入場料をいただいてお客様にお越しいただくものとはまた別なことですから、それとは違う線をきちんと引いた状態を保たなければなりません。このようにして、鼓童は各地の芸能に影響を受けてきましたが、デビュー当時から海外公演を多く行う中で、ブルーマン・グループやストンプ(ともにオフ・ブロードウェイを中心に世界各地で公演を続けるパフォーマンス集団)や、シルク・ドゥ・ソレイユのラスベガスのショウの「ミステール」などにも影響を与えているそうです。最近のワン・アース・ツアー『伝説』『神秘』の海外公演では、十分に受け入れられたようですが「影響を受けた海外の打楽器演奏の方が、うまく叩けている」ということにならないように「しっかりとした自覚を持つように」とみんなには話しています。

Photo: Takashi Okamoto

──35周年を迎えた鼓童の今後のことは、どうお考えですか。

玉三郎 具体的には来年(2017年)の春から、「アマテラス」に続く鼓童との共演第2作目の『幽玄』の幕が開きます。9月には、博多座での公演も予定しています。そして秋からは『打男』の日本ツアーが始まります。2009年に創った『打男』が、来年から日本と北米のツアーを回れるようになったことは、演出家としてはとても嬉しいです。佐渡に通うようになってから16年が経ちました。これまで10作近くの作品を創ってきましたが、実は思いのほか大変な作業だったんです。つまり戯曲や筋立て等の全く無いところから、打楽器演奏群の一晩の舞台(コンサート)を構成して行くのですから。自分としては出来るだけ楽しんで創っては来ましたが、お客様がどう思ってくださるかは、また別なことです。特に鼓童の古くからのお客様には、今までとは違う方向性に対する違和感もあったと思います。現在は世界情勢も経済も大変難しい時期を迎えているように思います。そうした状況下で、鼓童のみなさんも「5年後、10年後に自分たちがどうなっていたいのか」・・・ということを真剣に考える時期が来ているのではないでしょうか。

Photo: Takashi Okamoto

鼓童の「和太鼓の曲」は初めから有りましたが、これからは純粋に「打楽器の曲」として考えて行かなければならないこともあるでしょう。また大きな意味で「音楽としての曲創りの捉え方」「舞台人としての有り方」も重要になってくるでしょう。それに加えて心の芯に「芸術的要素」を持って、進んで行ってもらいたいとも考えています。また「舞台裏はお客様には見えている」ということも伝えています。「エンターテインメント」でありながら「品格」も大事なことです。自分も今後の日本の芸術の有り方などを、問い直していきたいと思っているのです。

ー2016年8月 鼓童創立35周年記念コンサートパンフレットより


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坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)
歌舞伎界の立女形。その深遠な美意識は様々な分野でも発揮され、「ロミオとジュリエット」「海神別荘」などの作品で舞台演出家として高い評価を得る一方、映像作品「外科室」「夢の女」「天守物語」で映画監督としての才能を発揮し、大きな話題となった。2012年4月から4年間、鼓童の芸術監督に就任。2012年9月に、歌舞伎女形として5人目となる重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、また2013年にはフランス芸術文化勲章最高章「コマンドゥール」を受章した。


 

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「螺旋」公演紹介
http://www.kodo.or.jp/news/20160900oet_ja.html

全国ツアースケジュール
http://www.kodo.or.jp/oet/index_ja.html#schedule26a

12月14日(水)福岡公演
http://www.kodo.or.jp/oet/20161214a_ja.html

12月17日、18日 大阪公演
http://www.kodo.or.jp/oet/20161217-18a_ja.html

12月21日〜25日 東京・文京公演
http://www.kodo.or.jp/oet/20161221-25a_ja.html

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鼓童サイト「幽玄」ページ
http://www.kodo.or.jp/news/20170500yugen_ja.html


鼓童の歴史 青木社長が語る35年/文・伊達なつめ


鼓童の歴史 青木社長(株式会社北前船)が語る35年

文●伊達なつめ

美しく厳しい自然に囲まれ、民俗芸能の宝庫である佐渡で文化のあり方を学び、地方から日本と世界を見つめ直す──。1981年にベルリンでデビューを飾った鼓童は、’60~’70年代の大学紛争を経た若者たちが、理想郷を求めて結成した佐渡の國鬼太鼓座が、その前身。大自然の中で生かされているという自覚を保ち、佐渡に活動拠点を定める基本理念と、プロフェッショナルの音楽芸能集団として、高度な芸術性の追求に努める新たなミッション。両輪の充実を目指して歩んできた鼓童の35年間を、青木社長が振り返る。

Photo: Takashi Okamoto

宮本常一先生(※民俗学者で鬼太鼓座設立時のアドバイザーでもあった)が力説されていた『地方から発信できる力を持つ』ことを可能にし、地域に根付くためには、会社組織にしてみんなが生活できる最低限の基盤を調えなければならない。そのために奔走したのが、初期の鼓童でした。豊かな自然と芸能文化が残っている環境が大事だと思い、佐渡にこだわりましたが、当時のメンバーみんなが、単純に佐渡が好きだった、という面も多分にありましたね。

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琉球舞踊の佐藤太圭子先生と鼓童・初期のメンバー

現実的な問題として、たとえ佐渡でも、周囲に民家があると太鼓を叩く音が騒音になってしまうので防音設備が必要ですが、1986年に現在の鼓童村がある場所(佐渡南西部の小木金田新田)を確保できて、まわりに何もないという、夢にまで見た環境を実現できました。

ただ、当時はこの「鼓童村構想」にみんなの意識が傾き過ぎていたところがあり、創造活動に集中したかった創立メンバーの林英哲さんは、一年で鼓童から去って行かれました。鬼太鼓座を始めた当初から集まっていたのは必ずしも芸能に興味のある若者ではなかったので、こうしたギャップが生じたんでしょうね。私個人は、英哲さんの演奏に感銘を受けて佐渡にやって来た口なので、この時は「もう鼓童は駄目かな」とほんとうに思いましたし、他のメンバーも、同じ気持ちだったかもしれません。その後太鼓も一度すべてなくなって8ヶ月活動を休止しましたが、1984年にはワン・アース・ツアーを開始し、1986年にはサントリーホールのこけら落としに参加させていただけるまでになりました。

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しかし、鼓童村建設が具体化した矢先の1987年には、構想を主導していた代表の河内敏夫が、事故で急逝しました。資金調達もすべて彼がしていたので、最初はその年の海外ツアーの費用を捻出するのにも想像を絶するくらい四苦八苦しましたが、掲げた理想を実現するために、いろいろな方に協力していただきながら、なんとか困難を乗り切ってきました。

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やっと運営も軌道に乗り、1993年には念願だった高い天井と、舞台と同じ広さの空間がある稽古場ができました。鼓童の活動も順調だった1999年頃、理屈ではうまく説明できないんですが、私の中に「このままでは鼓童は続かなくなる」という危機感が芽生え始めました。すでにいろいろなプロの太鼓グループが出現していて、鼓童がやってきたことは、みなさん大体できてしまっている。これからはプロの太鼓芸能集団として表現を深め幅を広げて他と差別化していかないと、淘汰されてしまうと感じたのです。

とはいえ、それを自分たちだけでやることには限界がある。どんな組織でも同じだと思いますが、20年もやってくると、組織の形とやり方が固定されてきて、新しいことに挑戦しにくくなってしまいます。そうなったら外から違う風を入れて固まったものを壊さないと、組織自体が駄目になってしまう。

そう思って、メンバーの意見を確認することもまったくせず(笑)、独断で玉三郎さんに鼓童との共演をお願いしに行きました。玉三郎さんは「最初から共演は難しいが、演出なら」とお引き受けくださって、2000年から佐渡の稽古場にお越しいただくようになりました。

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鼓童のメンバーにとっては、今までとはまったく異なる体験となり、戸惑いも大きかったようですが、玉三郎さんはそれを感じながらも、根気よく関わってくださいました。その時準団員だったのが、いま代表になっている船橋裕一郎や、石塚充の世代です。現在では、玉三郎さんが何かひとこと言うだけで、みんなすぐに理解するので、稽古は実にスムースに運んでいます。2012年からは芸術監督をお願いし、作品だけでなく、メンバーの体調管理から研修所の整備に至るまで、全体にわたる指導をしていただくようになっています。

Photo: Eri Uchida

振り返ってみると、35年間もよくやってこられたな、というのが実感ですが、自分たちの生きている時代だけで終わろうとしていたら、ここまでは来ていなかったと思っています。私には、太鼓芸能文化を、能や狂言や歌舞伎と同じように、何百年も引き継がれ、世界中の人々に楽しんでいただける芸能に引き上げたい、という夢があるんです。とても自分が生きている間にかなうことではありませんが、今やっておくべきことはあるはずです。玉三郎さんに指導をお願いしていることもそのひとつで、この貴重な時間にさまざまなことを学んでおくことが、10年後、20年後、30年後…100年後くらいに、必ず活かされると信じています。

これからも、生きている間にやらなければならないことを、精いっぱいやっていくつもりです。鼓童のメンバーたちも勉強を重ねて、もっともっと自身の表現を磨いてほしいと思っています。

ー鼓童創立35周年記念コンサートパンフレットより

 


<対談>梶原徹也氏が鼓童・見留知弘に突撃インタビュー


新作「混沌」のドラム監修の梶原徹也さん(元ザ・ブルーハーツ)と鼓童代表・見留知弘の対談をお届けします。大太鼓のこと、舞台や衣装の変化、太鼓への想いなど、梶原さんが見留へ突撃インタビュー。ぜひご覧ください。

<対談>
「混沌」ドラム監修・
梶原徹也氏 × 鼓童代表・見留知弘

2015年8月5日 鼓童村にて
写真:岡本隆史

Photo: Takashi Okamoto

梶原徹也(以下、K):鼓童さんに関わらせてもらって、早4年が経ちました。今まで外から見ていた部分と、最近では鼓童の中に入ってみての部分と、色々なものが見えてきました。鼓童ファンとしてですね、率直に、色んな質問させていただきたいなと思っていましたので…もう色んなこと聞きますけど良いですか(笑)。

見留知弘(以下、M):はい(笑)。

K:知弘さんが代表になられたのは何年ですか?

M:2012年からになります。

K:それまでは、藤本吉利さんとかが?

M:いえ、鼓童の演奏者の中では代表者はいませんでした。それまで鼓童の代表は、北前船の社長の青木孝夫が兼ねていたのですが、2012年に太鼓芸能集団鼓童とそれを支える3法人(株式会社北前船、公益財団法人鼓童文化財団、有限会社音大工)に分かれました。マネージメントする北前船は引き続き青木が立って、私は演奏者の代表として就任させていただきました。

K:なるほど。じゃあ組織として、かなりシステムが変わったっていうことなんですね。その趣旨っていうか、大きな意味はどういうことだったのでしょうか。

M:それまでは、演奏者もスタッフも含めて「鼓童」っていう所がありましたが、それをもう少し、役割分担を明確にするためにも、しっかり演奏者の代表を立てた方が良いっていうことがあり、話し合いました。

K:鼓童の一つのメインの顔として大太鼓っていうのがありますよね。それをまず吉利さんがずっとやってこられて、その後知弘さんが受け継いだ転換期のお話を伺えますか。

Photo: Takashi OkamotoM:遡っていくと鬼太鼓座時代の時には、林英哲さんがずっと大太鼓をされていました。鼓童になって英哲さんが抜けてから、吉利さんが大太鼓を打ってこられたんですね。その間に、今は離れてしまっているメンバーや、(齊藤)栄一さんが大太鼓を打っていた時期もありました。

そして、1980年代の後半ぐらいから大阪の高槻で3年に一度、高槻市内の全中学生対象の公演をやっていたんですね。で、自分が鼓童に入った年(1990年)に一番若手で参加しました。この公演は若手が中心で出演をし、普段は大先輩が叩いているパートを与えられて演奏する、とても貴重で実りある3年に一度の学校公演でした。

そして、その3年後の公演で「大太鼓をやりなさい」っていう風に言われまして、そこで初めて大太鼓を叩いたんですね。またその3年後の1996年の時も大太鼓を叩きました。そうやって場数を踏んでいく中で、1997年に初めてツアーでやってみないかという話がありました。吉利さんの次に私が続けて叩いていく形になり、その時代のメインは吉利さんでしたが、ツアーごとに代わりながら叩かせてもらいました。そして、何年も経験するようになってから自分に任せてもらった感じです。


Photo: Takashi OkamotoPhoto: Takashi Okamoto

K:今も玉三郎さんが “お仕置きタイム” と称して、若手メンバーに大太鼓を教えられてますけれども、あれがもう、見てて興味津々、面白くてしようがないですよね。その場にいる吉利さんも一つ一つ解説してくださるので(あ、そういうふうに打ってるんだ)と見ていて興味深いですし、知らない世界というか。そういう、手ほどきみたいなことは、昔からあったのでしょうか。

M:当時、具体的な手ほどきというのは、まぁ、ほとんど無かったと言っても良いかもしれないですね。もちろん、吉利さんの構成を参考にさせてもらって、自分なりに、自分の手を入れつつ作っていきました。吉利さんのスタイルは、どちらかと言うと裏打ちがあって一人で自由に打っていくっていうものでした。自分は最初そのスタイルから、裏打ちと一体感をもって作り上げていくっていうスタイルに変えていったんです。なので結構、裏打ちに助けられてる所もありますね。

K:へー、そうなんですか。

M:はい。だから、昔の大太鼓っていうと、裏打ちはもう淡々と叩いているだけという感じだったんですけれども、それを二者で一つのものを作り上げて相乗効果が出るスタイルにしました。私の場合は手(リズム)をほとんど決めてしまって、それに裏打ちも添わせて打ってもらっています。

K:そういうアイデアが出てくるっていう過程に、自分のスタイルや得意なものを追求していったことがあるのでしょうね。

Photo: Takashi Okamoto

M:自分なりの色んな手を考えていかなくてはならなかったので。今、”お仕置きタイム(大太鼓稽古)” でやっている、私の大太鼓の手を、今度は若手メンバーが最初の骨組みとして始めて、そこから自身オリジナルの手を入れてるんですけれども。吉利さんは持ち前のキャラクターで即興に近い形で叩いているところがありますね。私は逆に一個ずつ山を作って、それがトータルとしてクレッシェンドになるように考えたりしています。13分ほどの長い時間の演奏になると、それなりに展開していかないと同じ手が出てきてしまうので。

K:そして基本的にテンポが正確ですよね。

M:そうですね。でもやっぱりフレーズによってどうしても大太鼓って、テンポが揺れるんですよね。速くなったりとか遅くなったりとか。それに、裏打ちが結構合わせてくれていたりして。

K:一時期、小田洋介さんがずっと裏打ちをやってたっていう話を聞きましたが。

M:彼の感性って凄いですよ。何かこう、野生の勘と言うか。それで、表打ちの言いたいことを後押ししてくれたりとか、隙間をどういうふうにアクセントを入れたらいいか、感じて打ってくれました。そういう意味では洋介と一緒に作り上げた感じです。

Photo: Takashi Okamoto

K:玉三郎さんが芸術監督として関わられるようになってきて、舞台芸術として洗練された世界を追求する、というような流れになってきたじゃないですか。そのことについて最初はどういうふうに理解して消化していかれましたか。

M:遡ると、2000年から玉三郎さんに関わっていただいて、まず「鼓童ワン・アース・ツアー スペシャル」というのが、一番最初に玉三郎さんに3年かけて作品を作っていただきました。その時に、まず白い半纏を作られたんです。今まで着てる藍染の半纏を私たちはずっと着てきたんですけれども、それの白バージョンを作られました。

K:あ、写真で見たことある!

M:その時に、今まで自分たちは藍染しか着たことがなかったので、正直最初は(白ってどうなんだろう)と思いました。その後に「アマテラス」を経て、2009年に「打男」があり、佐渡での最終通しが終わって、翌日から東京に乗り込むという時に、玉三郎さんに「ちょっと髭生やしてくれない?」って言われて、「えっ!」って(笑)。更に、初めてタンクトップを着たり、頭にウィッグを付けたりしました。実際、髭を生やして普段と違う衣裳を着ると「自分じゃない」という感覚がありましたね。そして、2012年の「ワン・アース・ツアー〜伝説」の舞台で初めて半纏ではなくタンクトップとジーンズ姿、2部はきらきらの衣裳

K:はい、きらきらでしたね(笑)。

M:そうなった時に、最初はみんなにも戸惑いはあったと思います。なので、その戸惑いがお客さんに伝わってた部分もあったのかと、今振り返って思いますね。

K:あぁ、なるほどね、そうかぁ…

M:舞台の内容としては、1部の「カデン」は新作でしたが、でもそれ以外で、新しいスタイルの曲というのはなかったと思います。それに対して、タンクトップであったりとか、きらきらの衣裳だったっていうことが、それまでの鼓童とのギャップがあって。そこに対してお客様の戸惑いがあったと思うんですけれどね。アメリカではタンクトップというのは、どちらかと言うとあんまり良い印象がないようで、少し暴力的なイメージがあるらしいんです。なので日本ツアーではずっとタンクトップで通してきて、アメリカツアーでは腹掛とパッチで行いました。自分はアメリカ公演ではお客さんとして観たのですが、初めて観た時に、逆に凄く、その姿(腹掛やパッチ)に違和感があったんです。

K:あぁ、逆に。

M:「カデン」みたいな、ああいう自由な、今までに無かったセットの中での腹掛姿が、逆にこう、凄く違和感があったというか。それは、今まで自分が感じなかったことでしたね。「カデン」っていう曲にはタンクトップの衣裳の方が良かったんだと、初めてアメリカで感じました。

Photo: Takashi OkamotoK:なるほどね。へぇー。そっかそっか。じゃあ、もうそれはある意味の固定観念みたいなのがあったり、半纏とかにとらわれてたりした所を、良いふうに崩して変えていただいたということなんですかね。

M:そうですね。自分たちにも固定観念がありましたし、観ているお客様もやっぱり、鼓童の衣裳っていうのは半纏・腹掛というのが定着していたのですが、玉三郎さん的にそれは和太鼓の伝統的な衣裳ではないというお考えもあるので。「何でも着られる、何でも叩ける表現者であってほしい」っていうことを仰っていました。そういう意味で、「剥がしてもらった」って言うんですかね。自分たちだけではできなかったことだと思うんです。
今までの舞台は、自分たち鼓童の中だけでほとんど演出してきました。なのでどうしても演奏者の視点で構成を考えていた部分があったと思います。やっぱり玉三郎さんは外から見られているので、その舞台を、芸術作品を見るっていう視点で作られているのだろうと思いますね。お客様が観た時に作品として完成するよう、玉三郎さんが整えてくださった。「伝説」はちょっとずつ移行しながら、「神秘」はもうほとんど新曲で、「永遠」ももう全くゼロから作られたというように、少しずつ新しい要素を加えながら。演奏者も「神秘」の時から、玉三郎さんの作品としてゼロから一緒に作っていった経験が大きく、衣裳が半纏とは違うことには全然、抵抗感なかったと思います。なので、それもお客様に伝わって、衣裳に対する固定観念が払われた感じがやっとしました。

K:ちなみに次の作品の「混沌」では、その固定観念を破るという意味でドラムが出てきたり、タイヤが出てきたりするんですけれども、どういう風に、見えていますか。

M:玉三郎さんは、芸術監督になられた際に「鼓童の振り幅を大きくして、とにかく大きく振ってみて、何が返ってくるのかっていうのを見たい」っておっしゃっていたんですね。そういう意味では、段々段々振り幅が大きくなってきて。お客様も徐々にそういう新しいことに鼓童がチャレンジしている姿を受け入れてくださってきたと感じますし、玉三郎さんの演出の舞台から観ている方には最初からこういうものだと思われているので、そういう意味では、違和感を感じなくなってきているように思います。

K:そうなんですね。

Photo: Takashi OkamotoM:老舗のお店とか、何でもそうなのかもしれませんが、やっぱり長く続いていくものは、その時代の新しいものをどんどん取り込んでいますね。本質がちゃんとあれば、どんなものでも受け入れられていくのかもしれないですね。和太鼓の舞台芸能のこれから先についても、ずっと同じものだと、いずれ飽きられてしまうと思います。自分たちの昔のスタイルっていうのは、一個しかなかったんですよ。「鼓童ワン・アース・ツアー」といえば、「三宅」があって、「大太鼓」があって、「屋台囃子」というものがいつも登場する舞台でしたが、玉三郎さんは歌舞伎とかクラシックと同じように、レパートリーをたくさん作ってくださっているんです。「伝説」、「神秘」、「永遠」、それから「混沌」、その先にまだ作品を一緒に考えてくださっていますが、そういうのがあれば作品として繰り返し上演していけるし、人が代わってもその作品自体が残っていく。舞台芸術としてちゃんと成り立つように、先のことを考えてくださっています。そして、音楽的にも整えてくださいました。今までは「行け行け!」と大きな音で感情的な演奏もあったと思いますが、今はもっと抑制されて、作曲者の意図に沿ってできるようになってきましたね。そういう意味では凄く、表現の幅が広がったと思います。音も強いか弱いかだけではなく、何段階もの表現ができるようになってきたことは、玉三郎さんのご指導のおかげです。

K:一つ一つが本当に勉強になって、何か嬉しいというかね、本当に幸せな空間で。毎回、稽古が楽しいんですけれども。本質の部分というか、変わらない「核心」の部分で言うと、やっぱり人間の生きているエネルギーとか、自然と一体になるというか、そういうものを感じてそれを表現するみたいなことだと思うんですけれども。例えば「屋台囃子」は秩父の夜祭の太鼓を舞台向けにアレンジされていると思いますが、そういう所は、意識して鼓童で伝承されているのでしょうか。

M:研修所では必ず「屋台囃子」、「三宅」、それから伝統芸能の踊りなどを学びます、そういうものはやっぱり根っこになるんですよね。植物で言ったら舞台は花の部分で、研修所っていうのは見えない根っこの部分を作るところ。そこでやっぱり、どれだけ色んな経験してきたのか、どれだけ努力して頑張ってきたかっていうのが舞台に上がった時に光るものになると思います。でもあまりにも舞台と研修所がかけ離れているとギャップがあるので、最近は舞台でやっている演目も指導するようにしています。

K:この間、研修生の発表会も見させていただいて、技術云々じゃなくて、本当に何か必死にやっているっていう所で伝わってくる部分が凄くあって感動しました。「屋台囃子」にしても秩父の夜祭というのがあって、その秩父の神様や大自然の八百万の神々に対して、太鼓を叩いているということが基本じゃないかなと思っていて。獅子躍や鬼剣舞など他の芸能もそうですが、そういうものは全部こう、鎮魂だったりとか、感謝の気持ちだったりとか…研修所で田んぼや畑の作業をする中で、そういう自然への感謝を実感したり、学んでいることが凄いと思います。

Photo: Takashi Okamoto

M:そうですね。まず、研修所がある地元のお祭りに、担い手として参加させていただいてます。神事というか、そういう経験が凄い大きいと思いますね。例えば「屋台囃子」とか「三宅」は、現地を訪れることがなかなか難しいので、ビデオとか写真を見せて、「実際のお祭りはこういうものですよ、ここでこういうふうに叩かれてますよ」というのをまずちゃんと知ってもらうんですね。それを知らないと、ただ鼓童の舞台に上がっている太鼓だけを見て習得することになってしまうので。「元の芸能についてきちんと知った上で、鼓童のアレンジされたものを勉強していきましょう」というふうにしています。また太鼓は、それ自体にエネルギーがあると言うか、牛や大木、生きていたものから成っているので、そこに対する感謝っていうのを大事にしなくてはならないことも伝えています。

K:素晴らしいですね。そうやって追求していくと、自分も自然の一部であって、周りに感謝しているということは、自分も生かされているっていうことでもあると思います。自分にも一所懸命何かこう、自然界に還元しているっていう所に行き着く感じがして。叩いている中で、個々と個々とが凄い繋がって、どーっと響き合っているような、そんなとっても幸せな瞬間があるんですよね。

M:太鼓も結局「言葉」だと思います。何千人というホールで一番遠くの人に届かせるためには、きちんとしっかり、大きな声で喋らなきゃいけないというのと同じで、太鼓も滲んだような音ではなく、しっかりと伝わるような太鼓を叩かなくてはいけない。例えば、地打ちであったら「ソロを打つ人にしっかり伝えることを意識して、ちゃんと自分の音に責任を持ちなさい」という風に。「自分が出している音にちゃんと責任を持たないといい加減な音になってしまうので、そこをしっかり、もっと意識して、疲れていても口唱歌だけはちゃんとしっかり言い続けなくては」と。

K:なるほど。ドラムでは、その人の持っているエネルギーがぽーんと爆発していれば格好良いと思いますが、その代わり、スタイルだけ格好良さを持ってきちゃうと薄っぺらいものになっちゃいますね。そういうのはいつもね、心に留めていますけれども。

M:そういう意味で、私がやっぱりドラムの人の凄いと思うところは、テンションが上がっても、しっかりバンドを支えているっていう。どんなにテンションが上がってもテンポがキープできて、「ノリ」もきちんとキープできるところが素晴らしいと思います。

Photo: Takashi Okamoto

K:いやいやいや、それは人それぞれですよ。僕も走る方が好きなので、あんまり気にはしてないんですけれども。「全員走っていっちゃったらもう全然気にならない。」っていうバンドにいましたけど(笑)。
では最後に、見留さんとしての音楽観というか世界観というか、展望みたいなことを教えてもらえますか。

Photo: Takashi OkamotoM:自分は、従来の鼓童のスタイルでずっとやってきた人間なので、やっぱり何かこう、何て言うんですかね。自分に正直に真っ直ぐぶつかっていくことしかできないので、そういう意味ではあんまり変化球は投げられない。直球勝負しかできないので、それでも自分はそうやって演奏してきたので、最後まで貫いていきたいなという部分はありますね。

K:それは格好良いですね。

M:どっちかって言うと演奏者っていうよりは、まぁ職人に近い感じかもしれないんですけれども。

K:これからも真っ直ぐな太鼓をどうぞ叩きつづけてください。

M:ありがとうございます。


Photo: Takashi Okamoto

梶原さんと見留、対談後に固い握手。


【佐渡へ初演を観にいこう!】
23日、新作「混沌」佐渡初演!
http://www.kodo.or.jp/oet/20151123a_ja.html
11/22 17時まで受付:アミューズメント佐渡 Tel. 0259-52-2001、蔦谷書店佐渡佐和田店(窓口へ)
(鼓童チケットサービスでの受付は終了しました)
当日券は23日14時より劇場で販売

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「混沌」作品紹介

スケジュール(2015年11月佐渡初演〜12月)

「混沌」ブログ


梶原徹也 かじわら・てつや
1963年福岡県生まれ。ロックバンド「ザ・ブルーハーツ」の元ドラマーであり、世界中で演奏活動を続けるドラム奏者。ロック、和太鼓やダンス、アクロバット飛行機とのコラボなど、ジャンルにこだわらずパワー全開でドラムを叩いて、爆発する生命エネルギーを伝えている。また、バリアフリー・ロックバンド「サルサガムテープ」やフリースクールでの音楽講座など、大人数でリズムを自由に叩きながら、参加者全員で音楽の楽しさを共有する、という活動を積極的に行っている。2015年3月からは、鼓童メンバー・小田洋介とのバンド「えびす大黒」も始まった。


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見留知弘 みとめ・ともひろ
1970年8月17日生まれ。東京都足立区出身。5歳より地元の太鼓グループで太鼓を始める。1989年研修所入所、1990年よりメンバーとして活動。国内外のツアーで三宅や屋台囃子などの演目で数々の舞台に立つ。1997年からは大太鼓を担当し、長年にわたり舞台の精神的な柱として活動。2006年、樹齢600年の大木から太鼓をつくる「手作り欅太鼓プロジェクト」で棟梁を務めるなど、ものづくりへの情熱も熱い。2012年4月より4年間、太鼓芸能集団鼓童の初代代表に就任。ソロ・小編成公演、ワークショップなどで活動の幅を広げる一方、一打一打へのこだわりと正確な技術で、研修生への指導にも尽力する。


石塚充インタビュー by ジョニ・ウェルズ


ジョニ・ウェルズ氏が、石塚充にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。

石塚充インタビュー by ジョニ・ウェルズ

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鼓童村にて(写真:ジョニ・ウェルズ)

石塚充の父親は太鼓界で先駆的存在である助六太鼓の結成メンバー、兄と妹はプロの太鼓奏者、弟は太鼓職人の見習いである。充は5歳の時に舞台デビュー。しかし、鼓童研修所2年生のとき、太鼓についてそれまでに学んできたことを全て忘れ、ゼロからのスタートを切ることを決意した。

Photo: Takashi Okamoto

石塚充は、1979年8月6日に東京で太鼓の世界に生まれた。4歳のとき、両親が子どもを育てるのに良い環境だろうと考え、埼玉の山の中腹に一家で引っ越した。父と兄はプロの長唄のの囃子方の打楽器奏者だ。母は太鼓奏者で、弟は東京で太鼓づくりの修行をしている。そして、妹は横浜で太鼓を教えている。

一番古い記憶は、父の部屋から聞こえてくる鼓の音だ。充が初めて舞台で太鼓を演奏したのは5歳のとき。小学生の時は父親が指導していた地元の太鼓グループに参加していたが、当初は親やまわりの大人のすすめではじめただけで、特別自分がやりたいとか、楽しいという気持ちはなかった。
充が中学生になり、学校の民族芸能クラブに入ってその心境が変わった。そこでは、三宅や屋台囃子、鬼剣舞などを稽古した。これまでと違う環境で太鼓を演奏することで自立心が生まれ、太鼓を心から楽しむようになった。中学、高校時代はほぼ毎日太鼓を打っていた。学校の太鼓部だけではなく、家に帰ってからも兄や友達と一緒に太鼓に興じていた。まさに、太鼓漬けの日々を送っていた。音楽の好みは幅広く、学校でアコースティックギターのライブをすることもあった。

父や兄の姿を見て来た自分にとって、太鼓や舞台の世界へ飛び込むことは自然な選択だった。高校2年か3年の時、他の鼓童メンバーと同様、東京の新宿にあったシアターアプルで鼓童の舞台を初めて観た。

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屋台囃子(石塚充は前列左)

鼓童の舞台やそのグループの背景は、太鼓という人生を選んだ自分にとって、挑むべき道であると感じた。そして、充は鼓童について調べはじめた。鼓童の研修プログラムに応募することを決意したが、その年の応募期限は過ぎてしまっていた。そのため、他の太鼓関係の仕事を探した。父親の知り合いがフリーの太鼓奏者として活動していたので、付いて回り、裏方として、また演奏者として1年間を過ごした。時々報酬も得た。今振り返ってみると、一年間旅をして良かったと思っている。高校を出てすぐ何も知らないまま鼓童に入るよりも、人生についての視野が広がった。

充は研修所に入ったとき、徹底的な鍛錬を求めていた。厳しさと痛みを予想していたし、もしかしたらそれを望んでさえいたかもしれない。しかし、本物のプロとして舞台に立てるようになるための、世界中の人々にメッセージを伝えられるようになるためのトレーニングと稽古は想像以上に厳しかった。一年目は、できる限り一所懸命に取り組んだ。体力とスタミナを付けるためにトレーニングをし、テクニックを磨き、音楽の曲想をよりよく伝え、演奏でニュアンスを付けられるように稽古に励んだ。そして、プロの舞台人として、また、人として何よりも大切なこと、精神的に強くなるために必要な厳しいトレーニングにも堪えて努力しつづけた。その時まで充は、ただ楽しくて、自分の楽しみのために演奏していた。しかし、それまでのやり方を続けていれば、自分の能力に対して本当に成功できるという自信を持てないと感じた。

それを克服して本当に良い演奏者、“プロ”になるために、そのときまでの自分を全て捨ててしまわなければならない。ゼロからのスタート。二年生の一年間は、そのような意気込みで研修に取り組んだ。

その瞬間から、研修所での経験は全く変わった。きついと思っていた稽古は面白く感じるようになり、自分の太鼓が大幅に上達したと感じた。そして、鼓童の準メンバーとして認められ、すぐに交流学校公演ツアーに参加した。佐渡の辺鄙な場所で凍えながらも汗を流した2年半の後、再び観客の前で太鼓を演奏し、聴いてもらうことは、とても気持ちが良かった。

鼓童メンバーとしての14年間に、充は、手首を使う桶胴太鼓よりも、体全体を使って演奏する平胴太鼓のような大きな太鼓を得意とするようになった。鬼剣舞のような踊りや佐渡の鬼太鼓も好きだし、何曲か作曲もしている。その内最もよく演奏されるのが、「あじゃら」と「また明日」の2曲だ。また、26歳の時から、「鼓童ワン・アース・ツアー」、「鼓童12月公演」、「アース・セレブレーション」等、沢山の舞台の演出を担当してきた。そして、「アマテラス」では坂東玉三郎氏のもと、音楽監督を務めた。

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(写真:宮川舞子(左)、岡本隆史(中央・右))

Photos: Takashi Okamoto

芸術監督・坂東玉三郎氏との作品作りについては、充は、生み出される作品そのものだけではなく、むしろ作品の作り方がこれまでと異なると言う。玉三郎氏は太鼓奏者ではなく、また作曲者でもない立場で、観客としての視点から作品を見ている。そして、決して「こんな音をください」とは言わない。それよりも、「このようにしたら、もっと気持ち良い音になりますよ」という言い方をする。芸術監督は歌舞伎俳優なので、舞台上での感覚や気持ちをどのように表現するかということに関心がある。特別難しい曲を演奏した後に、玉三郎氏は、「こう動きなさい、ああ動きなさい」とは言わず、「今こんな気持ちだったら、その時に自分が自然と気持ちよいと思えるように動きなさい」と言う。それはテクニックの問題ではなく、どのように感情を表現するのか、ということだ。

また、玉三郎氏は鼓童にとって新しいことに挑戦すること、今まで誰も舞台に乗せようと思ったことがないアイディアに対し、抵抗がない。しかし、このように自由がある反面、新しい作品を創造する責任は大きくなっている。玉三郎氏の演出のもと、鼓童は従来の「鼓童ワン・アース・ツアー」を主体とした公演から、「アマテラス」、「伝説」、「神秘」、「永遠」など、作品の幅を広げてきた。そして、これからまだまだ生まれる予定だ。

また、充が何度も出演している「打男」という公演もある。打男のアイデアは、何もない、装飾もない舞台に全くシンプルな衣装、太鼓以外の楽器はほぼ使わないというもので、観客はまるでプライベートな太鼓セッションに聞き耳をたてているような感じがする。ひたすらに太鼓を打って打って打ちまくりその喜びを伝える舞台で、90分の後には観客は演奏者と一緒に走っていたかのような疲労感を感じるに違いない。それは心地よい疲労感だ。充は、「打男」という作品に関わって以来、通常の鼓童公演を難しいと感じなくなった。

演奏者として、充は自分の周りの人々の期待にきちんと応えることを楽しみにしている。そして、演出では、玉三郎氏から学んだことを少しでも舞台上で実践できるようになることを望んでいる。

Photos: Takashi Okamoto


石塚充は、「鼓童ワン・アース・ツアー2015〜永遠」ツアーに参加中。6月10日(水)から15日(金)まで、浅草公会堂での鼓童「打男DADAN2015」公演にも出演いたしました。

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「永遠」6〜7月、9〜10月国内ツアー
http://www.kodo.or.jp/news/20150606oet_ja.html

【6〜7月】新潟・神奈川・埼玉・群馬・千葉・大阪・長野・京都・愛媛・広島
【9〜10月】千葉・茨城・宮城・山形・岩手・秋田・静岡・愛知・兵庫・鳥取・山口・福岡・鹿児島


ジョニ・ウェルズ(Johnny Wales)

1953年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学卒業(学士号取得)。1975年に初めて日本を旅行、その際、鼓童の前身である「佐渡の國 鬼太鼓座」に出会う。また文弥人形の師匠である浜田守太郎氏にも出会う。1976年カナダに帰国、鬼太鼓座の初めてのカナダツアーの制作を担当。1977~78年、佐渡に住み文弥人形を学ぶ。それ以来、鬼太鼓座、そして鼓童の仕事にたびたび関わりながら、文弥人形の指導、通訳、翻訳、また舞台照明の仕事に従事。その後、文弥人形の指導、活動をしながら木彫師として鼓童の舞台で使用する面を作成。1987年には The Kodo Beat(英文ニュースレター、2011年春に終刊)の最初の編集者として活躍。写真家、イラストレーター、そして Kodo eNews(英文電子ニュースレター、2013年12月に終刊)やブログ作成にも関わる。現在、ジョニ・ウェルズはフリーランス・イラストレータ、アニメーター、木彫師、人形遣い、そして作家としての肩書を持つ。カナダでは7冊の児童向け作品の挿絵を描き、その中の一冊『Gruntle Piggle Takes Off』(Viking Childrens Books出版)において、1996年、カナダの文学作品賞であるThe Governor General’s Awardの候補となる。1995年より、読売新聞にて、東京についてのイラストによるコラムを連載。現在、佐渡にて妻・智恵子と秋田犬のKyla (カイラ)とともに暮らす。

Website: www.johnny-wales.com (英語・日本語)


船橋裕一郎インタビュー by ジョニ・ウェルズ


ジョニ・ウェルズ氏が、船橋裕一郎にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。

船橋裕一郎インタビュー by ジョニ・ウェルズ

船橋裕一郎(写真:ジョニ・ウェルズ)

船橋裕一郎(写真:ジョニ・ウェルズ)

船橋裕一郎は、1974年5月9日に、サラリーマンの父と病院勤務の母の間に生まれる。神奈川県南部の二宮町出身。6歳上の姉がいる。子供の頃は周囲の盛り上げ役で、サッカーと野球に興じる日々を送っていた。その当時はコマ回しが一大ブームで、コマ回しにも夢中になった。裕一郎が生まれたのは第二次ベビーブームの終わり頃で、どこも子供で溢れかえっていた。小学校には1,000人以上の児童が通っていたため、友達と遊ぶには事欠かなかった。

中学校ではバレーボール部に入部。以来、高校に上がるまでバレーボールに明け暮れる日々を送った。高校は近所にあったものの生徒数が非常に多く、知らない顔に囲まれてどこか浮いているような感じだったと言う。アメリカン・フットボールと茶道という全く異なることを習いながら、遺跡発掘のアルバイトにも通い、とても物憂い3年間をやり過ごした。その後、京都造形芸術大学へと進む。大学では考古学と発掘物の保存を学んだ。発掘を楽しみ、水中考古学にも興味を持ち始めた。スキューバダイビングの免許取得のための準備をしていた時、人生の岐路に差し掛かる。太鼓が人生に登場したのだ。
ある日友人に誘われ、大学に新しく出来た太鼓クラブに顔を出すようになった。10人ぐらいの男女が1週間に数度の活動を始め、「和太鼓しん」というグループ名を背中に入れた法被を作るまでになった。京都の和太鼓奏者から指導を受け、ついには地域のイベントに出演できるほどになった。裕一郎曰く、「当時の私は技術を情熱でカバーしていました。」

大学2年のある日、裕一郎は鼓童のコンサートを観る。「これは一体何だ?!」。鼓童の演奏は見せ方も音も全く違った。鼓童のスタイルはシンプルで真っすぐで、余分な物を削ぎ落としたものだった。そして卒業後、プロの太鼓奏者を目指し鼓童に入ることを考えはじめた。第10回目のアース・セレブレーションを観に佐渡へ渡ったことがあり、全く知らない世界に飛び込むわけではなかった。鼓童と佐渡はとても楽しいように見えた。しかし、それは8月のこと。鼓童の研修生に応募することを決め、次に佐渡へ渡ったのは1月のある日。吹雪の中、荒れる海を渡った。冬の雷を目の当たりにしたのはその時が初めてだった。研修所への入所試験は上手く行き、合格。両親の応援を受けて佐渡へやってきた。

研修所での2年間は、人生を変える経験だったと振り返る。稽古と生活スタイルはとても厳しいものだったが、辞めようと思うことはなかった。一番辛かったのは、遠く京都にいる彼女(現在の妻)と離ればなれになっていることだった。

そして研修所の2年生の時、数人の先輩プレイヤーが佐渡南東部の柿野浦にある研修所に来た。初めて間近で彼等の演奏を聴いたことはいつまでも忘れられない。自分が出す音とは、音量だけではなく質も全く異なり、自分にはそんな音を出すことは無理ではないかと痛感した。この時、今まで太鼓について学んできた全てのことを忘れ、もう一度ゼロからスタートを切ることを決意した。

稽古以外にも、研修生は多種多様な活動に取り組む。農作業、茶道、狂言、様々な物作り。本当に沢山の科目が詰め込まれているので、太鼓の稽古にもっと時間を使えたら良いのに、と思うほどだった。

Photo: Takashi Okamoto

2年間の研修所生活の後、新しいミレニアムの最初の年に、鼓童への入団を認められた。他の準団員らと共に春の学校交流公演ツアーに参加した。裕一郎は今日まで、研修所で共に過ごした仲間との強い絆を感じている。その後14年間に渡り太鼓や歌、踊りを担当してきた。またアース・セレブレーションの城山コンサートの演出も何度か担当した。

Photos: Takashi Okamoto

裕一郎は現在、鼓童ワン・アース・ツアーの最新作「永遠」に深く関わっている。坂東玉三郎氏の演出による舞台は「アマテラス」には出演していたが、「伝説」と「神秘」の公演時には学校交流公演ツアーに回っていた。

「伝説」は、鼓童がこれまでに積み重ねてきたものを土台に、新しい作品を織り交ぜたものだった。「神秘」は島根県・石見神楽の蛇舞に取り組む等、日本の伝統的な芸術モチーフを含んでいた。

Photo: Takashi Okamoto

しかし「永遠」は全てが新しい。演奏される曲の一つ一つがこの舞台のために作られたものだ。1年前に舞台の創作が始まる時、玉三郎氏は作曲や舞台のアイデアを練る際に心に留めておいてほしいことを書き示した。例えば、「季節」、「朝日」等についてである。それから演奏者達は作曲に励み、玉三郎氏に披露した。「永遠」は、玉三郎氏が選んだアイデアを使いながら徐々に形になり始めた。

Photo: Takashi Okamoto

Photos: Takashi Okamoto

玉三郎氏は折に触れて小さな音の重要性を説く。速度と密度が増して減ること、初めに戻りまた繰り返すことを好む。それは大きな輪の中の人生のようであり、時間そのもののようでもある。裕一郎は初めはよく分からなかったが、今ではプレイヤー達は皆「永遠」の感覚を掴みはじめていると言う。鼓童の舞台は、これまで演目の集合体を一つの作品として仕上げるものだったが、玉三郎氏は舞台を一つの創作と見ている。これまでは一つの曲が静けさから爆発的な盛り上がりまでを網羅していたが、玉三郎氏との舞台づくりでは、それぞれの曲は、一つの大きな絵の一部になっている。ある曲がある一定まで進んだら、終わりに向けてボルテージが上がることなく、そのまま終わることもある。そして次の曲はさらに盛り上がる、というような感じだ。

Photo: Takashi Okamoto

演奏者達は、一つ一つの曲のために感情をコントロールして抑制することを稽古しなければならない。裕一郎はそれはとても難しいと思うが、反面とても自由であるとも感じている。古くからの鼓童ファンも、鼓童が挑戦し、新しい太鼓芸能を切り開いていることを理解してくれることを願っている。

Photo: Takashi Okamoto

裕一郎は、鼓童の従来の演目を繰り返し演奏することも好きだが、成長したいとも強く思っている。新しい方向性に向かうことに喜びを見出しているが、不安な要素もある。公演日まで1、2か月しかないのに、まだ舞台が完成していないのだ(2014年秋現在)。玉三郎氏は「大丈夫!何とかなりますよ!」と言うが、曲はどれも技術的にとても難しく、全て一から学ばなければならない。裕一郎は不安であることを隠さない。

インタビューにて(写真:ジョニ・ウェルズ)

インタビューにて(写真:ジョニ・ウェルズ)

裕一郎は定期的に舞台に立つ団員の中で、最も年輩になったことを自覚している。太鼓芸能集団鼓童の副代表として、団員を管理し舞台をやり遂げることへの責任も強く意識している。どうすればこのグループをより良くできるのか。どうすれば団員として、また観客から見て楽しいグループになるのか。一人一人が自分の力を最大限に発揮するにはどうしたら良いのか。不惑を迎え、裕一郎は先輩プレイヤーと若いプレイヤー達、鼓童の偉大な歴史とまだ見ぬ心躍るような未来とを繋ぐ責任を感じている。

(インタビューは2014年秋に実施)
稽古・舞台写真:岡本隆史

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「永遠」6〜7月、9〜10月国内ツアー
http://www.kodo.or.jp/news/20150606oet_ja.html

▼船橋の母校公演!京都造形芸術大学内・春秋座「永遠」公演
7月11日 http://www.kodo.or.jp/oet/20150711a_ja.html
7月12日 http://www.kodo.or.jp/oet/20150712a_ja.html
【問】京都芸術劇場チケットセンター Tel. 075-791-8240


ジョニ・ウェルズ(Johnny Wales)

1953年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学卒業(学士号取得)。1975年に初めて日本を旅行、その際、鼓童の前身である「佐渡の國 鬼太鼓座」に出会う。また文弥人形の師匠である浜田守太郎氏にも出会う。1976年カナダに帰国、鬼太鼓座の初めてのカナダツアーの制作を担当。1977~78年、佐渡に住み文弥人形を学ぶ。それ以来、鬼太鼓座、そして鼓童の仕事にたびたび関わりながら、文弥人形の指導、通訳、翻訳、また舞台照明の仕事に従事。その後、文弥人形の指導、活動をしながら木彫師として鼓童の舞台で使用する面を作成。1987年には The Kodo Beat(英文ニュースレター、2011年春に終刊)の最初の編集者として活躍。写真家、イラストレーター、そして Kodo eNews(英文電子ニュースレター、2013年12月に終刊)やブログ作成にも関わる。現在、ジョニ・ウェルズはフリーランス・イラストレータ、アニメーター、木彫師、人形遣い、そして作家としての肩書を持つ。カナダでは7冊の児童向け作品の挿絵を描き、その中の一冊『Gruntle Piggle Takes Off』(Viking Childrens Books出版)において、1996年、カナダの文学作品賞であるThe Governor General’s Awardの候補となる。1995年より、読売新聞にて、東京についてのイラストによるコラムを連載。現在、佐渡にて妻・智恵子と秋田犬のKyla (カイラ)とともに暮らす。

Website: www.johnny-wales.com (英語・日本語)


山口幹文インタビュー by ジョニ・ウェルズ


ジョニ・ウェルズ氏が、山口幹文にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さまにお届けします。

山口幹文インタビュー(Johnny Wales

 

Photos: Johnny Wales

山口幹文 インタビューにて(写真:ジョニ・ウェルズ)

1954年茨城県生まれ。5歳の時、東京へ引っ越す。高校と大学でクラシック音楽(作曲、チェロ等)を学んだ。作曲や編曲の他、笛をはじめ、箏、三味線、胡弓等の和楽器以外にも、フルート、チェロ、ピアノも演奏する。

Photo: Takuro Susaki

「クラシック音楽を学んでいた頃、同級生、そして先生までもが日本の伝統音楽をやや軽視する傾向にありました。ドイツやイタリアの音楽と比べて、まだ“本物”ではないと考えられていたんです。そこで、何かがおかしいなと思いはじめた。日本人なのに、日本文化にもっと敬意を持たなくて良いんだろうか。それから、能や歌舞伎の公演に足を運び、三味線、箏の演奏や声明も観るようになりました。それを聞いていると、自然にすとんと入ってきた。それで、西洋音楽をやるよりも、邦楽の方が自分を表現できるんじゃないかと考えはじめ、18歳の時に近所の三味線と箏の先生の所へ通いはじめました。とても早く上達できてびっくりして、西洋音楽ではない、自分にとって自然な道に進みたいと思いました。」

「同時に、都会での生活にうんざりしていて、田舎で音楽に関わりながら生活できたら良いなと思っていた。ある日、車でラジオを聞いていたら、宇崎竜童さんが、佐渡島で“佐渡の國鬼太鼓座”と一緒に音楽を作ってきて楽しかったって興奮気味に話していたんです。『太鼓が凄くて』と言っていて、太鼓か…..と思っていたら、『箏と三味線も良かったよね』と続いた。その話しに魅了され、すぐに鬼太鼓座のレコードを2枚買いました。それで人生が変わりましたね。箏と三味線を習っていたから、もしかしたら自分も何かできるかもしれないと思いました。鬼太鼓座の厳しいトレーニングについて聞いていたので、自転車を買いました。自転車で佐渡まで行けば、体が鍛えられるだろうと思ったんです。アルバイトを辞めて、銀行口座のお金を全部引き出して3ヶ月の旅に出ました。」

「1980年11月の半ばに佐渡に辿り着きました。その頃の鬼太鼓座は、真野湾を見下ろす古い校舎にありました。連絡せずに行ったものだから、『事前に連絡しなさい』って怒られたけれど歓迎してくれて、明け方に一緒に走ったり、炊事や掃除を手伝ったり、トレーニングを見学したりして3日間一緒に過ごしました。そこで1月には佐渡に引っ越すこと決めて、一度東京に戻りました。その頃は入団試験も研修制度もなく、やる気さえあれば誰でも入座できました。もし今だったらとても入れなかったと思います(笑)。」

「当時はちょうど鬼太鼓座が田耕(でん・たがやす)さんとの分裂騒ぎの最中で、グループとして揺れている時期でした。一旦東京に戻った時に田さんと会って、1週間ほど東京事務所でお手伝いをしていました。鬼太鼓座の人から、田さんはひげは好みではないと聞いたので、気を利かして剃っちゃったんですが、『ひげを生やせ。笛を吹け』と田さんに言われました。何でひげと笛なのかと妙な気持ちになりましたが、まあ、この一言でぼくの運命が決まったことになります。年が明けて佐渡に渡り、皆がツアーに出掛けている間、6か月間留守番をしながら笛の稽古をしていました。それから間もなく一緒にツアーに行くことになり、以来演出にも携わるようになって、35年以上そんな生活を続けてきました。」

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内田依利インタビュー by ジョニ・ウェルズ


ジョニ・ウェルズが氏が、「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」と坂東玉三郎氏との作品作りについて、内田依利にインタビューを行いました。英語のブログに掲載されているインタビューを和訳して、皆さんにお届けします。

内田依利(うちだえり)は愛知県生まれ。鼓童メンバーの正式なメンバーとなって5年目。太鼓以外にも、唄、篠笛、踊りを担当。「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」では出演だけでなく、作曲も担当しています。

内田依利インタビュー by ジョニ・ウェルズ

 

Eri Uchida, Kodo Rehearsal Hall

内田依利(鼓童村の稽古場にて)

「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」は、坂東玉三郎さんを鼓童の音楽監督にお迎えしてからの第二作目です。今回、鼓童メンバーが作った曲のほとんどが新曲です。私にとって、玉三郎さんの第一作目「伝説」と、この第二作目の「神秘」の一番の違いは、女性メンバーがこれまで以上に活躍しているという点です。今までの鼓童の公演では、屋台囃子と大太鼓に向かって盛り上がっていって、お客様は男性奏者の強い印象を持ってお帰りになると思います。でも、「神秘」では女性奏者の印象も同じくらい残るかと思います。作品作りの始めの段階では皆で色んなことを試してみましたが、そのうちのいくつかは、演目として成り立つのかな、という不安もありました。この作品では、いつもに増して演劇的な要素があります。

「神秘」の演目のうち、二曲を私が作りました。「晴れわたる」という笛と太鼓を主体とした曲と、第二部の一曲目、「Chit Chat」という曲です。「Chit Chat」では、いわゆる「女子会」での女の子達のおしゃべりの様子を表現していて、第二部は、女性奏者が演奏しながら一緒に笑い合っているシーンから幕が開きます。

Chit Chat (From left: Maya Minowa, Mariko Omi, Eri Uchida, Akiko Ando)

Chit Chat
(左から:蓑輪真弥、小見麻梨子、内田依利、安藤明子)

一年前、玉三郎さんが私達に「神秘」をテーマにした曲を考えてアイデアを出すように言われました。私はそれまで作曲なんてしたことがなかったのですが、どうにかこうにか幾つかの曲を作って提出してみました。どうなるかは神のみぞ知る、です。でも、そうしたら何と使って頂けることになりました!それを機に、これからもっと作曲したいなぁと思うようになりました。作曲をする過程で、何かを創り出し、自分を表現するためには考え過ぎてはいけない、ということを発見しました。でも、もっと良いものを創るためには、沢山勉強しなきゃいけないなと思っています。

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藤本容子インタビュー by ジョニ・ウェルズ


「CDとコンサートのお知らせ」

3月にソロCD第二弾「やまず めぐるも ~よろこび悲しみ とけるままに~」をリリースした藤本容子。9月20日(土)と23日(火・祝)には、佐渡で「やまず めぐるも」と題した公演も行います。このCDにかける思いを、ジョニ・ウェルズ氏が藤本容子にインタビューを行い、英語ブログに掲載しました。このブログを和訳したものを元に、藤本容子がさらに言葉を加え、皆さんにお届けいたします。
(和訳・編集:鼓童広報部)

藤本容子インタビュー by ジョニ・ウェルズ

Yoko Fujimoto talks to Johnny Wales

はじめ、このCDは、とても個人的な実母への思いから、制作のきっかけが生まれました。そして、内容を考える過程で、その初めの思いに加えて、「生命のご縁」への思いが、深く混じり合って行きました。

遠い昔から今日まで、人間の生命は、脈々と続く一筋の道のように思います。その道筋は上昇しつつ螺旋を描いて、様々なところで、もう終わってしまったと思っていたご縁が、また別の形で復活したり、結びついたご縁が、また新たな結びつきを産んだりしながら、より豊かに光と影を織り込んで行きます。

終わりの無いサイクルの中で、生まれ変わり続ける人間の生命とご縁は、まさに神秘の曼荼羅。「その曼荼羅の光芒の一辺でも、見て聴くことのできる形にできたら」という思いが、このCDになりました。

タイトル「やまず めぐるも」は、その思いをもとに、収録曲「風車」の歌詞から選んだものです。

このCDの芯になった、「マルティーナの子守唄」のことを、お話ししましょう。史実をもとにした、イタリア映画「やがて来る者へ」(原題:L’umo che verra)のエンディング・テーマです。平穏な山里が、一変して殺戮の現場となり、8歳の少女マルティーナと生まれたばかりの弟が生き残ります。彼女は、一年前に生まれたばかりの弟が自分の腕の中で無くなり、そのショックで口がきけなくなっています。しかし、家族を殺され、この世にただ二人残されて、弟を腕に抱いた彼女の「この子は死なせない!」という声なき魂の叫びは、これまでの守られる側から守る側へ、彼女を一夜にして変身させるのです。

あらゆる努力と智慧に尽したすえに、日だまりの中、ぼう然と弟を抱きながら(たぶん無意識に)歌うシーンで映画は終わります。

幼く、無力の極みにあるマルティーナが、懸命に健気に、自分のことを横に置いて弟の生命を守ろうとしている姿に、私は、人類の生命の歴史も見たような気がしました。弱く無力な人々による連綿たる多くの貢献があったからこそ、今、人類はこの地上に生き延びているのではないかと思いました。これは悲劇であり、同時に、か弱いけれども偉大な希望の物語だと思いました。

何度も繰り返してうたを聴き、それが身体に入ったとき、彼女の目にみえるものを言葉に写して、詩を作り、歌い始めました。

永遠、励まし、無邪気、愛、あこがれ、歓喜、友情… 7曲が納められたこのCDから、皆さんに、人間の心の万華鏡のようなきらめきを感じていただけたら幸せです。

CDを作る直前で、久しぶりに会った友人から、私の引きがちな性格に対して、とても厳しい励ましの言葉をもらったことがあります。自分の弱い現実に向かい合った時でした。そのときの気づきと「心機一転」が、このCDの内容に大きく結びつきました。

感謝しつつ、抽象画家であるその友人の絵を、ぜひCDジャケットに使わせていただこうと、お宅を訪ねたときのこと。沢山の素晴らしい絵の魅力に引き込まれて見入っていると、「CDのタイトルは?」と聞かれました。「『やまず めぐるも』ってしようかなあと思っているんだけど」と言うと、「ちょっと待ってて!!」と別の部屋に入ってゆき、小さなガラス絵を持ってきました。冬の午後の柔らかい光を通しながら、その絵の、なんという美しさだったことでしょう!

彼女の「これは、私の一番好きな作品なの。タイトルは『めぐる いのち』!」その一言で決まり! でした。
「この世に、偶然は無い」って本当だなあ。

CDの音楽は、木村俊介さんにお願いしました。鼓童として「アマテラス」の音楽や、千絵子の「ゆきあい」の舞台音楽、また、EC最終日夜の「宵のゆんづる」も俊介さんの作曲です。私も、ソロコンサートでお世話になったり、その他同じステージを踏むチャンスをいただいてきています。今回は、木村さんが笛などの演奏を始め、音楽監修を務めてくださり、その他、津軽三味線、和太鼓、13弦と17弦の箏、ワールドミュージックのパーカッション、そしてヴァイオリンの演奏で、私のうたを生かしてくださいました。素敵なCDができました。木村さん、演奏陣のみなさんに感謝です!

このCDは、サンニャ・プロジェクトと音大工の共同制作です。今後、容子はサンニャ・プロジェクトの名で、ソロの活動をして行きます。この名前はサンスクリット語でスーニャ。チベットの言葉で「空(くう)」を意味します。名前との出会いについては、いつかまたの機会にお話しいたしましょう。

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前田剛史インタビュー by ジョニ・ウェルズ


長年鼓童の活動に関わってきたジョニ・ウェルズ氏が、アース・セレブレーション・城山コンサート2日目「大地の祭」の演出を担当する前田剛史のインタビューを行いました。佐渡弁を自由自在に操るジョニ・ウェルズ氏の日本語によるインタビューは、英語のブログに掲載されています。その一部を和訳して、皆さんにお届けします。
(和訳・編集:鼓童広報部)

前田剛史インタビュー by ジョニ・ウェルズ

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インタビュー直後の前田剛史(写真: ジョニ・ウェルズ)

前田剛史(以下剛史)は1986年8月28日、兵庫県生まれ。山を駆け回ったり川で魚釣りをしたりと、自然豊かな環境で育ち、サッカーや音楽に夢中の少年時代を過ごしました。11歳になると、地域の子供の太鼓グループ「はたっこ太鼓」に参加、太鼓や笛、踊り、唄等を学びました。将来の夢は「太鼓演奏者になること」。両親はそんな剛史を全面的サポートしました。 高校生になってからは琴や三味線も習うようになり、和楽器の世界に魅了されていきました。

剛史は中学生の時、初めて鼓童の音楽をCDで耳にしました。そして、鼓童の神戸での公演を観に行き、生で鼓童の響きを体感。その時、鼓童の舞台を目指すことを決意しました。「鼓童のメンバーが、舞台でとても輝いていました。」と彼は話します。

高校3年生の時に鼓童文化財団研修所の研修生に応募。1月の雪で覆われた佐渡での面接試験を経て、4月から晴れて研修生となりました。2年間の研修期間を経て、準メンバーとして合格。初ツアーで訪れたのは、剛史の故郷の近く、初めて鼓童を見た神戸。鼓童の半纏姿に身を包んで鼓童の一員として演奏する姿を見てもらうことで、剛史は何年もの間応援し続けてくれた同級生や両親に感謝の気持ちを伝えることができました。


 

2014 交流学校公演
上: (左から順に) 中込健太、前田剛史、船橋裕一郎、石塚充
下: 中込健太(太鼓)、前田剛史(琴)、立石雷(篠笛)
(写真:岡本隆史)

佐渡に来て10年、剛史は太鼓だけではなく、笛、唄、踊り等、舞台で幅広く活躍するようになりました。作曲、演出も手掛けるようになり、今年は交流学校公演の演出を担当しています。

交流学校公演では「和の文化」の素晴らしさを伝えることを念頭にプログラムを練り上げました。鼓童のメンバーの太鼓演奏を聞いた子供たちが、「僕もやりたい」「私もやりたい」 と思ってもらうことを、剛史は願っています。

 


Tsuyoshi rehearses with the cast of "FLAMENCO Sonezaki Shinju," produced by Yoko Agi with musical direction by Ryudo Uzaki. This production features flamenco by Mayumi Kagita and Hiroki Sato's dance company ARTE Y SOLERA.(Photo: Narumi Matsuda)

前田剛史が出演した「フラメンコ曾根崎心中」でのリハーサル風景。阿木曜子氏プロデュース、宇崎竜童氏音楽監督のこの作品は、鍵田真由美氏と佐藤弘樹氏のダンスカンパニー「ARTE Y SOLERA」によって舞台化されました。

またここ数年、他のミュージシャンとのコラボレーションにも積極的に参加しています。今年4月には、阿木燿子氏プロデュース・宇崎竜童氏音楽監督の「FLAMENCO 曽根崎心中」に参加。Arte y Soleraのフラメンコの作品で、様々なジャンルのミュージシャンと共演しました。


Shiroyama Concerts, Earth Celebration 2013 (Photos: Maiko Miyagawa)

アース・セレブレーション2013 城山コンサート
(写真:宮川舞子)

 

今年は交流学校公演に続き、アース・セレブレーション・城山コンサート2日目の「大地の祭」でも、演出を担当しています。これは屋外で開催されるコンサートで、特設舞台が桜の木に囲まれた芝生の上に設営されます。観客と出演者が一体となって作り上げる、普段の舞台とは異なった特別な空間。剛史は、太鼓の楽しさと力強さを表現したいと考えています。

「演奏することを心から楽しんでいる」と剛史。太鼓のリズムをやフレーズの一つ一つをきちんと打ち、日々成長できるよう稽古に励んでいます。


剛史が鼓童で作った曲の一つ「夜道」は、昨年12月より始まった「鼓童ワン・アース・ツアー~神秘」で演奏されています。この曲を聞いた人が、その人の持つ故郷、自然の中の情景を思い出せるように、そんな思いで作った曲です。

"One Earth Tour" rehearsals at Kodo Village with artistic director Tamasaburo Bando (Photos: Takashi Okamoto)

坂東玉三郎氏と鼓童村にて「ワン・アース・ツアー」稽古(写真:岡本隆史)

鼓童は「グループ」として活動を行っています。剛史は鼓童の外で活動した時(今年はフラメンコ作品に参加した時)、鼓童で演奏している時とは異なる感覚を抱きました。別々に活動しているミュージシャンが、一つの作品のために「グループ」となる…その時の新鮮な気持ち。そして、良い作品を作ろうと他のメンバーと積極的に交流を深めることで、様々なことを発見。そして、彼自身の演奏者としての責任を強く感じたのでした。他のミュージシャンとのコラボレーションの経験は、鼓童のメンバーとしてさらなるステップアップのために、貴重な経験となったのです。

鼓童の舞台以外での経験を経て、心身ともひとまわり大きくなった前田剛史。この夏のアース・セレブレーションでの剛史のパフォーマンス、そして演出にご期待下さい!

※ジョニ・ウェルズ氏によるインタビュのー記事は、英語ブログで全文をご覧いただけます↓

http://kodo.or.jp/blog_en/tag/johnny-wales

アース・セレブレーション2014:8月22~24日開催(新潟・佐渡

鼓童ワン・アース・ツアー~神秘:9~10月(国内)

鼓童交流学校公演


ジョニ・ウェルズ(Johnny Wales)

1953年、カナダ・トロント生まれ。トロント大学卒業(学士号取得)。1975年に初めて日本を旅行、その際、鼓童の前身である「佐渡の國 鬼太鼓座」に出会う。また文弥人形の師匠である浜田守太郎氏にも出会う。1976年カナダに帰国、鬼太鼓座の初めてのカナダツアーの制作を担当。1977~78年、佐渡に住み文弥人形を学ぶ。それ以来、鬼太鼓座、そして鼓童の仕事にたびたび関わりながら、文弥人形の指導、通訳、翻訳、また舞台照明の仕事に従事。その後、文弥人形の指導、活動をしながら木彫師として鼓童の舞台で使用する面を作成。1987年には The Kodo Beat(英文ニュースレター、2011年春に終刊)の最初の編集者として活躍。写真家、イラストレーター、そして Kodo eNews(英文電子ニュースレター、2013年12月に終刊)やブログ作成にも関わる。現在、ジョニ・ウェルズはフリーランス・イラストレータ、アニメーター、木彫師、人形遣い、そして作家としての肩書を持つ。カナダでは7冊の児童向け作品の挿絵を描き、その中の一冊『Gruntle Piggle Takes Off』(Viking Childrens Books出版)において、1996年、カナダの文学作品賞であるThe Governor General’s Awardの候補となる。1995年より、読売新聞にて、東京についてのイラストによるコラムを連載。現在、佐渡にて妻・智恵子と秋田犬のKyla (カイラ)とともに暮らす。

Website: www.johnny-wales.com (英語・日本語)


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